完全に包囲されている
審判局の周囲を天国警察が取り囲んでいた。
犯人を刺激しないようサイレンを消したパトカーの後ろには、戦車を思わせる青色のドラゴンが二体、どっしりと攻撃の機会を窺っている。上空には数体のペガサスと、一体の黒いワイバーンがゆっくりと旋回している。
審判局の前の道路は封鎖され、周囲の建物には避難命令が出された。職員用の駐車場を挟んだ局の右隣のビルはさっそく徴用され、狙撃手がいそいそと非常階段を上っていく。
ピラティスが署長らとともに現場に到着したとき、ちょうど局の左隣のビルから民間人たちが避難してくるところであった。彼女たち警官と入れ違いに、座民や白森屋、金将などの飲食チェーンが入った雑居ビルから、名誉天国人たちがぞろぞろと安全圏へと誘導されていく。危機的な状況にも関わらず、彼らがむしろ開放的な表情をしているように見えるのは気のせいだろうか。
公園の時計が五時の鐘を鳴らす。ピラティスは正門から中に入る。
入った瞬間、ガラッと空気が変わるのを感じた。
ダルマみたいな防弾のアサルトスーツにヘルメットを被り、透明なライオットシールドを抱えた何十人ものパラディンたちが、騒ぎを聞きつけ集まってきた死者たちをバリケードテープの後ろへと押しとどめている。それもそのはず、名誉天国人と違い彼らを公園外に移動させるわけにもいかない。
ざわつく死者たちを横目に、正門すぐそばの対策本部のテントに入る。
審判局の向かいにある裏・明治公園――西東京中の死者が集まることから“うらめし公園”という俗称がついていた――その正門脇に急ごしらえで設営された対策本部。設営といっても、死者愛護団体の炊き出しのテントを徴用しただけである。
狭いテントの中には、すでに異様な緊迫感が漂っていた。
パイプ椅子に座っていた警官数人が立ち上がり、敬礼でピラティスたちを迎える。ヘッドセットを被った彼らの前にはいくつものモニターが並び、審判局のすべての窓、すべての出入り口が監視されている。
儀礼的な挨拶もそこそこに、ピラティスたち背広組にもヘッドセットが配られる。髪型が崩れるのがイヤだとかいう文句が通用するような仕事じゃない。ピラティスはスカートにしわが入るのも構わずパイプ椅子に腰掛けると、水色のショートヘアをかき分け真っ黒いそれを装着した。
ヘッドセットの簡単な動作確認を行うやいやな、署長がさっそく受話器に手を伸ばす。
「おい、いくぞ」
椅子をきしませ、受話器に触れるか触れないかというところであえて場の全員を見回す署長。そんな署長に皆が固唾をのんで視線を這わせる。
顎を引いて受話器を取り、署長が局に電話をかけた。
五秒、十秒、コールが鳴る。息が詰まりそうだ。
二十秒、まだ応答はない。
三十秒ほど待っただろうか、ヘッドホンから聞こえてきたのはピラティスがよく知るあの女の声であった。
『大変お待たせして申し訳ございません。死者審判局西東京支局長のセルフィーです』
署長が周囲の警官に身振りで指示を出す。ピラティスもヘッドホンとモニターに集中する。
署長はバーコード頭の上でヘッドセットの位置を微調整しながら慎重に口を開いた。
「こちらは天国警察西東京署署長の吉田だ。今そちらからの通報を受けた。状況は? 強盗か? 立てこもりか?」
『はぁ』
「わかった。イエスなら『はい』、ノーなら『はいはい』で答えてくれ」
『はい』
「オーケー、犯人は今、君のそばにいるんだな?」
『はい』
「武装している?」
『はい』
「単独犯か?」
『はいはい』
「さっきの銃声で死者は? 怪我人は?」
『はいはい』
「……わかった。犯人に電話をかわることはできるか」
『はい、じゃあかわりますね』
ピラティスは全身の筋肉がこわばっていくのを感じていた。
――クソ人間どもめ、次から次に事件を起こしやがって。固く握った拳に爪が食いこんでいる。
ピラティスは今日だけでもすでに八人の死者を逮捕している。脱走者五名と、ケンカで二名、盗みで一名。それに加え、公園の茂みからはバラバラにされた死体の一部がまた見つかった。要するに盛りだくさんの一日だった。
そこにきてこれである。
今夜はたぶん徹夜コースだろう。よりにもよって金曜の夕方に……まあ、こればかりは仕方ない。
少しの間を置き、ヘッドセット越しの声が若い男のものに変わる。
『はいー、あのー、なんでしょうか?』
「警察だ。今すぐ投降しろ」
『マジ? やっぱマジなの? そ、そんなのありえない、嘘だ!』
「嘘だと思うなら、窓の外を見てみろ。建物は完全に包囲されている」
『なん……だと!?』
間抜けな声だった。明らかに若い、青年というより少年に近い声。少子高齢化の進んだ現代日本において、若い死者は比較的めずらしい。
モニターで監視している転送室側のブラインドが一瞬動いた気がする。
『くそっ!』
犯人の怒声が耳をつんざく。
『まさかセルフィー、お前通報を!』
『してないけど?』
『じゃあなんで警察がいる。もしかして快慶がっ!?』
『あの状況じゃ快慶にも通報は無理でしょ』
『ならなんで……』
『天国の警察を甘くみないほうがいいと思うけど?』
『うるさい!』
電話の向こうで罵声が飛び交う。犯人を煽るセルフィーに皆の顔がひきつる。
「おい待てっ! まだ話は!」
署長の声に返答はなく、電話は唐突に切られた。
「……おいおい」「まずいぞこりゃ」
テントは騒然となる。
何人もの警官がテントから飛び出し、入れ替わりに別の警官が入ってくる。机の上の機材にぶつかった一人に署長が怒鳴る。
署長だけではなく、ピラティスもまた鬼の形相である。
――おいおい、なにやってんだよセルフィー。あのバカ、犯人とケンカしてどうする。
ブース、カース、胸に栄養取られて飢え死にしろ、アラサウの行き遅れが。ピラティスは脳裏に浮かんだあのピンク髪のクソ女に、思いつくかぎりの呪詛を吐いた。
ピラティスの語彙力は学歴の割りに乏しかった。そしてアラサウの行き遅れという言葉は、そのまま自分に突き刺さるブーメランであることに気がついた。
「くそっ!」
ピラティスは上着を脱いでパイプ椅子に投げ捨てる。
暑くてたまらない。
しかし防弾ベストまでは脱げない。署長の薄い頭頂部も汗ですごいことになっているが、テント内の誰にもそれを指摘できるものはいない。
「狙撃手、配備完了」
「基地局から連絡です。局の電話回線、この電話と直通になりました」
周囲の情況は着々と整っていく。
「署長、審判局内の監視カメラはすべて落ちているみたいですが、正面玄関前にサーモグラフィーの設置が完了しました。ウィッシュー波の最新式のやつです」
搬入されたばかりの一際巨大なモニターをテーブルの中央に設置しながら、技術屋のメタ村が言った。
「ウィッ? それって赤外線のやつとは違うの?」
署長が尋ねる。
「いや話の都合上赤外線のやつでもよかったんですけど、このご時世、赤外線だと壁は透過しないぞ生半可な知識で創作すんなって、サーモ警察にネット上で怒られますからね。だから天国オリジナルの新技術という体にして、それっぽい設定で行こうかなと」
「はぁ? メタ村お前なに言ってんだ? 警察は私たちだろうが?」
「いやまぁそうなんですけど、最近はいろいろと面倒なんですよ……。ま、とりあえず映像出しますね」
メタ村がスイッチを入れると、正面の大きなモニターに赤から紫のグラデーションで色分けされた画像が表示される。それはあの映画などでおなじみの画像、いわゆる赤外線サーモと大差がなかった。
ピラティスはモニターを眺めながら小首をかしげる。メタ村はいったい誰に配慮したのだろう? サーモ警察……一体何者なんだ……?
「うーむ、この銃を持っているやつらが犯人か」
局内には六人の人影が見える。
テントの壁に張られた局内の見取り図と照らし合わせる。全員が手前の待合室側にいるようだ。その内わけは銃を持った二人と、正面向かって両手を上げる三人、そして手を上げず椅子に座っているもう一人。
ここ数十年ほどでうるさくなった死者の個人情報がどうだとかで、今審判局にいる死者たちが誰なのか、あの声の主が誰なのか、それすらわからないのがもどかしい。
「えっ、なんだこれ!? ちょっとこれを見てください!」
メタ村が眉をしかめ、手を上げる三人のうちの一人を拡大する。体格から明らかに男だろう、赤から黄色で色づいた人物、その腹部だけが異様に青い。
青色――すなわち低体温。
「撃たれたんだ!」
署長が叫んだ。作業をする警官たちの手がとまり、ピラティスも息をのむ。
男は腹部を撃たれたにも関わらず、無理やり立たされている。
「オーマイガッ!」「残酷すぎるだろ」「なんてこった……」
各々が落胆の声を漏らす。
地獄だった。天国なのに地獄があった。
「くそっ……亡者のカスどもめ!」
署長が机を叩くと画面と一緒に犯人たちも揺れる。
「おいなんでもいいから情報を集めろ!」
「並んでた死者どもに局に入った奴について聞き出せ!」
ピラティスも棒立ちの警官たちを散らす。
「早く、急げ!」
テント内は再び慌ただしさを取り戻す。
署長は長い息を吐き顔の前で手を合わせると、モニターからは目をそらさずピラティスに言った。
「なぁピラティスくん、今電話に出た女局長っていうのが君の友人なんだよね?」
「あ、はぁ友人、ですか……?」
署長の出し抜けな発言にピラティスは若干まごついた。
「彼女について教えてくれないか? なんでもいいから」
「は、はい」
ピラティスは答えた。
「まずセルフィーは未婚です。恋人もなし。髪はピンクのロング、胸のサイズはF。バーニャカウダが好き、といいつつ実際の好物はメロンクーペン。ハイブランドの鞄をたくさん所有していて……あ、あとゲイ友がいます」
「ゲイ……? いや、そういう趣味嗜好的なやつじゃなくて、例えば誰か彼女に恨みを持つような人物がいたとか?」
「恨み……ですか?」
ピラティスは顎に手を当て目を閉じた。
そもそもピラティスとセルフィーは友人ではない。ここに来る車中、署長には大学の同期とだけ伝えたのだが、微妙に勘違いされてしまっていた。セルフィーとは同じテニスサークルだったが、在学中は馬が合わず、卒業後は連絡すら取り合っていなかった。
友人でないならなにか?
強いていうなら婚活仲間といったところだろう。
つい五十年前、二人はとある婚活パーティーで再開した。というか、セルフィーにピラティスの“狩り場”が一方的に荒らされた。
久々にセルフィーを見たピラティスはショックを受けた。どんなアンチエイジングを行っているのか、学生時代そのままのセルフィーがそこにいた。話しかけると、会話の中身まで若々しい。カフェ巡り、アロマテラピー、夏フェス、なぜかゲイ友まで自慢された。初参加だというそのパーティーでも若いIT社長といい感じで(ただしカップル成立には至らなかったが)、と嫉妬に悶えることこの上なかったが、人脈は利用できそうだったので連絡先を交換した、ただそれだけの関係だ。
ピラティスは目を閉じたまま眉間にしわをよせる。
彼女はもうすぐ千歳の誕生日を迎えてしまう。いわゆるアラウンドサウザント、アラサウである。実家からのプレッシャーは年々強くなり、結婚という単語が常に頭の八十パーセントくらいを占めている。
正直言って自分の容姿には自信がなかった。背が高すぎるし貧乳だし、なにより地味だ。セルフィーなどには叶うわけもない。
だから学生時代は勉学に打ちこんだ。大学を主席で卒業し天国警察に潜りこみ、ひたすらにキャリアを重ねてきた。
それがいけなかった。
卒後出会いは一気に減った。運良くいい人に出会っても、当直や急な呼び出しでデートはしょっちゅうキャンセルになるし、職種の性質上、相手を萎縮させてしまう。事件がそこにあるのだ仕方ない、などと言い訳し、ピラティスはさらにキャリアに逃げた。しかし悪循環、女子力ではなく体力、機動力だけが増していく毎日。制服がわりのスーツ以外、服はほとんど持っていないし、肌が荒れても化粧水を塗る余裕もない。金ばかり貯まって使う暇がないから、マンションだって買ってしまった。
婚活パーティーはそんなピラティスに残された最後の希望だった。
それを金持ちが集まるからなどという不純な動機で参加する女、性格が悪くても顔だけはいいからカップル成立しなくてもチヤホヤはされる女、自分よりはるかに成績悪かったくせに優良ホワイトに勤める女に、この五十年間荒らされ続けている。
「あのーピラティスくん、聞いてる?」
ピラティスの思考は署長の声によって中断した。
「は、申し訳ございません。なんでしょうか署長?」
「なんか地獄の監査官が噴水広場のとこで立ち往生してるんだって。ピラティスくんさぁ、ちょっと行って対応してくれない? いやまぁ私としてはあんな奴別に来なくてもいいって思うよ、でも一応立場ってもんがあるじゃん。……ね?」
「了解しました」
ピラティスはジャケットをつかみ、ひとりテントの外に出た。
審判局に大きな動きはない。ただ詰めかける野次馬の数がさっきより増えている。上空では報道の灰色のワイバーンたちがペガサスから注意を受けている。
太陽はすっかり高層ビル群の陰に隠れ、淡い黄昏が揺らいでいる。まもなく日が暮れる。びゅうっ、と吹いた風がピラティスの水色の髪を揺らす。常春の天国でも夜は冷える。上着を持ってきたのは正解だった。
――仕事辞めようかな、ふいにそう思った。
このまますべてを放り出してホットヨガスタジオに直行するのだ。
それはとてもよい考えのように思われた。晴れることのない霧のような疲れがピラティスの全身にまとわりついていた。
「あっ、ピラティス先輩!」
頭を垂れ、背を丸めて歩くピラティスの耳に快活な男の声が響いた。
即座に前を向く。
「なんかヤバいみたいッスね」
その声に、陰りを帯びたピラティスの顔に光が差しこむ。
明朗だった。明朗がネクタイを揺らしながら駆けてきた。
細マッチョな褐色肌に映える短めの銀髪。キリッと引き締まった顔、ピラティスすら軽く超える高い身長。明朗はピラティスの三百歳年下の部下である。
腕まくりした彼の白いワイシャツは汗でうっすらと透けている。
――もしや下になにも着てないのでは?
「先輩、疲れてねーッスか?」
明朗がピラティスに屈みこむように言った。
「だ、だだ大丈夫だ」
ピラティスはそのきらめく赤い瞳を直視できない。
「なら良かったッス。あれでまだスタミナ続くなんて、やっぱ先輩はすげーッスよ」
その言葉に疲れが吹き飛ぶ。辞職などという迷いも霧散する。
「そ、そんなことはない」
「いやいやー、今日の二件目とかパナかったッスもん。俺追いつけなかったッスし」
明朗の澄んだ声は犬みたいに真っ直ぐで親しげで、とてもお世辞のようには思えない。こんなにストレートに私を褒めてくれる男なんて、こいつ以外には見たことがない。
「バカ、鍛え方が違うんだよ、お前ももっと頑張れ」
そう言って、ピラティスは熱くなった頬を悟られないようにバリケードテープをくぐる。
「あ、ちょっと待ってくださいッス」
ざわめく群衆を押しのけ進む。
「先輩、先輩ってばー」
明朗はつい先日交通課から異動してきたばっかりだ。犯罪死者を殺したときの細々とした書類だの、地獄の役人だの、死者愛護団体に対するあれこれだのといった苦労もまだ知らない。つまりは未熟、まだこの課に染まっていないのだが、そこがまた可愛い。できればこのままウブでいて欲しいとすら思う。
ピラティスは明日、そんな明朗と食事に行く予定であった。デート、三十年ぶりのデートのはずだった。しかしそれも流れた。仮にこの事件が今日中に解決したとしても、明日はその処理に追われることだろう。
生ゴミの匂いのする死者たちの喧騒を抜けると、もう夜だ。
「ま、一日前倒しになったって考えれば……」
「ん? 先輩、いまなにか言ったッスか?」
「い、いやなにも言ってない。おい明朗、このヤマは絶対に今日中に解決するぞ、全員逮捕だ!」
「ッス!」
その笑顔にすっかり気をよくしたピラティスは財布から一万円札を取り出した。
「おいこれでコンビニ行ってこい、アンパンと豆乳十個ずつな、釣りは好きにしていい」
「了解ッス!」
金を受け取った明朗が公園を一目散に駆けていく。
その逞しい後ろ姿、広い背中に、ピラティスの顔はふにゃふにゃに綻んでいた。
明朗はもはやピラティスの生きがいだった。彼と一緒ならどんなハードな労働だって乗り越えられる、心の底からそう思う。
明朗とはフェイクブックで繋がっているし、ライソでやり取りしてるし、妄想の中では猫カフェに行ったり、手を繋いだこともある。実質付き合っているみたいなものだった。
――やがて結婚に発展するのは間違いない。
ピラティスは自らの心の中のピンク女に呪詛を吐く。ごめんだけどセルフィー、先にゴールするのは私だから。お前は一生カップル不成立でも続けときな。
「……さてと」
ピラティスはスカートのポケットから、ガラスの小瓶を取り出した。エスタロンモナ――カフェイン剤である。彼女は自販機でレッドプルを買い、それを数粒豪快に飲み下す。
「よし!」
両手で頬を叩き気合を入れると、ピラティスは噴水広場向かって歩き出した。