さよならセルフィー
ユニットバスに埋め込まれた鏡に、黒髪ショートの女が映っている。
セルフカラーのセルフカットは、アシンメトリーというにはちょっと厳しい。色ムラが目立つし、全体的なボリュームも少なく、貧相な感が否めない。まぁ、アイロンやスプレーを駆使すれば、それなりにはなるだろうし、
――少なくとも、自分がセルフィーだとは誰も気づかない。
ホッとしたセルフィーは、下着も着ることなく硬いベッドに背中から倒れ込んだ。
しっかりと天井があった。
八割がたがベッドで埋まり、残った二割も壁に作り付けのテーブルが占めるような安っぽいビジネスホテルの一室であった。壁紙はタバコで黄ばみ、隅の黒ずみが年季を感じさせたが、コンクリ打ちっぱなしではなく、なにより十分なプライバシーがあった。
ユニットバスもセルフィー的には嫌だったが、剥き出しのトイレと比べればはるかにマシだ。
12インチのテレビからアナウンサーの声が聞こえてくる。
「明日は大雪になりそうです」
――雪が降る前になんとかなった。
シャワーをあびたセルフィーの全身は心地よい疲労感に包まれていた。ガンガンにエアコンをかけた部屋はとても暖かく、ここ数日こわばりっぱなしだった緊張がやっとほぐれたような気がしていた。
ぶるっ、と彼女は身震いしながら枕を抱きしめた。
ここに来るまではまるで地獄のようだった。本物の地獄よりよっぽどひどかった。
魔力が回復するまで、裏路地で一晩凍えて過ごした。着替えや食事やらで奪った金はすぐに底をつき、稼ぐのに難儀した。自販機を破壊し、車上を荒らし、アホな女の財布から金をスッて、なんとかこの安ホテルにこぎつけた。
けれど、
その金だってこのままではすぐになくなってしまう。数日は問題なく滞在できるが、一週間となると難しい。とにかくもっと金を稼がねばならない。
金のことに考えが及ぶと、身体と一緒に温まった胸の奥もすうっと冷めてしまう。彼女はため息を吐いて体を起こし、カーテンをわずかに開けると、その隙間から通りを見下ろしつぶやいた。
「どうやって稼ごう」
通りでは高級車が渋滞している。あれを一台でも換金できれば相当だが、この町でそれをできるルートを彼女は知らない。視線を上げると、向かいのビルの屋上で輝くのは消費者金融の広告だ。あそこのATMを狙うのはどうだ? いや、監視カメラを無効化するのは思ったより手こずる。となると、やはり……
TVの中でアナウンサーが言った。
「明日のNPCの最高気温は4度、最低気温はマイナス15度の予想です」
NPCとはよく言ったものだと思う。
言葉の通り、この街の人間は皆、NPCだった。
女はナナトが、男はピラティスが作ったのだから当然だろう。ろくな社会・恋愛経験のないふたりが考えた男と女だ。警察官も、店員も、通行人もみんなクソアニメの登場人物のように言動パターンが画一的で、そいつらの裏をかいた犯罪も発覚しづらい。
ただ、キャッシュレス化の進んだこの街では誰も現金を持ち歩いていなかった。従って、数をこなさねばまとまった金を手に入れることは難しく、地図も口座もスマホすら持たぬセルフィーは、本当になにをするにも苦労した。
加え、この街は無駄に都会すぎた。圧迫感のある高層ビルがどこまでも続き、道路は常に大渋滞で、地下地上の鉄道網も無意味に曲がりくねっており使いづらい。
人はともかく、街については間違いなくピラティスに起因している、そうセルフィーは確信する。
だって私はリゾートが好きだし、ナナトなら中世ヨーロッパぽい城塞都市を作るだろう。こんなゴミゴミした地上的センスの都市設計は、田舎者以外考えられない。そして、
「次のニュースです。セントラル・タワーからの脱獄囚は依然として見つかっておらず……」
極めつけはアレだ。
窓の外に広がるビル群の奥に、雲にも届く超巨大な構造物が建っていた。
ニュー・パノプティコン・セントラル・タワー――四八時間ほど前にセルフィーが逃げ出してきた警察署はそのような名前で呼ばれていた。
直方体と円柱を複雑に組み合わせた特徴的なフォルム。全面ガラス張りのそれは周囲に立ち並ぶ無数のビルより数倍高い。深夜にも関わらずこの街のどの建物よりも明るく、タワーを起点に放射状に道路が伸びていることからも、まさに街の中心と言ってよかった。
パノプティコンというのは、イギリスの哲学者ベンサムが考案した監獄である。この監獄では中央部に監視塔が配置され、そこを中心に環状に独房が配置されている。この構造によって、収容者たちにはお互いの姿や看守が見えない一方、看守は中央からすべての収容者を監視することができる。なるほどセントラル・タワーこそがこの街の監視塔。街全体を巨大な監獄に見立てるだなんて、ピラティスでないと思いつけない発想だろう。
「地獄に落ちろ、糞ピラティス」
と、天国なら100%投獄間違いなしの呪詛を吐いてみても、セルフィーにはピラティスの生死はわからなかった。
異世界で死んだらどうなるのだろう? 存在が完全に消滅してしまうのか? わからない。ちなみにベンサムは地獄に落ちている。その罪状も刑期もセルフィーは知らない。どちらにしろ、人間は皆地獄に落ちている。そして人間でない私は、無実の罪で地獄以下の場所に落とされた。刑期はいつまで? そもそも終わりはあるのか?
そんなことをつらつらと考えていると、一瞬セントラル・タワーのペントハウスがキラリと瞬いた気がして、セルフィーは慌ててカーテンを閉じた。
――ナナトはどうなったんだろう。
私が生きている以上、ナナトも生きているのは間違いなく、事実死亡者が出たといった報道はなされていない。
一週間後に助ける、なんて適当なことを言ったことを思い出す。
なんでそんなことを言ったのか、自分でも疑問だった。もとはといえば、あいつのせいでこんな目にあっているというのに……
なぜだ? なんとなく? それとも罪悪感で? ただ熱くなっていただけか?
ま、今更そんなことはどうでもいい。あのアホを助ける義理なんてないし、むしろ離れることができてせいせいする。やっと自由になったんだ。私は私一人でやっていく。
そのとき突然、部屋のインターフォンが鳴った。
セルフィーはぎょっとして、音を立てぬようベッドを下りた。
そろそろとバスタオルを体に巻き付けドアスコープ越しに外を確認すると、赤い上着を着て、赤い帽子をかぶった男が平べったいダンボールを抱えて立っている。
「モノポリーピザです」
扉を開けると、男が言った。
「マルゲリータとフライドポテト、シーザーサラダで2880円になります」
「あ、ども」
セルフィーは会計を済ますと、邪魔なティッシュや電話機、灰皿などをテーブルの下――実際はテーブル付属の椅子の下へ、だが――へと放り出し、ピザを並べた。
異様に腹が減っていた。昼過ぎにカフェで食べたベーグルはとっくに消化されていた。
サラダにドレッシングをかけたところで再びインターフォン。
スコープを覗くと、黄色い上着を着て、黄色い帽子をかぶった男がプラスチックの容器を抱えて立っている。
「イチイチカレーです」
扉を開けると男が言った。
「エビカツカレー三辛にほうれん草とチーズ、ボイルドエッグのトッピング、シーフードサラダで2320円になります」
セルフィーがテーブルから電気ケトルを床に下ろすと、もう一度インターフォンだ。
スコープを覗くと、中華デリバリーだ。扉を開けると、麻婆豆腐にキクラゲサラダだ。インターフォン。イカスミのパエリアとシーフードサラダにビール。インターフォン。サングリアにパパイヤのアジアンサラダ。インターフォン。鮭といくらの親子丼に豚しゃぶサラダうどん。
「うわぁ、なんだかすごいことになっちゃった」
空腹からか、ついつい頼みすぎてしまっていた。
セルフィーはピザとパエリアと親子丼をベッドへと避難させ、ニンマリと微笑んだ。このあとまだ寿司がひかえているが。とても食べきれそうになかった。貴重な金だって無駄にした。
「でも……」
新たな門出を祝うならこれくらいのご褒美はあってもいい、と彼女は思う。
アナウンサーが言う。
「セルフィー容疑者はいまだ捕まっておらず……」
テレビに映し出されたそのマグショットにセルフィーは絶句する。
――なんだこの写真、これじゃまるで犯罪者じゃないか。
無愛想なそのピンク髪の女を直視できずに視線をそらすと、フライドチキンの容器を覆うアルミホイルに黒髪の女が映っていた。女はユニットバスの鏡で見たときよりも輪郭が不鮮明だったが、少なくともTVの中の犯罪者よりは生き生きしていた。
セルフィーはけっ、とつぶやいてアルミを剥がすと、様々な食べ物の匂いで蒸れた空気を鼻から吸い込み呟いた。
「さよならセルフィー」
そのとき、再び部屋のインターフォンが鳴った。
彼女は置き場のないパエリアの蓋を持ったまま扉を開ける。
扉を開けると、黒いスーツを着て、黒いネクタイをしめたハシビロコウ頭の男が立っていた。
「警察です」
間髪いれず内ポケットから手帳を取り出し、ハシビロコウは言った。
「NPPDの刑事、田中です」
「警察?」
セルフィーの手からプラスチックの蓋が落ちて、パシュンと乾いた音を立てた。
「あなたが津軽・バーニンガー・あけみさん?」
ハシビロコウの不穏な三白眼が細められる。
「そ、そうですけど……」
「失礼ですけど身分証を」
「あ、はい。ちょ、ちょっと待ってください」
セルフィーは焦りを隠すようにハシビロコウに背を向けると、ベッドの隅に放り出した上着を手に取り、震える手でポケットをまさぐった。
――慌てるな。
締め上げられるようなみぞおちの圧迫感を、頬の裏の皮をきつく噛んで食い止める。
――大丈夫だ。
そう自分に言い聞かすも、手のひらが汗ばみ、ポケットからうまくを免許証を取り出せない。
落ち着けセルフィー。カフェに監視カメラはなかったし、女はワックブックを開いたまま爆睡していた。AT限定だし車乗らなそうだし、パンパンの財布から万札数枚と免許証がなくなっていたとしても、すぐには気付かないって。
――それに最悪、エレクトリックボルトを撃てばいい。
なんとか免許証を取り出したセルフィーは、扉が閉じぬよう手をかけているハシビロコウの前に戻った。精一杯取り繕いゆっくり免許証を差し出してやると、彼は無言でそれを奪い取った。
まばたきのない鳥類の眼がセルフィーの顔と免許証とをものすごい勢いで行き来する。
セルフィーはぐっと上げた口角を必死にキープする。うなじに虫が這っているかのようなぞわぞわが走る。大丈夫だ。あの馬鹿女と私の骨格はほとんど一緒だった。だから大丈夫だ。ただ、あけみは二十一歳で私は九百九十八歳。それだけがわずかに不安だった。
「あのー、すみません」
「はひっ?」
「髪型、写真とかなり違いますね」
「あはっ。こ、この前イメチェンしたんですよね、イメチェン。結構変わっちゃってますかねー、あははっ」
「それに珍しいミドルネームだ」
「あーえはっ。そ、それもよく言われるんですよねー。ドイツ系? って、あ、いゃドイツはないのか。ど、どいつ? どいつが言い始めたんでしょうね、ヘヘへ」
うっわー、声色が高くなったり低くなったり不自然過ぎる。やばいやばいやばい。こんなの素人目でも怪しいじゃん。
「それにですね……」
ハシビロコウが顎を引き、その眼光が厳しくなったところで、
「あの!」
背後から唐突に割り込んできた新たな声に、セルフィーは飛び上がりそうになった。
同じく驚いたハシビロコウが後ろを振り返ると、
白い作務衣に白い丸帽をかぶった男が立っていた。
「野郎ずしっす」
大きな寿司桶を抱えた男は言った。
「特上、八千円になりやす」
「あーはいはい」
セルフィーは刑事を肩で押しのけ、裸の一万円札を差し出した。
背後でアナウンサーが言う。
「セルフィー容疑者は強盗容疑で――」
「いやー、なんだか危険な犯罪者がうろついてるみたいでしょう? 怖くて私出歩けなくてー」
作務衣の男からお釣りを受け取ると同時に、セルフィーはハシビロコウに笑いかける。
「……そうですね」
ハシビロコウは部屋に並べられた大量の食べ物に目をやりながら、免許証をセルフィーに返し答えた。
「くれぐれもご用心を」
「お勤めご苦労さまです」
免許証を受け取ったセルフィーは、そう言いながら扉をしめた。
そしてゆっくりと鍵を回し、細く長い息をついた。
不安で不安で、ハシビロコウが立ち去っても三分くらいはスコープから廊下を見続けたあと、ついに彼女はドアに背中を預け、するするとその場にへたりこんだ。
アナウンサーが言った。
「セルフィー容疑者はいったいどこに潜伏しているのでしょうか? NPPDは警戒態勢を強め、捜索を続けています」
「は、ははっ。ははははははは……」
今度は笑いが止まらなくなった。風船に穴が空いたように息が漏れて、引きつっていた頬の筋肉が痙攣して止まらなかった。
「はははは、ははっ、はははは、はぁ……」
そうして一通り笑い終えたあと、セルフィーは誰にも聞こえぬほどの声でもう一度呟いた。
「さよならセルフィー」




