裏切りの感情
――1億年か、それとも1万年か?
突きつけられた現実に葛藤しながら、チーちゃんは病院服のポケットに隠し持った紙ナプキンの感触を確かめる。感情を失った彼女にとって、そのガサガサと薄っぺらい感触だけがリアルだった。
――このナプキンを閻魔に渡せば、すべてが終わる。
自分の挙動が不審でないか、彼女は周囲を見回し神経を張り巡らせる。
部屋の隅、トイレの側でナナトが体育座りで顔を伏していた。自分の正面、鉄格子の前に快慶の大きな背中が見える。鉄格子を挟んで向かい側には、背の高いトラの警官と顔のいいキツネの警官が立っていて、閻魔はいない。
ふたりの警官たちが快慶に対し、なにやら話しかけている。
「俺、快慶さん見ているとなんだか運命感じるっていうか、快慶さんに出会うため生まれてきたんじゃないか、って思うんです」
「俺も、べ、別にホモとかそういうんじゃないんすけど、快慶さんになら抱かれてもいいかなって……」
「俺、快慶さんのためなら、なんだってします」
「快慶さんが三千万年もブチ込まれるだなんてありえませんよ」
「てかなんですかあの拷問、あの女ひどすぎっしょ。俺の快慶さんがなにしたってんだ」
「俺のってなんだよ、俺んだよ」
「あ? なんだお前?」
警官たちがつかみ合いの喧嘩をしそうになったところで快慶が叫んだ。
「ダメっ! もぅ、みんなアタシのためにケンカはやめて!」
彼は鉄格子の隙間から手を伸ばすと、片手ずつ二人の警官の手を握り言った。
「それに……アタシには天国に残してきた彼氏がいるし……」
「え!? 快慶さん彼氏持ちなんすか??」
「うーん。……でも、大丈夫、かな? 明朗はみんなでシェアしましょ。天国では同性婚もだけど、重婚だって当然の権利として認められているわ」
「すげぇ、快慶さんは心まで漢なんすね!」
「こんな人が凶悪犯だなんて信じられない!」
グシャッ、と乾いた音がした。
チーちゃんは無意識のうちにナプキンを握り締めていた。その音に反応したナナトが顔をあげる。その生気のない目にぎくりとするも、
「…………」
指が痛くなるほど拳を握りしめ、息を殺した。しかしナナトは反射的にこちらを向いただけなのだろう。焦点の合わぬ視線はチーちゃんを素通りし、そのまま鉄格子の方へと移動していく。
落ち着け、落ち着くんだ、とチーちゃんは自分に言い聞かす。
こんなので取り乱してどうする。感情的になるな。だって私には感情がないんだから。
「とにかくみんなありがとね」
ひとり動揺するチーちゃんには気づかず、快慶は警官たちから手を離す。
「ここから出たら一緒にエンジョイしましょう」
それから、彼は肩越しに振り向き言った。
「ナナト、作戦の方は大丈夫でしょうね?」
「ぁ……」
急に話を振られたナナトは肩を震わせた。彼は口ごもりなにか言おうとしたが、すぐにまた黙り込み、うつむいてしまう。
「ねぇちょっとアンタ!」
快慶がここぞと声を張り上げる。
「黙ってないで答えなさいよ!」
「…………」
「アンタもしかして、まだセルフィーが助けにくるとか思ってんの?」
「…………いや」
「あのねぇ。いい加減諦めなさい。あの女にそんな甲斐性あるわけないじゃない。助けるだなんて、口先だけのその場しのぎよ。もう期限から一週間以上経ってるじゃないの!」
快慶はくるりとナナトに向き直ると、大きな歩幅で彼に近づき身をかがめた。
「とにかく今はここから出ること、脱獄計画のことだけを考えなさい!」
彼は包帯が巻かれたナナトの震える肩に手を置いて、言葉を続ける。
「アンタのことは大嫌いだけど、エアロバーストがなくちゃ、私たちみんな閻魔にすり潰されて死んじゃうのよ!」
「…………」
そして、沈黙が訪れた。
チーちゃんは彼らの目の端に捉え聞き耳を立てていた。
脱獄計画――拷問がないとき、閻魔はどこかで休んでる。その隙を狙い、警官たちが合鍵と逃走ルートを確保する。監視カメラの死角から、ナナトの風魔法で飛び降りる。
たしかに、これなら脱獄も不可能ではないだろう。正直言って悪くない作戦だ。成功するなら、だが。
――1億か、1万か。
チーちゃんは、昨日告げられた閻魔の言葉を思い出す。
「感情に支配されとらん自分やったらわかるやろ? どうすればええか?」
警官たちが食事を取りに留置所から消えると、紙ナプキンはチーちゃんの掌の汗を吸って、すっかり湿っていた。
――脱獄か、減刑か。
病院服の懐に手を入れて、パンツに挟んだ鉛筆を握る。さりげなく取り出して、反対側のポケットに滑り込ませる。
――地獄でそれなりの暮らしをするか、意味不明な異世界で生きていくか。
警官たちが食事を載せた台を押して戻ってくる。
「喜べ、今日はカレーだぞ!」
「やったわ!」
快慶が手を叩く音がわざとらしくて不快だった。
「この世界のご飯って、食べごたえなくてヤだったのよ。パンケーキとかスムージーとか、いかにもセルフィーの趣味って感じぃ。だからカレーがあるだけでも助かるわ。これ絶対アンタが作ったでしょ?」
大げさにわめく快慶を疎ましく感じたのか、ナナトがボソリと言った。
「……はい」
「ねぇねぇ、他には何を作ったの?」
「……エロ本とか」
「あーたしかに、売ってるポルノってやたら属性が偏ってる気がすんな」
トラが笑いながら言った。
「あーわかるわ」
これにはキツネも同意する。
「なんつーかロリっぽいの多くね?」
「そうそう! 若いっつーか幼いし、二次元ばっかだし」
「作ったのって絶対童貞のキモオタだよな」
「いやー、まだ童貞なら可愛げあるじゃん。アレって正直病気レベルじゃね?」
「なにをすればあれだけ性癖が歪むのか?」
「そりゃ女にモテねーからだろ。あー、女っつうか人間? まともな人付き合いしてこなかったんだろな」
「ぃ、いや、そんなことねーし!」
ふたりの会話にいたたまれなくなったのだろう、ナナトが叫んだ。
警官たちはそんなナナトを見て、にやつきながら言った。
「おいおいお前、顔真っ赤だぞ」
「てかさぁ、快慶さんだけじゃなくて、こいつもちょっと可愛くね?」
「へ?」
「ま、ヤラせてくれたら、お前が神様だって認めてやんよ」
「え? いやちょ、それはやめて」
「いやダメだ。今すぐ犯す」
「だな。男しか無理な体にしてやる」
「え、なになに、アタシも混ぜてよ」
男たちがざわめき、鉄格子がガタついた。
「ひゃあ!」
ナナトの悲鳴が轟き、
数秒後、
「……バーカ。誰がお前なんかに手出すかよ!」
「うっわこいつ、マジでビビってやんの」
「アンタみたいなヒョロガリ、五百万年は筋トレしないとムリよムリ、しっしっ」
警官たちは声を上げて笑った。快慶はもちろん、ナナトまでもが、つられて表情を緩めていた。
そして、
案の定チーちゃんだけが、空気のように無視されていた。
同じ空間にいるのに、ひとりだけ深い海の底に沈んでいるかのようだった。死にたい、そう思った。死んでいるのに、感情を失ったはずなのに、死にたかった。鉛筆を持つ手が痙攣し、どうしようもなく引きつっていた。
やはりこの世界でも私は阻害されていて、またしてもエロが優先され、チロが蔑ろにされている気がして、それが半端なくイラついて、いてもたってもいられなかった。
――いや、私は怒ってなどいない。キレたりなどしていない。
思い出したかのように、チーちゃんは自分に言い聞かせる。
しかし快慶は男にモテていて、ナナトはエアロバーストなる能力を持っている。私だけが何もない。感情すらない。
彼女は鉛筆の先端にぐりぐりと親指を押し付けて、ぶるぶると首を横に振る。
いやだからなんだ。ちょっと男にモテようが、ちょっと風が起こせようが、そんなのは原始人と大差ない。感情に左右されない私こそ高等で上等な“人間”なんだ。
これは妄想じゃなくて事実だ。
両手をポケットからすっと抜き出す。
私こそが、真に寵愛を受けるべきなのだ。
チーちゃんは盛り上がる男たちに注意しつつ、紙ナプキンに鉛筆で脱獄計画の詳細を記載する。見られていないか不安で指先が震え、急いで書いた字はミミズが這ったようにグチャグチャだ。しかしそれも杞憂で、私は誰にも見られてなくて、居場所なんてどこにもなくて……
――死ぬリスクを冒すか、仲間でもない奴らを売るか。
悩まなくても、答えは最初から決まっていた。
チーちゃんは手付かずのカレーの下に、こっそりとナプキンを忍ばせた。




