Q & Q
狭い路地の片隅でセルフィーは喘いでいた。
咳き込んでも咳き込んでも肺に水が溜まっている感じがして、どれだけ呼吸しても酸素が足りない。視界はかすみ、浸水は脳の中にまで達している。冷気は濡れた体から熱を奪い、骨から内臓から氷漬けになってしまったかのように思われた。
そんな彼女の隣で、ピラティスが死んでいた。
炎上した室外機の残り火がくすぶっていた。その淡いオレンジが、ピラティスの紫色の肌をゆらゆらと照らし出す。水色の髪は一部焦げ付き、一部は抜け落ちて、水ぶくれのできた頭皮がむき出しになっている。皮膚は紫だが、唇はやけに白く、彼女が事切れていることはあきらかだった。
一層風が強くなって、セルフィーの胸はうずいた。
――これは正当防衛だ。仕方ない。私は悪くない。
ピラティスのことは心の底から嫌いだった。正直いって、なぜ今まで付き合いがあったのか不思議だった。死んだ今ですら、最悪のエピソードを無数に思い出せる。
――でも、なにも殺さなくてもよかったんじゃ……
流された血に雪が溶けうっすらと湯気が上がっている。血と下水が作り出す汚らしいマーブル模様の上に雪は積もらない。ただひたすらに血液を冷やし、ピラティスが生きていたことの痕跡を消していくだけだ。
後悔が濡れて重くなったコートとともにセルフィーの両肩にのしかかる。
冷静になってみると、ピラティスはどうやら記憶を失っていたようだ。おそらく落下時に頭でもぶつけたのだろう。ならひょっとすると、騙すなり懐柔するなりして平和的に解決することもできたんじゃないか? この狂った世界をサバイヴするための有用な情報共有ができたんじゃないか?
凍てついた風がビルの隙間を吹き抜けて、重低音を響かせる。それはまるで動物の唸り声のようで、次はお前を食ってやるとでもいうようで、セルフィーの身震いはおさまらない。濡れて凍りかけの前髪が不快で、たまらずかき上げようすると、シャリッという音がして、指先に嫌な違和感を覚えた。
見ると、先の戦闘でせっかくのネイルが欠けていた。指先からぽろぽろとラインストーンが転げ落ちていって、
慌てて拾おうとした拍子に、ナナトの顔が頭に浮かんだ。
不安定な脈がなおさら乱れた。
「一週間後に助けに行くから」
そんな言葉が、あたかもそこらを漂うピラティスの魂によって囁かれたかのように感じられた。錯覚だと言い聞かせようとしても、あまりの恐ろしさに、セルフィーはその場から逃げるように走り出す。
――あれから、どれだけ経った?
心のなかの問いには、誰も答えない。
そのかわり、吹雪にかすむセントラルタワーの上部が再び爆発する。
あそこにまだナナトがいる。
――約束を守らないと、どれくらい懲役食らうんだっけ?
ふと、そんなことを考えてしまって、ハッとする。
私はいったいなにを考えているんだ? いまさらあいつを助けようとでもいうのか?
走る速度が上がる。風が頬の肌を切り、涙が凍る。あれだけ水を飲まされたのに喉はもうカラカラだ。
ナナトなんて知らない。
あんなやつどうでもいい。だって私はもうセルフィーじゃない。女神じゃない。脱獄犯でも殺人犯でもない。関係ない。
小汚い路地を抜け、空き缶を踏み潰し、おそらく凍死しているであろう浮浪者を飛び越えて、セルフィーは再び大通りに戻ってくる。
そこでセルフィーは立ち止まらざる得なくなった。
度重なるタワーの倒壊に、ドライな街の住人たちもさすがにざわついていた。セントラルタワーから少しでも離れようとする者たちが通りを埋め尽くし、車道まで溢れかえっていた。さっきまで誰もいなかったはずなのに、あたりはもう人、人、人。あまりに人が多すぎて交通はほとんど機能しておらず、乗り捨てられた高級車に、別の高級車がクラクションを鳴らしまくっている。
ここは、セントラルタワーからまっすぐ伸びた通りの一本だった。
セルフィーはタワーの方を見た。雪のせいで、やはりタワーはよく見えなかった。
右に曲がれば、ナナトのところへ向かうことができる。
左に曲がれば、すべてを忘れ別の人生を送れるだろう。
答えは決まっていた。
セルフィーは迷わず左に曲がった。人々の流れに順当に飲み込まれることを選んだ。
アクラーレン、シャガー、オメガロメオ。
打ち捨てられた車を間をすり抜ける。
思えば、高級車なぞ興味はなかった。彼女にとって、興味があるのはエンブレムだけ、それを所有している男のステータスだけだった。ただ金持ちにすり寄るため、話を合わせるための手段に過ぎなかった。
プガッティもペントレーも、誰もがそれを所有している世界だと、なんのステータスにもならないのだ。
死者審判局の職員であることも、神の親族であることだって、ここではなんの意味もない。
そんなのは……
背後でタワーが再び爆発する。群衆が悲鳴をあげ、パニックの波が後ろから前へと広がっていく。
取り返しのつかないことが起ころうとしている。
だけど、決して振り返ってはダメだと、本能が告げている。
大丈夫だ。ちょっとネットで炎上したところで、アホどもは一週間も覚えちゃいない。あんなのは一種のコンテンツ。ただの暇つぶしに過ぎず、別のなにかですぐに上書きされる。
だから、
私はこの世界で、まっさらな経歴で、一からやり直せる。ヤバくなりゃ、最悪また誰かの免許証を奪えばいい。
――そんなこといって、お前にまともな交友関係を築けるのか?
できる! わたしならできるんだ!
――どうせピラティスみたいに誰からも忘れられて、孤独に死ぬだけだ。
違う!
セルフィーはまたしても立ち止まっていた。
――でも。
この世界には、私のことを覚えている人間がただ一人だけいるじゃないか?
後ろから見知らぬ男が言った。「なにこいつ、ホームレス? 急に止まんなよ」
同じく背後から女の声もする。「臭っ。マジきもーい。たっくん行こ」
カップルたちは棒立ちのセルフィーを脇を颯爽と駆けていく。追い抜きざまに男が舌打ちし侮言を吐いたが、セルフィーの耳にNPCの言葉は聞こえなかった。
NPCなんて、NPCどもなんて、別にどうでもいいじゃないか。
見ず知らずのネットの有象無象でなく、リアルな一人に承認されればそれでいいじゃないか。
仮にたった一人だとしても、ゼロではない。
しばらくそうやって立ち尽くしていると、胸の奥でふつふつとこみ上げてくるものがあった。
彼女は大きく白い息をついて、タワーを振り返った。
「え?」
思わず声に出た。
あれだけの群衆が誰もいなかった。
いや、いるにはいるのだが、みんな死んでいた。
あまりにも異様な光景だった。
降り注ぐ雪のなか、無数の人間・亜人・獣人が口から胸から腹から血を流し死んでいて、その動きを完全に止めていた。渋滞する車のフロントガラスの内側にも無残な血しぶきが残されていて……
呆気にとられるセルフィーのすぐ近くで、赤いマラセティが豪快に爆発する。
玉突き状に爆発が連鎖し、吹き荒れる熱風に皮膚の表面が一気に熱くなる。なにもかもが、爆煙に陰り見えなくなる。
――いったい、なにが起こっている?
その答えはほどなく明らかになる。
炎の壁のゆらぎの中から、そいつは現れる。
炎よりももっとどす黒く赤い髪。カーディガンにタータンチェックのスカート、元はどこかの学校の制服だったものは血で赤く染め上げられ、ボロボロになっている。
熊廣血広――天国で死んだと思っていたはずの殺人鬼。
彼女が手にしたナイフが、炎に照らされきらめいていた。彼女の耳に無数に開けられたピアスが、燃え上がる車のハザードランプにきらめいていた。いやきらめいているのは金属ではなく、そこに付着した誰かの血であった。
「お久しぶりです。セルフィーさん」
彼女はセルフィー向かって歩きながら言った。悠然と、炎や死体など意識させぬ平常のトーンで言った。
「もしかしてイメチェンしました?」
「…………」
一方その圧に押し負けて、セルフィーは指先ひとつ動かせなかった。
この世界には、ナナト以外にもセルフィーのことを覚えている人間がいるとわかったが、そんなこと知りたくなかった。
ほどなく間合いに入った熊廣が言った。
「早速で悪いんですけど、死んでもらえますか?」




