快慶が咥えているのは人差し指ですが、ナナトが口づけるのは……
「あんっ快慶さんっ。そこダメっ!」
激しく鉄格子がきしみ、野太い男の声が留置所内に響き渡る。
「あぁー気持ちいっ。うっ、あっ快慶さんっすっげヤバイっす……」
チュパチュパと何かが吸われ舐められている嫌な音の隙間から、別の男も声を高ぶらせる。
怖いもの見たさに目を向けて、ナナトは後悔した。
鉄格子の向こう側に立つのは、トラ頭とキツネ頭のいつものふたりだ。彼らは顔を赤らめ、我先にと腰を格子の隙間に突き出している。
「ふぁら、ふぉれはどう?」
一方、鉄格子のこちら側では快慶が膝をついていた。彼は頭を格子の間に押し付け、大きな背中をリズミカルに揺らしていて……
「そんなっ、二本同時だなんてっ?!」
警官たちがハモる声にナナトは慌てて目をそらした。
地獄だった。天国から逃げてきたここは、天国以上に地獄だった。
セルフィーと別れてから、二週間以上が経っていた。
きょろきょろ泳ぐナナトの視線の先には、五つの“正”の文字がある。薄汚れた壁に血で描かれたそれらは、セルフィーがもう助けにこないことをありありと示していた。
正の下にはチーちゃんがいる。
体育座りの彼女は体を小さく折りたたむようにして震えている。カラフルな髪は乱れに乱れ、ボロボロになった病院服の隙間からのぞく細い腕と首。その肌が不健康に白い。
「ッチ」
チーちゃんが小さく舌打ちし、ナナトに視線を向ける。
「……なに見てんの?」
「うっ……」
やたらと乾いた爬虫類のような瞳だった。そのナイフのような鋭さに、ナナトは肩をすくめ体を固くする。
――なんなんだよ、どいつもこいつも。
いよいよ目のやりどころを失い、彼は顔を伏せて沈黙した。
――マジで俺、こんなところでなにしてんだろ?
頭をよぎるのはそんな後悔だ。そもそも包帯だらけのこの無様な身なりはなんだ? これじゃ伝説の鎧はおろか、まるでゾンビかマミーじゃないか。ていうかエマの奴、俺が回復魔法使えるのわかってて、包帯なんて巻きやがって。嫌味かよ。
でも、
でもあとちょっと、もう少しだけ辛抱だ。あとほんの何時間かで、俺は、俺だけの異世界ライフを満喫できる。
彼は、作戦の概要をもう一度反芻する。
作戦はとても単純だ。
指定の時間に合鍵をもらって逃げる。ただそれだけ。
「え、もう終わりっすか? 俺まだっ!?」
「なんでっ? こんなのってひどいっ!」
警官たちの甲高い声が嫌でも耳に入ってくる。
「だーめ」
快慶のねっとりした声がそれに続く。
「ふふっ。無事ここを脱出したら、続きをやりましょ」
「任せてくださいっす!」
「十九時、十九時があのバカ女の最期ですよ!」
――そうだ。十九時になれば、こいつらがまたやってくる。それですべてが終わる。
もはや待つことしかできなかった。なので、ナナトは待った。待てども待てども時間の進みはカタツムリのように遅かった。
だけど、
ついにそのときがやってきた。
十九時ちょうど、廊下の扉がいつもと同じように開く。
扉の向こうには、トラ頭とキツネ頭ではなく、
「おいお前ら。今からアチアチの五右衛門風呂や。お前ら罪人は自白するか死ぬしかないで」
なぜか、エマが立っていた。
「は?」
驚くナナトたちに、エマの後ろからふたりの警官が続く。彼らは台車を押していて、台車の上には巨大な風呂釜が載っていた。
警官はパンダとウサギのコンビだった。
――なんでトラとキツネじゃない!?
ナナトが口を開く前にエマが笑った。
「いつもの奴らや思うたか?」
快慶の歯ぎしりが聞こえた。チーちゃんはうつむき座り込んだままだった。ナナトは背中からはどくどくと汗が吹き出し、包帯の通気性や吸水性も大して役にたたないようだった。
「さて……」
そんな彼らを見下すように見上げながら、エマがいたずらっぽく顎をしゃくる。赤い瞳はどこまでも薄気味悪く輝いている。
「脱獄未遂にはどんな罰が妥当やろなぁ?」
「くっ……」
――やられた。バレていた。
と、ナナトが身構えたときだった。
「閻魔様!」
閉まったはずの扉がまたもや開き、見知らぬ赤スーツの男が駆け込んでくる。
「閻魔様! こ、これを!」
男は息を荒げ、エマに自らのスマホを手渡した。猫背気味なその男はそばかすの目立つ顔立ちをしていて、ピラティスの趣味とは違うように思われた。
「この投稿です」
エマが液晶に目を落としたタイミングで、ふいに快慶の視線を感じた。ナナトが軽く目を合わせると、快慶は小さく頷いた。
今しかなかった。
「エアロバースト!!」
ガオン、と内向きの強風が吹き抜けて、エマと警官たち、そして赤スーツが激しく鉄格子に叩きつけられる。
「どおりゃぁあぁっっ!!」
当然反動が来るが、ナナトは鉄格子を強く掴みこれをこらえる。
「覚悟しなさいこのクソ女!」
彼と同じく鉄格子に掴まりエアロバーストをやり過ごした快慶が、風が収まった瞬間、エマの右腕を格子の隙間からこちらに引き抜きロックする。チーちゃんは部屋の奥へ吹き飛ばされてしまっていたが、気にしている余裕はなかった。
「……うっといな」
エマの自由な左手が刀へ伸びる。
「エアロバースト!」
すかさず追加の風魔法を放ち、ナナトはエマへと突っ込んだ。
――間に合った。
ナナトはエマより先に格子から両手を伸ばし、刀ごと彼女の左足を抱え込むことに成功する。
今一度、風が収まる。
ドラム式洗濯機のごとき揺さぶりを食らった警官たちが苦悶し、赤スーツが絶叫する。ひっくり返った風呂釜は床に熱湯をぶちまけている。
構わず、エマが大きく体をしならせる。
「くっ」
肩ごと外に引きずり込まれ、両脇に格子が食い込んだ。だが、痛いなど言うわけにいかず、ナナトと快慶は必死にエマを押さえ込む。
「チーちゃん、鍵だ!」
ナナトは叫んだ。
「早く、エマから鍵を!」
背後からの返事はない。
「早く。今がチャンスだ!」
気を失ったのか、チーちゃんは答えない。
警官と赤スーツが立ち上がり、我先に廊下へと駆け出していく。エマがなにやら吠えて、至近距離の怒声に鼓膜が震える。怪力に鉄格子が枠ごと外れそうな不協和音を立てる。
「くそっ!」
力強いエマのキック。まともに食らったナナトは床に腰をつく。刀がフリーになる。エマは流れるように左手で柄をつかむと、鞘を格子にひっかけそれを抜いた。
ぎらり、と白刃がきらめいた。
「まずっ――」
快慶が反応する前に、刀は鉄格子を切断している。
「ぎゃぁあああ!」
途端、血しぶきが激しく噴き上がった。鉄格子ごと快慶の右手が斬り落とされ、エマは完全に解放されてしまっていた。
迂闊だった。
不自然な体勢から左手一本だけでここまでとは、とんでもない戦闘力だった。
――でも、まだ隙がある。
「エアロバースト!」
刀を持ち替えようとしたタイミングを見計らい、ナナトはエマに風をぶつける。エマの手から刀が吹っ飛ぶ。流れに任せ体をねじって部屋の奥へ逃げようとするも、
「うっ」
エマは右手をぐんと伸ばし、格子越しにナナトの首を掴んでいた。
風が凪いだ。
刀が床に落ち金属音が鳴り渡る。トイレ側に飛んだ快慶の腕が無残に落ちる。快慶自体も壁まで飛ばされ、その近くには四つん這いのチーちゃんが呆然とたたずんでいた。
「え、い、いっ……」
そんな光景を目の当たりにしながら、ナナトは片手一本で引き寄せられ、締め上げられる。
ガン、と後頭部に衝撃が走り、彼の頭は格子の隙間に固定される。
「つぅっ!」
ただの首絞めが痛い。死ぬほどに痛い。
エマの力は常軌を逸し、肉が裂け骨が砕け、意識が飛びそうになる。めりめりと鉄格子に削られる肩甲骨の辛さにも耐えきれず、
「キュ、……キュぁ……」
ナナトは魔法を絞り出そうとするが、声にならない。彼女の力はますます強まり、視界が暗くなってくる。
「おい山田ァ!」
エマが叫んだ。彼女は左手で刀を拾うと、格子の向こうのチーちゃんへと放り投げ言った。
「こいつらを殺れ! ふたりとも殺ったらチャラにしたる!」
チーちゃんが顔を上げる。
カラフルな髪が前に垂れ、顔には暗い影がかかっていて、
その瞬間、ナナトははっとする。
――まさか!?
チーちゃんはのろのろと刀に手を伸ばす。拾いあげ、それを杖に立ち上がる。
そのまま腕を押さえうずくまっている快慶に近づいて、よろめきながら刀を上段に持ち上ると、
「あんたまさか裏切っ――」
叩きつけるように思い切り振り下ろした。
「ぎゃーーーー!」
快慶の左肩に食い込んだ刀は鎖骨で止まり、獣のように絶叫がこだまする。
「あぁっ、イダイッ! あーいだいってもうなんなのよー!」
快慶は息を乱し泣き喚く。しかし声はかすれ、もはや反撃する力も残っていないといった有様で、その恨みがましい瞳がナナトを捉えるも、
「いや自分、よそ見しとる場合ちゃうやろ」
すぽん、とナナトの頭が格子から抜けた。
「えッ……?!」
「人の心配しとる場合ちゃうやろ」
熱い吐息が顔にかかり、ツインテールが肩に触れた。
二本の鉄格子があっけなくねじ曲がり、すぐそばにはエマの顔。ナナトをのぞき込むのは鬼の形相。燃える瞳。
「そうちゃうん? なぁ勇者様」
覆いかぶさるように、もう一本の手が首に伸びた。鉄格子を歪める怪力だ。呼吸なんてとてもできない。その間にチーちゃんは快慶を踏みつけ、刀を強引に引き抜くと、次は首筋に狙いをさだめ振りかぶる。
「ッ、ェ、ァッ……」
無理だ。とても唱えられない。
だから、
ナナトはありったけの力を込めて、床を蹴りつけ、上半身を思い切り持ち上げた。
「なにっ!」
もちろん、そこにあるのはエマの顔面である。だがあえてナナトはその唇に自らの唇を合わせにいった。
「!!」
それは初めての感覚だった。
熱く、柔らかく、それでいてどこか切ない心地だった。ふわりとしているようで、なにかとんでもない熱量が流れこむような……
ふっ、と首を絞めるエマの力が緩んだ気がした。
「エアロバースト!」
気がつくと、ナナトは喉が張り裂けんばかりに叫んでいた。
刹那、激烈な爆音があがり、目の前が真っ白になった。エマの手がこれでもかと強まり、そして急に消え失せた。
圧倒的な力、度を越したエネルギーが全身に襲いかかる。空間が歪む。全身が蹂躙される。バランスを保てずナナトは床に崩れ落ちる。
ナナトは自分でも驚いていた。まさかここまでとは思わなかった。
知らず閉じていたまぶたを彼が開くと、
エマはもう消えている。
それだけじゃない。
鉄格子も廊下もなにもかもが消えていた。ビルの半フロアが跡形もなく吹き飛んでいた。痛みをこらえおずおずと片膝立ちになると、ナナトの前には歴然たる崖が生まれ、氷点下の強風が雪とともに舞い込んでくる。眼下に広がるのはまばゆい夜景、粉々になって落下していくビルの断片だけだった。
「……やった、のか!?」
数秒後、無数の瓦礫が地面に落ちて、地鳴りのような轟音を街中に響かせる。音は減衰しながら反響し、そして消えた。
あとには手負いの快慶やチーちゃんたちが発する荒い息遣いだけが残された。
「マジでやったのか?」
吹きすさぶ吹雪を背に、ナナトはゆっくり立ち上がる。腹の底が熱く、まるで寒さを感じなかった。活力が溢れてくるかのようだった。
快慶たちを見やる。
ナナトはなんともなかったが、今の反動をまともに食らったふたりは、半壊した壁に身を預け息も絶え絶えの様子だった。
「キュアス――」
「……まだや。まだ終わってへん!」
そのとき、ナナトの背後からあの嫌な声がした。
「貴様、調子乗っとんちゃうで」
振り向くと、そこには消えたはずのエマが立っていた。




