愛のある異世界で
ナナトはセルフィーから身体を離した。
ふたりの息遣いがはっきり聞こえた。わずかに床がきしむ音や、お互いの心臓の鼓動までもが耳に届いた。そのくらい静かだった。吐いた息が白く混じり合い、朝焼けの空に拡散していって、触れ合っていたところがじわりと熱くなった。
ふたりとも全裸で、最低の見た目をしていた。
セルフィーの髪はぼさぼさで、くすんだピンクの表面にフケか埃かわからぬなにかが大量にこびりついていた。白い肌は逆にグレーみを帯びて粉っぽく、内にある静脈の流れを際立たせていた。
柔らかな風とともに獣じみた臭いも漂ってきて、ってこれは俺の体臭か?
気恥ずかしさと掌に残った皮膚の質感に、ナナトがセルフィーから顔をそらすと、彼女の後ろには爆発に飲まれた街がどこまでも広がっている。
あれだけの大都会が嘘みたいな更地になっていた。塔の周囲は数百メートルにわたってクレーター状にえぐれ、その外側には大小の瓦礫しか見えなかった。番地も通りの概念もなくなった灰色の一帯はのぼり始めた太陽に染まり、淡い濃淡を作り出していた。
「お前ら凄いやんか」
背後からエマの声がした。
見返ると、すぐ近くにエマが立っている。
「どうやったんやこれ?」
「え、あ、あの……」
「あの回復魔法やろ? キュアスフィアゆうたっけ?」
彼女は全裸のナナトたちと違い、ひとり変わらぬ服装で、髪型も普段のツインテールに戻っていた。ずるい、と思ったのもつかのま、彼女はニヤニヤ笑いながらナナトたちに近づき言った。
「ワイがお前に魔力やったからな? せやろ?」
跳ねた関西弁を話す小ぶりな唇が朝日に輝いていた。彼女が持っていた膨大な魔力、その受け渡しがどのようにして行われたのかを思い出し、ナナトは慌てた。
「や、そ、そんなことないから!」
「いやいやそんなことあるやろ。お前の情熱的なキス、めっさよかったで!」
「は?? じょ、じょじょ情熱的ってなんだよ!?」
「あれが情熱的やなかったらなんなんや? あんときはホンマ、腰抜けるか思うたで」
そう言って、彼女はナナトに抱きついてくる。
「ひゃん!」
突然の出来事に、ナナトはぎょっと肩を震わせる。彼女の声音からは棘のようなものが失われ、瞳はしっとり潤み、瞳孔がハートマークな感じで、……っていうかこいつ、こんなキャラだっけ? いや変だなにか違うだめそんなとこ触んなって裸だからヤバいから……
「ち、違うから! ぜ、全部、セ、セルフィーのおかげだから」
冷たい視線を向けるセルフィーに気づき、ナナトは慌ててエマを突き放す。
「いやマジで、セルフィーさんいないと、みんなもう死んでたからね?」
セルフィーはむっとした表情のまま黙っていて、ナナトは彼女を直視できない。
「マジマジ、マジにすごいっすわ。セルフィーさん様様っすわ。ね、ね。だからセルフィーさん、ぜひぜひ説明してくださいって、ははっ」
自分でもアホかと思うほどの愛想笑いで強引に話を振って、ナナトは一歩後ろに退いた。太陽がセルフィーのちょうど後ろにくるかたちになって、表情がわからなくなったのがありがたかった。
「お前やなくて、セルフィーがこれを? ……ありえんやろ?」
セルフィーは答えず、エマのほうから口を開く。
「ひょっとして、“死”や“魂”そのものの概念を書き換えたとか?」
そう言う彼女の声には、いつもの嫌らしさが戻っている。
「いやいや、そんなことありえへん。神やないんやか――」
そこでセルフィーが吠えた。
「いや、私が神だから!」
エマに迫って唾を散らす。
「私たちがこの世界を作ったんだから!」
「は?」
「私たちじゃなかったら、なにも生まれなかったんだから!」
――そうだ。
セルフィーの凛々しい声に、ナナトはぎゅっと拳を握り込んだ。嬉しいような、恥ずかしいような、熱い感情が腹の底から湧き上がってくるかのようだった。
そうだよ。俺たちは世界の神。俺たちこそ、この世界を救った勇者なんだ。
セルフィーは説明する。
核爆発で街は壊滅したが、彼女は土壇場でこの世界の理を改変した。肉体は復活し、魂はそれぞれの肉体へ。そもそもフィクションの世界では、ちょっとした核爆発程度じゃ死なないキャラクターで溢れてる。この世界でもそうなのだ。最初からそう決まっていたのだ。気分一つで物理法則が変わってなにが悪い。なぜなら彼女にはナナトから受け継いだ――
「愛の力があれば、これくらい余裕だから!」
その言葉に、ナナトの心臓は貫かれる。
「え、ちょ、え、セルフィーさん!?」
「愛さえあれば、なんだってできるんだから!」
「愛ってなんやねん愛って。ちゅうかワイのほうがナナトを愛しとるさかいな」
「はぁっ!? 閻魔のくせになに言ってんの?」
「なに言ってんのとはなんや! 閻魔相手にその口の聞き方、覚悟はできとんのやろな」
「いやちょっと、ええっ!?」
いがみ合う二人を見て、ナナトは混乱した。
え、嘘ちょっと待って? これってつまりセルフィーもエマも俺を好きってこと? マジで? 嘘でしょ? あ、でもよく考えたら、そうかもしれん。だってどっちも俺からキスしてないし、向こうからキスされたし……
――もしかして、ここにきてハーレム始まっちゃいました!?
セルフィーが片手を掲げ、エマが体重を落とし刀の柄に手を伸ばし、ナナトが、まぁまぁ二人とも、的なことを言おうとしたとき、
「メシア様だ!」
足元から人の声がした。
手すりもなにもないビルの縁、その真下へと視線を向けると、いつしか裸の人々がたくさん、建物を取り囲むように集まっていた。
「おぉメシア様! ……と、なんかよくわからん人たち!」
「よくわからんってなんやねん! 俺は勇者だ!」
ナナトはエマに影響された関西弁で突っ込むが、彼の言葉は無数の叫び声にかき消される。
「メシアさまー、こっち向いてー」
「お美しい! まさしくこの世の希望だ! そのとなりの赤い子もすごい綺麗だし」
「で、あの男は結局誰なんだ? 僕のメシア様に手は出させないぞ!」
人々は口々に叫び続ける。それはビルの周囲にとどまらない。瓦礫の山を超え、谷を超え、四方から数え切れぬほどの美女やイケメンたちがわらわらと救世を求め集まってくる。
「……まぁええわ」
そんな光景に、エマは抜こうとしていた刀から手を離す。
「ワイはもう帰らせてもらうで」
彼女はため息混じりに続けた。
「今はお前らの相手してる暇はないんや」
「あん?」
一方、セルフィーは彼女へと掲げた手を下ろさない。
「ワイはこれから天国の神を相手せにゃならんからな。ほら……」
彼女はポケットからスマホを取り出し、ナナトたちに見せつけた。液晶にはミサイルを鷲掴みにしたワイバーンがどアップで写っていた。弾頭には某国の国旗が思い切り刻印されていて、
「これが証拠や。あいつだけはホンマしばかなアカン」
「だからってアンタ?」
「あーすまんすまん。先にナナトに手出したんは謝るわ。つーか、お前がそないにナナト好きやと思とらんかってん」
「はあっ!?」
まっすぐ伸びたセルフィーの手がビクリと揺れる。
「いやー、よくよく考えたらこんな奴、全然ワイの趣味やないし。好きにしたらええんとちゃうん?」
「いやちょっと待てよ。なら、ならなんでキスしたんだよ。なんで助け――」
「え? そんなん死なれたらもう拷問でけへんからに決まっとるやん」
「へ?」
「嬲っても嬲ってもなかなか死なへんとか、都合良すぎてたまらんやん」
「あ、うわぁ……」
エマはドン引きするナナトに構わず続ける。
「ま、ナナトがワイのことが好きで好きで、どーしても地獄来たいゆうんやったらかまへんで。セルフィーと一緒に来たってかまわへん。地獄でも重婚は許されとるし、この世界を救った勇者たちや、二百八十二億七千六百年分くらいは減刑したる」
「それで……」
ナナトは言った。
「それだけ減刑されて、いったい懲役何年なんだ?」
「なーに、たったの五億年や」
エマが答えた。
「あっという間やな」
「死ね!」
セルフィーとナナトの声がハモって、二人は顔を見合わせた。
エマはやはりエマだった。風になびく赤いツインテールがサディステックで、細い腕に見合わぬ戦闘力を持った、あまりにも傲慢な地獄の王。このドSのクソ悪魔は、ずっと俺たちをからかっていたのだ。
だけど、
向き合うセルフィーの目はこうも言っていた。こいつにはもう、ろくな魔力が残っていない。今の二人なら余裕で始末できる。
ナナトは生唾を飲み下す。
たしかにそれは十分可能な選択肢だった。
けれど、
「いや……」
彼は小さく頭をふった。
別にそうする理由もなかった。殺しをしてまで神になりたくはなかった。
――こう見えて、俺はここを愛のある世界にしたいのだ。
ナナトは大きく息を吸い込み、
「エアロバースト!」
渾身の風魔法でエマの体を吹き上げる。天高く浮かんだ例のドア。目標はそこだ。
「さっさと地獄に戻れ!」
「あぁ、こんなとこ二度と来んわ!」
そう叫ぶエマの声がみるみる遠ざかる。
「お前らは汚ないこの世界で無期懲役や!」
「汚ないとか言うな! ここは俺たちの世界なんだよ!」
ただでさえ脆くなった足場が崩れに崩れ、ナナトはセルフィーの手をぐっと掴む。エマが天に上っていくにつれ、彼らは地へと堕ちていく。
「せや、ここを新しい地獄にしたろう」
続くエマの声は強風とビルの崩落音でほとんど聞こえない。
「異世界に行きたいとかほざいて死んだアホどもの地獄や。名前はせやな……異世界地獄とか、どや?」
「よくねーし!」
もう一発、エアロバーストを叩き込んでやると、今度こそ完全にタワーの基礎部分が崩れ去る。足場が失われ、セルフィーと絡まって空中に投げ出される。
「メシア様!」
地上で待ち構えているのは、たくさんの人々だ。
狐耳の幼女に、マーメイドの幼女。竜人の幼女に、ハイエルフの幼女。
彼女たちはいずれもナナトの好みであった。だが、彼とセルフィーはイケメンな蜘蛛男に六本の腕でがっしりとキャッチされた。
でも、それでよかった。
ナナトは胸のなかで喜びを噛みしめる。
俺たちはこいつらを生き返らせないことだってできた。セルフィーとふたり、アダムとイブにだってなれた。けど、そうはしなかった。なぜだろう? わからない。というか、いまだセルフィーがなにを考えているのかすらよくわからない。だけど、別にそれでいいじゃないか。
果てない空の中央で、米粒よりも小さい扉のなかへと、エマの体が吸い込まれていくのがはっきり見える。
エマが消えてしばらくすると、そんな扉自体も徐々に薄くなって消えていく。
後にはただ、青い空だけが残されていた。
了




