豆腐メンタルクリニック
病院服は囚人服に似ている。
ベッドに仰向けになったチーちゃんは天井を眺めながらそんなことを考えていた。天井は真っ白でシミひとつない。シミどころか、この空間にはなにもなかった。カーテンに囲われた白一色の虚無。カーテン同様白すぎる床頭台の上には白米と豆腐と豆乳が手付かずのまま放置され、豆腐には薬味はおろか醤油すらかかっていない。
しかし彼女にとって、そんなことはどうでもよかった。
声掛けもなくいきなりカーテンが開き、大きなマスクをした白ずくめの看護師が手付かずの夕食を回収していく。チーちゃんは眼球すら動かさず、ただひたすらに天井を眺め続ける。
ここに監禁されてから今日で何日経っただろう? もう数えるのはやめてしまったが、傷が癒えて(閻魔のおかげで一瞬で治った)から結構な時間ここに入院し続けている。
退院できない理由は、身体にはなかった。
むしろ身体などまったく気遣ってはもらえなかった。
閻魔はチーちゃんに、“現代地獄が許す限りの”拷問を繰り返したからだ。
ナナトの真の目的、ピラティスの行方、Qの死体の在り処など、閻魔はあらゆる手段でチーちゃんに自白を強要した。
だが、知らないことは答えようがない。
そもそも彼女は被害者だった。拷問される前から真実すべてを話していた。それなのに閻魔は彼女が嘘をついていると決めつけ、よりハードな責め苦を味あわせた。
シチューやおでんをおかずに白米を食えと言われるのはまだよかった。かぼちゃコロッケやお好み焼きをおかずにしろと言われたときには死を覚悟したが、なんとか耐えきれた。しかし最後の最後、チャーハン&ライスを出されたところで、チーちゃんの心は崩壊した。
――私は感情を失ってしまった。
人間はある閾値を超えると、喜怒哀楽を失ってしまうのだということを初めて知った。
それからというもの、チーちゃんはあらゆることがどうでもよくなった。食事も、シャワーも、脳内妄想も、睡眠すらも彼女の凍った心を溶かすことができなくなった。
しかしそれには利点もあった。
鍵のかかった病室も、外が一切見えぬ強化プラスチックの窓も、味気なさすぎる食事も気にならなくなった。一日中PPNPを聞かされる拷問にも、VRアイアンメイデンにも、眉根ひとつ変えず望むことができるようにもなったのだ。
とにもかくにもそうやって、チーちゃんが寝返りもうたず天井を眺め続けていると、再びカーテンが開かれる。
「ちょっとちょっとアンタ、聞いてちょうだい」
相変わらずテンションの高い声。
チーちゃんはそれを無視するが、ぐい、と熱くて大きな手に肩を掴まれると、さすがに視線を向けざるえない。
「閻魔のアホがさぁ、ヤバいの!」
やはり快慶だった。病室にはチーちゃんのほかに彼しかいないので当たり前だった。
「…………なに?」
「なにってなによ。実は閻魔ってね」
「いや、興味ないし……」
「ちょっとアンタ、まだそうやって拗ねてるの?」
「拗ねてないし……」
「は? 拗ねてるじゃないの!」
「…………」
「ちょっとねぇ、ねぇってば!」
「…………」
チーちゃんは布団を潜り身をよじって抵抗する。同じ服を着ていても、快慶のそれは筋肉でパッツンパッツンで、とても病人のようには思えない。この男は自分の恋人がいたぶられ辱められるVR拷問で大興奮し、閻魔に呆れられたサイコパスだ。こいつなんかに私の気持ちがわかってたまるものか。
「アンタも本当に強情ね――って、ひゃだ、なに?」
突然、布団越しに快慶の悲鳴が聞こえた。
「きゃー揺れてる。なにこれぇー? やだアンタ、地震よ! 揺れてる、揺れてるわー!」
意識してみると、たしかにそのようだった。ベッドのフレームが激しくきしみ、カーテンがレールを滑る音がする。
さらに、ナースコール――押しても誰もこないただの飾り――がベッドに叩きつけられる音よりも遥かに大きな、バラバラバラ、という大きな音も聞こえてくる。地響きにしては機械的で単調なあの音はなんだろう?
けれど、
――地震だからといってなんだというのだ。
私は閻魔に自分の葬式をリアルタイムで見せつけられても動じなかった。私の死を誰ひとり悲しんでいなくても、人生最後の動画が盛り上がらないまま削除されていたと知っても、悲鳴をあげずにいられたんだ。だって私の感情は死んでいるから。感情がないのだから、ショックを受けるなんてありえないんだ。
――地震ごときで感情が揺さぶられるわけがない。
チーちゃんは布団の中で下唇を噛み締めた。
そのときだった。
「ひゃだ!」
バラバラ音よりも激しく、快慶が叫んだ。
同時に天地がひっくり返るかのような力を受けて、チーちゃんは布団ごとベッドから投げ出された。
「なっ!?」
快慶ともども床に這いつくばって、チーちゃんは息をのんだ。
――部屋が傾いている!?
直後、床頭台が勢いよく倒れてくる。ずるずるとベッドが壁際向かって滑っていく。悲鳴とともに快慶がカーテンを掴むと、それはレールから弾け飛んだ。バラバラバラバラ、という例の重低音はどうやら窓の外から聞こえてくるようで、止まることなく鳴り続けていた。
部屋の電灯が何度か点滅して、そして消えた。
「なによ! なんなのよぉっ!?」
快慶はわめいたが、激しい横揺れは長くは続かなかった。傾いた地面もすぐに水平に戻ったが、不安定な浮遊感だけは残された。それはまるで超高速のエレベーターに乗っているかのような気持ち悪さで……
――ちなみに気持ち悪いというのは感情ではなく、ただの感覚なので勘違いしないでほしい。
いったい誰に対しての発言なのかわからないが、チーちゃんは心のなかでそうつぶやいた。
だって私よりブサイクな女がイケメンたちにチヤホヤされているのを、延々マジックミラー越しに見せつけられる拷問でも、ブチ切れたりしなかったんだから。
さっきちょっと驚いたのだって、ただの不可抗力だ。
「うっ、ううう浮いてるのよ、この病室!」
真っ暗になった病室で快慶が叫び続けている。
「ヘリよ、この音絶対ヘリコプターよ! 病室ごと切り離されたのよ!」
たしかに、外の爆音はヘリのローター音のように思われた。
だけど病室を切り離す? そんなことできるのか? できるとして、なぜそんなことする必要がある?
「絶対、閻魔の悪巧みよ。きっと新しい拷問よ!」
耳を覆っても侵入してくるその甲高い声と、病室の揺れとが合わさって、強烈な吐き気がこみあげてくる。
「ひゃだ死にたくない。来月フレディのコンサート行かなきゃなんないのに!」
「ちょっと黙って……」
「ガチホしているビッチコインだって残ってるのに! それにこんな格好で死ぬなんて!」
「だからうるさいって!」
チーちゃんは思わず声を荒げた。
「えちょっと何? 声が小さくて――」
「るせーんだよ! クソホモが!」
「へ? なに? うるさいってなによ!」
「落ち着けよバカ!」
「はぁ? こんなときに落ち着いていられるわけないわ! なによアンタ、クールぶってんじゃないわよ!」
「クール? なにを言っている? 私は感情を失ったんだ。この程度で取り乱したりなどしない」
「はぁっ? 感情なくなったとか中二病みたいなこと言ってんじゃないわよ! あんたもう十七でしょ」
「十七ではない。それはただの生物学的な年齢だ」
「なら精神的には十四歳?」
「だから黙れ!」
「てかアンタ怒ってんじゃないの! 普通に感情あるじゃない!」
「……怒ってない」
チーちゃんは声のトーンを落とした。だって私は閻魔に、自分のツブヤイターのつぶやき一つ一つを朗読されても、無視を貫けたんだから。
「私が本気で怒ったら後悔することにな――」
その瞬間、チーちゃんの体がふわりと床から浮き上がった。
「はぇ!?」
浮いたのはチーちゃんだけではなかった。闇のなかで、快慶も、倒れていた床頭台も、ベッドまでもが空中に浮かびあがる気配があった。
――無重力!?
予期せぬ出来事に身体がこわばる。これだって、本能的な反射だ。決して怖がってなどいない。
「ひゃだ!」
ほとんど何も見えぬ状態なか、快慶が激しく抱きついてくる。
「ひゃー助けて神様」
「いやちょっと、抱きつかないでくれます?」
「なによ! 私はあんたみたいなマ●コ、ビタ一文も興味ないわよ!」
「なに?」
これにはさすがに反論しようかと思ったそのとき、背中側から一方的かつ強烈なベクトルが加わり、不自然な体勢のままふたり一緒にベッドになだれ込む。
「うわァァッ!」
空中でベッドごとぐるぐると回転し、金属のきしむ嫌な音。それから、なにかがぶつかり砕ける音が鳴り響き、あきらかな存在感を感じさせる巨大な物体が闇を切り裂き急速にチーちゃんに接近してくる。
が――
「くっ」
快慶が身をひるがえし、チーちゃんをかばっていた。
直後、尋常でない爆音がチーちゃんの鼓膜を貫いた。ぐちゃぐちゃのミンチになって快慶の体と融合するのではないかというほどの衝撃が全身を貫いて、激痛に彼女は意識を失った。
数瞬後、
自分のものか快慶のものかわからぬうめき声で、チーちゃんは目を覚ました。
寒かった。
まぶたを開くと、強化ガラスが窓枠ごと抜け落ちており、外から月明かりとともに凍える冷気が入り込んでいた。
部屋はもうむちゃくちゃのぐちゃぐちゃだった。チーちゃんは瞳に飛び込んできた歪んだベッドフレームを見て、鳥肌が立った。
ただ、生きていた。
少なくともふたりともミンチになってはいなかった。
ひたすらに鳴り続けていたヘリのローター音が、徐々に減衰しやがて消える。
ふたりの荒ぶる呼吸が一段落したタイミングで、快慶が口を開いた。
「大丈夫?」
普段より心持ち低めな彼の声は、ダメージを受けた耳にもよく届いた。彼は額から血を流し、白い病院服を赤く染めていたが、別段気にせぬ様子であった。
チーちゃんはなにも答えなかった。答える気になれなかった。
「とりあえず、助かったみたいね」
やはり快慶は自分は全然大丈夫みたいな空気をまとって笑った。
「たしかにアンタを怒らせると、とんでもないことになるみたい」
「別に、私は死んだってよかったんですけど……」
「何言ってんのアンタ! 死んだらディスニーにも行けないし、ナイトプールにも行けないし、六月のパレードにだって参加できなくなるのよ!?」
「そんなのどうでもいいですし……」
「はぁー、あんたホントだめね」
「それより、どいてもらえます?」
チーちゃんは顔を背けつぶやいた。さっきからずっと快慶に抱きかかえられるみたいな構図になっていた。
「ふん」
快慶は腕をほどき、きしむベッドから立ち上がる。そしてベッドのチーちゃんにかがみ込み、こう言った。
「いいアンタ? これだけは覚えておいて。先が見えないからって、感情がなくなったとか言って、無駄な時間を過ごしちゃダメよ。自分の気持ちを偽わるのはすんごい罪。無茶苦茶な懲役食らうんだからね?」
砕けた照明器具の欠片やら、床頭台の残骸やらが散乱する室内を慎重に横切って、快慶は部屋の隅で横転しているもう一台のベッドのマットレスを引き剥がす。
彼はそれにドスンと腰掛け、言葉を重ねる。
「簡単に諦めちゃダメ。いつか絶対、アタシたちは閻魔から逃げるんだから」
それは自分に言い聞かすかのようで、彼はそれ以上もうなにも言わなかった。
しばらくして、バキバキという大きな音とともにひしゃげた扉が開く。
扉を開けたのは、様々な動物の頭をした警官たちだった。
彼らはずかずかと病室の中に入ってきて、そのうちの一人、サメの頭をした警官がチーちゃんの右手をつかみ怒鳴った。
「オラッ、立て!」
「うっ」
抵抗もできず、チーちゃんはベッドから引きずり出される。サメの力は強く、なずがまま部屋の外へ引きずられていく。
「ちょ、ちょっと叩かないで! 痛っ、や、ひゃあっ!」
視界の端で、快慶がワニ頭とチワワ頭に警棒でしこたま殴られているのが見えた。チーちゃんはやっぱり感情なんて必要ないと思った。
外に出ると、どこかのビルの屋上だった。
ボイラー、貯水塔、室外機、ソーラーパネル。そんなものでごちゃごちゃした空間は、野球場くらいならすっぽり入りそうなほど広い。近くに同じ高さのビルはなく、遠く地平線に広がる夜景の全景から判断するに、とてつもない高層建築のようだった。
凍った風が低い音をたてて吹きつけて、チーちゃんの薄い病院服をはためかせる。冷気はナイフのごとく肌を切りつけ、スリッパ一枚介した氷点下のコンクリートが急速に彼女の体温を奪っていく。
「さっさと歩け!」
サメの警官がチーちゃんの腕を強く引いた。
「署長がお待ちだ」
空には雪がちらついていた。それは排ガスのような臭いを含み、埃っぽくくすんでいた。
「行くわよ、行くってば。だから押さないでってうわ寒!」
振り返ると、屋上に無造作に放置された病室ユニットから快慶が二人がかりで連行されてくるところである。その隣には巨大なヘリコプター――閻魔の悪巧み、快慶の言葉を思い出す。
「よそ見するな!」
広い屋上を突っ切り、屋上の端に立つ小さな塔屋から建物の中に入っても寒さは変わらない。警官たちの革靴のコツコツと、チーちゃんたちのスリッパのペタペタが狭い階段を無限に反響し、粟立つ皮膚に触れる病院服の裾の感触が気持ち悪くてたまらなかった。
――気持ち悪い? 気持ち悪いわけがない。私は感情を失くしているんだ。
ほんのワンフロア下りたところで、サメがセキュリティを解除して扉を開く。
そこは剣呑な気配漂うエレベーターホールだった。
左右四基ずつあるエレベーターの扉にはこれでもかと血糊がこびりつき、大きな窓ガラスが粉々に砕け、まるで銃撃戦のあとのようだった。
警官たちは戸惑うふたりを引きずって、割れた窓ガラスとは反対側の角を左に曲がる。長い廊下を歩かされ、再び左に曲がる。次も左、その次も左。
フロアはどこもかしこも痛々しい有様だった。ひび割れ崩れた壁。荒らされ倒れた観葉植物。ベンチごと焼け焦げた一角。
左。左。またしても左。
廊下を曲がり続けていると、遠くから聞きたくもない声がする。
「嘘つくなや!」
「いやだからマジで全部話したって……」
もうひとつの声にも聞き覚えがあって、まさか、とチーちゃんの心臓が波打ってしまう。
「望みがエロ本としょぼい風魔法とかありえへんやろ!」
「しょぼくて悪かったな。俺は想像力がねーんだよ!」
しかし、そのまさかだった。
閻魔に楯突く芯のない男の声。さすがにその声を聞き間違えるはずがない。
――でも、でもそんなことは……
チーちゃんの後ろで快慶もわめく。
「ありえない! そんなのありえないわ!」
そうだ、ありえない。あいつは死んだ。死んだと聞かされた。でも、あいつが死んだと私に伝えたのは……
「ならこれやったらどうや?」
「ぎゃぁぁぁ!」
廊下が終わる。渦巻状の廊下の最後にあるのは鋼鉄製の扉。
サメがそのドアノブに手をかける。
チーちゃんは思わず両手で胸を押さえる。ダメだ、今あいつに会ったらどうなるかわからない。私は感情を失ったんだ。冷静になれ。落ち着くんだ。
「くそっ、絶対にこんなところから抜け出してやる!」
錆びついた音を立てて扉が開く。
「ふん、なら趣向を変えてみよか?」
扉の奥は留置所だった。片面が全面鉄格子になっていて、突き当たりは行き止まり。鉄格子は無造作に開かれて、中にはあの女とあいつがいた。
あの女――真実を述べる人間を嘘認定するクソ女。
あいつ――私が感情を失う原因を作った最低の男。
「ナナトォ!!」
全身が震えた。チーちゃんは喉が痛くなるほどの大声でそう叫んでいた。
裸に剥かれ、閻魔にムチでしこたま打たれたであろうナナトが、ゆっくりと顔を上げた。
その顔をきつく睨みつけ、チーちゃんは続けた。
「てめーマジで死ねよカスっ!」




