ペナルティキス
「この世界は白紙に戻るんや」
エマのその発言に、ナナトは言葉を失った。
――セルフィーは裏切った。
天国での事件やピラティスのやり口、エマの所業などから判断し、神がこの世界を破壊しようと思っても無理もなかった。むしろ当然といえた。いつまでたっても助けに来ないセルフィーにも、いい加減愛想がつきたところだった。
――ここは俺が作った世界なのに……
ナナトの目に涙が滲んだ。
俺こそ最強。自分こそが神のはずだった。実際、先のバトルで受けた傷も、快慶の腕も、キュアスフィアで完璧に治癒している。いくら寒くとも凍傷にはならないし、超高層ビルから飛び降りてもなんとなく生きてるし、種族が違っても言葉は通じる。
なぜならこの世界も、ここに住む人々も、みんな俺が作ったから。女も、魔法も、インターネットも、全部俺が作ったんだ。俺こそが絶対の神で、最強で、チートで、無双できて……
「お前は神の掌の上で踊らされてただけや」
そうだった。
そもそもこの世界は俺だけのものじゃなかった。空と大地と現代的な世界観はセルフィーが作った。男、法律と警察、この街などはピラティスが作ったのだろう。たった三人でも、それぞれの思惑が混ざれば、生まれるのはいつもの現実。盗めば捕まるし、すれ違う男はみんなイケメン、そのうえセルフィーは天国の神に寝返り、最後には“核“。あまりに非情、あまりにあっけない現実だった。
誰もが口を閉ざしていた。
ナナトだけでなく、皆はもう何も言わなかった。快慶と明朗は部屋の隅で抱き合って凍えていたし、体育座りのチーちゃんは空気の抜けた風船みたくしなびていた。
だだっ広い会議室を、外で吹き荒れる風と、破壊された電気系統が立てるジリジリという音だけが埋めていた。まるで時間が停止したみたいだった。むしろ、そうあってほしい。時間など一秒たりとも進んで欲しくなかった。
――バラバラバラバラ。
けれど、一定のリズムを刻む異様な爆音が、どうしようもない状況を引き裂いてしまう。
――バラバラバラバラ。
その音の正体をつかめぬまま、エマに促され、ナナトたちは半壊した留置所へと移動する。爆音は外に近づくほど大きくなって、崩れた壁を回り込んだ瞬間、激しい吹雪を切り裂き、視界の端から黒く巨大な物体がナナトたちの前に滑り込んでくる。
――ドラゴン? それともワイバーン?
だったらどれだけ良かっただろう。
爆音の主たるそれは、異世界にはあまりに合わぬものだった。
軍用ヘリコプター――それは機体の前後に二つのローターが配置された現代的なヘリコプターだった。漆黒のカラーリングは夜の闇に隠れるためで、翼のかわりにブレードを回す、ただのヘリコプター。どこまで行っても現実だった。
ヘリはナナトたちが立つ縁へじわじわと接近し、横付けとなるかたちでホバリングして静止する。風の流れが変わり、サイドテールですらなくなったエマの髪が方向性を見失って舞い上がる。吹きさらしの留置所に積もっていた雪も吹き飛ばされて消えていく。
大気を切り裂くブレードにかき消されぬようエマが怒鳴った。
「乗れ!」
「は?」
ナナトは眉根を寄せた。
もはや何が起こっても驚かない。でも、なぜ? 世界に核が落とされようといういま、どこへ行くというのか?
「事情が変わった。お前らの拷問は後回しや」
ヘリ側面のドアが大きく開く。
中に立つ赤いスーツの男が差し出した手を掴み、エマがヘリへと乗り込んだ。無軌道に漂っていた長い髪に重力が戻り、彼女は言った。
「ワイと一緒に地獄へ行くんや」
手が伸びて、ナナトのかじかんだ手がぐいと掴まれる。エマの手は意外なほどに柔らかく温かかった。ヘリに乗ったエマの視点は、初めてナナトと対等になっていた。
「地獄ってなんだよ?」
「逃げるんや」
「だから逃げるってなんだよ?」
ナナトはエマの手を振り払う。
「お前……」
エマは小さく舌打ちすると、再びナナトに手を伸ばす。
「こんな世界なんか、捨てろっちゅーことや」
「は?」
「助かるんやで」
「でも、この世界の人はどうなる?」
「全員死ぬやろな」
「そんなっ――」
「そんなことがなんやっ!」
ナナトより先にエマが吐き捨てた。彼女は小さく肩をすくめ、ナナトに鋭い瞳を向けると、口早に言葉を継いだ。
「ワイにとってはこんな世界、なんも意味もあらへんのや。こんな世界、絵に描いた餅みたいなもんやろが? 住人は全員NPC。そんなこと作ったお前がよぅ知っとるやろ?」
「んなこと言ったって……」
強い風が吹き上げ、ヘリの揺れる。バランスを崩した機体がビルからわずかに離れ、エマの手が遠ざかる。途切れた床と黒い機体の隙間、絶え間ない吹雪の隙間から、ぼやけたNPCの夜景がナナトの視界に入り込む。地平線いっぱいどこまでも続くビルの群れ、窓から漏れる無数の光、たしかにそれらはすべて作り物で、一ヶ月前には存在すらしていない。
「でも……」
そんな世界もほどなく消える。核の炎に飲み込まれる。そして、創造主の俺だけがそんな現実から逃げられる。
再びヘリが近づいて、光を映さぬヘリの黒とエマの赤とが戻ってくる。
「もっかい聞くわ。どうすんのや?」
「あ、アタシは行くわ。明朗と一緒ならどこだっていいわ」
後ろから快慶の声がした。
ナナトが振り返ると、例のネコを抱えた快慶が立っていた。
「明朗もそう思うわよね」
「ニャー」
明朗と呼ばれたネコが鳴いた。快慶の胸で丸くなるその鳴き声は穏やかで、ヘリの爆音の中でも澄んで聞こえた。
「わかった」
エマが言った。
「お前らも大切な証人や」
エマはナナトへ差し出していた手を引っ込め、親指を立てると肩越しに後ろを示し、乗れというジェスチャーをする。
「減刑も考慮したる」
一人と一匹がナナトの脇を抜けてヘリの中へと乗り込んでいく。乗り込む瞬間、彼らはナナトをチラと見た。無言の目には哀れみの色が浮かんでいた。
「お前はどうすんのや?」
エマは続けてチーちゃんに尋ねた。
「…………」
彼女は壁際でぼんやりうなだれたままなにも答えなかった。いや口元がボソボソ動いて、何かしら言ったのかもしれないが、ヘリの音が大きすぎて何も聞こえなかった。
「…………」
わずかな沈黙をはさんで、チーちゃんは小さく息を吐いた。彼女はそのままぶるりと身震いすると、顔を上げゆっくり一歩踏み出した。
「…………」
まるで動けないナナトの側を、チーちゃんが幽霊のようにすり抜ける。毒気どころか生気をも失った彼女は、吸い込まれるようにヘリの奥へと消えていく。
「で、結局お前はどうすんのや?」
その一部始終を見届ける前に、再びナナトに手を差し出し、エマが問う。
「ワイは別にどっちでもええ。証人は一人いれば十分や。お前がこの世界と心中したいゆうんやったら別に構わん」
ナナトは答えることができず、ただその場に立ち尽くす。
「ただな。もう時間がないんや。早よ決めてもらわな困んねん」
――俺はどうしたらいいのだろう?
逃げたほうがいいんだろうか? エマの言う通り、安全な地獄で無限の懲役を受けたほうがいいんだろうか?
でも、
そもそもセルフィーは本当に裏切ったんだろうか? ネットの投稿がセルフィーのものだってどうやってわかるんだ?
考えろ。
ナナトは、考えろ考えろ考えろ、と自らに言い聞かすが、まともに考えようとするときに限って、アイデアは浮かばない。恐怖、謀略、裏切り、破滅。嫌なことばかりが頭をよぎる。
こんな気持ちになるくらいならむしろ拷問でもしてくれた方がよっぽどマシだと思う。
「いや、でも――」
ナナトの声は、ヘリの轟音にかき消される。ただでさえ鋭いエマの瞳がより一層鋭くなる。
「いやでも、俺、異世界に召喚された勇者だし……」
そう言いながら、ナナトは自分でも驚いていた。俺はなにを言っているんだ!?
「あん? 自分なに言っとんのや?」
ナナト以上に目を丸くして、エマが問う。
「本気か? 核やで? 回復魔法がどうとか、そういう次元やないんやで?」
「や、だって――」
冷たい空気を一気に吸い込んで、ナナトは口ごもる。
――無謀だなんてわかっている。
でも、俺は勇者になりたかった。魔王を倒して、原住民にちやほやされて、ヒロイン囲ってハーレム作って……
そんな俗っぽい願いもたしかにあったが、なぜかこの瞬間ナナトの脳裏に浮かんだのは、リゾートで強盗した際に殴られたオークのオヤジの顔だった。
なんでもない商店のおっさんだった。俺を警察に突き出し、この状況を作り出した張本人。彼はただのNPC、プログラム、操り人形だ。
だけど、
そんなこと言ったら、俺はどうなる? ここで逃げるのは、本能のまま生きる動物となにが違うんだ? そっちほうがNPCで、モブじゃないか。
“動物”という言葉から連鎖的に意識に上ってくるのは刑務官の獣人たちだ。あいつらもカスだった。正直言って守りたいだなんて思えない。
――だけど、俺はこの世界を作った。
ナナトは“責任”という二文字を思い出す。それは生前、彼がひたすら逃げ続けてきた言葉だった。腰を据えて考えたことのない言葉だった。「義務教育終えたら自己責任」そう言ったのは親父だったか? いやでもさすがにちょっとこれは自己責任とかいうレベルじゃなくね? セルフィーとピラティスにも責任あるっしょ。
まぁ、
どちらにしても、向き合うのはきつい。といっても、今ここでこの世界を救えるのも俺だけだ。しかも倒すべき敵が誰なのかもわかっている。
ナナトは今一度息を吸い込んだ。
「俺は乗らない!」
生前そして死後、ここまでのお膳立てがあっただろうか?
いや、ない。
腹に力を込め、エマの赤い瞳をぐっと見上げ、ナナトは言い直す。
「俺はこの世界を救う!」
数秒の間があった。
白い息とともに吐き出されたナナトの上ずった声は、雪にまぎれ眼下のビル群へと落ちていく。
またしても強い風が吹き、プロペラの回転数が変わる。機体が大きく揺れて、差し出されたエマの手がドアの上枠を掴む。
「はっ」
エマが鼻で笑った。
「面白い。お前一人で神に抗おうゆうんか」
「そうだ」
「さすが考えなしに死んだアホは違うな」
「なんとでも言え」
エマの言う通り俺は考えなしだ、とナナトは思う。自分が作ったのに、この世界はありえないくらい複雑で、これからどうすればいいかやっぱりよくわからない。
それでも、
「俺は異世界に召喚された勇者なんだ!」
この一言が言いたかった。絶望的な状況だけど、なんだかよくわからないけど、だからゆえ最高に気持ちよかった。これを言うため死んだのだと思った。
「ほうか。せやったら――」
そのとき突然、ナナトの冷たく乾いた唇の上で、ぷるんとした感触が弾んだ。
――え?
エマがドアの縁をつかんだまま、身を乗り出していた。一瞬遅れ、彼女の唇が自分のそれに接触していることに気がついて、ナナトは思わず体を反らそうとするも、間に合わなかった。
唇は太陽のように熱かった。
待て、と口に出すこともできず、肩に手を回され押さえつけられ、強引に魔力を注ぎ込まれる。
その強烈なパワーに目をつむると、まぶたの裏側に広がるのは七色に輝くサイケデリックなマントラである。さっきとはまるで量が違う。濃厚な搾りたてのミルクのような、匂いと味。息が苦しくなって、濃すぎるエネルギーに頭がクラクラしはじめたところでエマは唇を離した。
「お前はまだ潰しがいがあるみたいや」
いつものように不敵に笑って、エマはつぶやいた。プロペラとエンジンの爆音の隙間から、彼女はたしかにこう言った。
「ワイの魔力のほとんどを注ぎ込んだ。せやから、ま、せいぜいあがけや」
ヘリが急上昇する。ナナトの肩から手が離れ、エマはヘリとともに漆黒の空へと溶けていく。
結晶化した魔力なのか、それとも街の明かりに照らされた雪なのか、美しいきらめきが空にプリズムのごとく輝いていてきれいだった。




