We Fenced Other Garden with the Bones of Our Own
無残に開いた大穴から、雪とともに凍てつく風が吹き込んでくる。
街の明かりが吹雪にぼやけ、眼下には幻想的な光景が広がっている。
しかし、ナナトにそれを眺める余裕はない。
エマの飛び蹴りを間一髪でかわす。続く掌底を背を反らししのぎ切る。白い息を吐くたび、鼻の粘膜が痛む。心臓がバクつき、跳ね上がる。とても反撃などできず、ひたすら壁際へと追い詰められていく。
風に吹き上がるエマの髪。赤いツインテールの左側がほどけ、サイドテールになっている。それどころか、彼女は左腕をも失っている。快慶と同じく肩口から骨を剥き出し、血を垂れ流している。
それくらいキスの効果は大きかった。エマから奪った魔力で、エアロバーストがあきらかに強くなっていた。
それでも、
「こんなことやと、三十億は追加やぞ!」
風向きが変わる。
血にまじって、千切れた長い髪がナナトへと飛んでくる。視界に赤いノイズが入るやいなや、一気に距離を詰められる。ガチン、とお互いの右腕がかち合い、視線もまたぶつかった。
エマの赤い目は、獣のように輝いていた。
腕を失ってなお、その勢いは衰えるどころか、むしろ凶悪になっているようにすら思われた。
「なんか言えやゴラ!」
凄まれても、ナナトは答えない。答えるほどの余裕がない。
もう後ろには下がれない。
「エアロバースト!」
かわりに再度、風魔法を放つ。
即座に、爆音。
エマの体が大穴の外へ弾け飛んで見えなくなって、ナナトもまた逆方向――壁――に背中からめり込み、なにもかもが遠ざかる。
豆腐みたく剥がれ落ちるコンクリートの壁が、崩れた柱が、むき出しの鉄骨が見えては消える。火花を散らす配電盤に、なにかが引火し火の手が上がる。砕けたソーラーパネルが空気を切り裂き落下してくる。
ナナトの体は硬い壁を三枚ぶち抜き、高速で回転したまま広いオフィスへと投げ出される。硬い床に半身を摩り下ろされ、机や椅子を無茶苦茶にしてやっと止まる。
――これじゃ諸刃の剣にもほどがある。
口から血の泡を噴出しながらナナトは思った。反動さえなければ、これほど強い魔法はないのに……
しかし、不思議と痛みは感じなかった。よくいうアドレナリンが出てるってやつなのか? 繰り返される拷問に体が慣れたのか? 世界設定の段階であまり痛みを感じないよう願ったからか? それとも、これもいつもの現実逃避・思考停止なのか?
答えは出ないまま、
「こんなんでワイに勝てる思っとるんか?」
落下していく無数の瓦礫を足場を駆け上がり、エマがナナトのもとへ舞い戻ってくる。
「エアロバースト!」
立ち上がる前に飛んで来た膝蹴りの軌道を、上昇気流で強引にずらしきる。
エマが上に消え、もちろんナナトは下へ。
すり鉢状に床が抜ける。
コピー機が爆散し、オフィスチェアーが細かな部品へと分解されていく。そんな紙とゴミで作られた竜巻が頭上に取り残され、秒速30メートルで遠ざかっていく。あとは穴が開き床が天井に変わりさらに新たな穴が開く、その連続、繰り返し。
「くそぅ!」
ナナトは落下しつつ体勢を整える。だがまたしても、エマは柱を蹴り、床を蹴って、高速で彼に接近してくる。
「しつけぇんだよ!」
「うるさいねん!」
Gを負荷した強烈な踵落とし。
両手で受けると、骨が砕ける衝撃が走る。
受け流せないまま、次の蹴りは下から上へ。
床なのか天井なのか、硬いなにかに背中がぶつかる。加速が収まると、もう穴は開かない。ナナトは床の上でバウンドし、壁にたたきつけられて停止する。
ヤバい、と顔を上げた瞬間、エマの拳を眉間が直撃し、
「ぐばんっ!!」
ナナトの顔が面白いほど陥没した。
「あああああぁぁぁぁぁっっっっっ!!」
前言撤回。痛みを感じないとか嘘も嘘。むちゃくちゃ痛い。痛いものはやっぱり痛い。
「うぎゃあぁぁぁぁっっっっ!! あぁーーっ!!」
目玉が固定できず、呼吸もままならくなった彼は声ならぬ声で喚き散らした。
――キュアスフィアを唱えたい。
さっさと唱えて楽になりたい。けれど今それをすれば、エマもまた回復してしまう。つか片腕でこれとか、どう考えてもチートだろうが!
「へ、へアロっ、バっス、トぉ」
今後は上へ。
「待てやアホ!」
エマの雄叫びを置き去りに、すっぽり筒状にくり抜かれたビルの内部を最上階まで逆戻りする。
――このままじゃキリがない。
受け身も取れず、見るも無残な留置所跡地に肩から転がるように着地する。ぶざまだな、と自分でも思う。
いくらエマから魔力を奪ったとはいえ、すべてを奪えたわけじゃない。俺が得たのはたぶんほんのわずか。こんな繰り返しではいつか必ず競り負ける。
急いで立ち上がる。
右側がよく見えない。焦点が定まらず、壊れたカメラみたいに像を結ばない。はるか階下から「出てこいやコラ」と、どすの利いた関西弁がナナトの耳に入ってくる。いや、さすがに幻聴か? 吹雪のなかから、エマの足音が聞こえてくる。
「ナナト逃げて!」
ふいに、快慶の声がした。
なんだ? と思って振り向くも、間に合わなかった。
「あっ」
ナナトの胸のど真ん中を、白光りする刀が貫いた。
「…………」
感情を失った少女の瞳と目が合った。
「…………」
チーちゃんだった。エマの刀を持ったチーちゃんが、ナナトを正面から突き刺していた。
「…………」
彼女は指が白くなるほど強く柄を握りしめていた。刃をつたって流れ落ちた血が雪の上にポタポタと滴り落ちた。グラデになっているはずのチーちゃんの髪が、ナナトにはもう赤の単色にしか見えなかった。
「ダメぇー!!」
チーちゃんの後ろから、快慶の声も聞こえてくる。
エマにばかり注意を向けていたせいか、二人の存在を忘れていた。
「きゅ、あっ……」
さすがにキュアスフィアを唱えようとしたが、舌がうまく回らない。
「きゅブッ、……ブムッ、きゅゴブゴボッ!」
ナナトの血反吐をもろに受けたチーちゃんがよろめき、刀を離す。
そしてナナトは自らの血溜まりの中に崩れ落ちる。はずみで刀がより深く胸を貫き、いよいよ死を覚悟する。
「ちょっとナナトぉ!」
片腕の快慶がナナトに駆け寄り、刀を掴む。
「なにしてんのアンタ困るのよほんとしっかりしなさいって!」
快慶はうつむくナナトを仰向けに押し倒す。肩口を足を乗せ、刀を引き抜こうとする。
「こんなところで死なれちゃ困るのぉ!」
なんだかんだいって、彼もまた重傷である。刀はなかなか抜けず、十数秒ギコギコやって、やっとのことですっぽ抜けた。
ぴゅっ、ぴゅっ、とナナトの胸から血が噴き出したが、その勢いは見るからに弱々しかった。
ナナトは虫の息だった。もはやなにも見えず、とても寒かった。何者かの足音が今度は幻聴でなく聞こえてきて、その圧迫感に正気を手放してしまいたくなって、
「……キュ……ァ、……ス……フィ……ァ」
綱渡りのようになんとか唱えた。
ここで唱えるしかなかった。これで負けるとしても、死ぬわけにはいかなかった。
エナジードレインの影響か、キュアスフィアもまた強化されていて、ナナトの全身は瞬時にポカポカと熱を帯び、傷はみるみるふさがっていき、
足音が止まる。
「え? え!? えちょっとなに? なんなのぉ!? ひゃだぁ!!」
快慶の奇声とともに、ナナトは跳ね起きた。
が、
エマはそこにはいなかった。
かわりに、そこには白く大きなネコがいた。
――なぜこんなところにネコが?
わけがわからなかった。ネコは白い雪よりも白く艷やかな毛並みを風になびかせ、快慶の胸元に勢いよく飛び込んだ。
「ニャジ! ブジャー!」
「え、ちょっとなに? なになになんなの?」
ネコを抱えた快慶は明らかに戸惑っている。
「ニャニャナ、ニャーオギャ!!」
「え? ひゃだ、え? え、え、そんなっそんなことって!?」
「ウニャン」
しかしネコが鳴けば鳴くほど、徐々に彼の顔色が変わっていく。
「そんなぁ、あーでも……」
「ブニャ、ニャニャニャッ!」
「いや、あー……やっぱり、やっぱりあなた明朗なのね!?」
「ンミャ!」
「たしかにそうよね。このネコっぷり、明朗以外ありえないわ」
「ニャ! ニャニャーウウビョビョニュ!」
「え、ちょっとウソ待って。神にネコに変えられて?」
「ニャージニャー!」
「ここに落とされた?」
「フニャ」
快慶とネコが身振り手振りで、コミュニケーションを取っている。その謎すぎる光景をナナトはただ眺めることしかできない。
明朗――って誰だっけ? どこかで聞いたような……??
「ニャニャ、ニャーオニャオグァ」
「え、爆弾? 全部なかったことにする!?」
「ニャ!」
「えぇーっ!? マジ、マジなの? ど、どんだけー」
「そのまさかや!」
そこで突然、背中から今一番聞きたくない関西弁が聞こえて、ナナトは振り向いた。
当然、エマだった。
「いや待て!」
身構えたナナトが「エアロ」まで発したところで、エマが言った。
「ワイはもう戦う気はない。一旦停戦や」
エマが両手を上げて不戦の意志を示した。キュアスフィアで彼女もまた回復していた。
「そのネコが言うとることはたぶん嘘やない」
「は?」
「ちょい待ちぃや」
エマが左手の掌をこちらに示したまま、右手を軍服のポケットに入れ、スマホを取り出し続けた。
「セルフィーが裏切ったんや。これ見てみ」
彼女はせかせかとスマホを操作し、ナナトに差し出した。
その画面には、『我はメシア。この世界を粛清する』と表示されていた。
「は? なんだこれ?」
「このつぶやきは数時間前、セルフィーがしたもんや。そしてワイがこの世界に介入できたように、神もまたここに介入できる」
「どういうことだ?」
「セルフィーはなんやかんやゆうて、神の身内や。そのセルフィーが『この世界を粛清する』ちゅうんや。つまり、セルフィーはここをぶち壊して、なかったことにする気やろうな」
「嘘だろ?」
ナナトは身震いした。吹雪はいまや数メートル先も見えなくなるほどで、火照った体が急速に冷えていく。唇がブルブルと震えだすのを抑えられない。
「んなのっ、なにかの間違いだろ!?」
と、ナナトはエマにつっかかるが、彼はとっくに気づいている。
――セルフィーは裏切った。
いや、
留置所に残された正の文字を思い出す。「一週間後に助けに行くから」という言葉を思い出す。
一緒にピラティスを退けたあのチームワークも、リゾートで強盗したときの一体感も、脱獄の高揚も、すべてはストックホルム・シンドロームで、吊り橋効果で……
裏切る以前に、そもそも俺たちが仲間だなんて、そんなことはありえなくて……
「あぁ……そうか……」
嗚咽混じりに息を切らすナナト向かって、血塗れのエマがつぶやいた。
「やっと気づいたようやな」
赤い髪が揺れていた。
「いまや、この世界そのものが巨大な牢獄っちゅうわけや」




