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Break on Through (To the Other Side)

 本気の恋だった。最後の恋のつもりだった。


 ピラティスはパンプスを脱ぎ捨て走った。どうしようもない雨の中を走った。


 もう私には仕事しかない。


 メタ村から通信。

『さっ、サーモ戻りました! 犯人と局長は転送室です。気をつけて』


 正面玄関のガラスを雷にタイミングを合わせ拳銃で叩き割り、鍵を開けて中に入る。


 局中はひどいありさまだった。


 大理石の床は赤いペンキをバケツいっぱいぶちまけたみたいに血みどろで、焦げ臭い煙を発するテレビ、破壊されたテーブル、バラバラになった閻魔帳、割れた丼と吐瀉物、女性のものと思われる髪や、指が数本落ちている一角もあって、地獄よりも地獄めいていた。


 メタ村が言う。

『ピラティスさん、いいニュースと悪いニュースがあります』


 ピラティスは答える。

「悪いほうから聞こう」


『閻魔がヘルズエンジェルズを呼び寄せました』


「まずいな。ならいいほうは?」


『アークエンジェルズ、突入準備万全です』


「どっちも悪いニュースだろうが!」

 ピラティスは雨に濡れた髪を振り舌打ちする。


 時間がない、まもなくここは戦場と化す。それまでにナナトを、熊廣を、セルフィーを必ず仕留める。この私がブチ殺す。


 カオスと化した部屋の中央付近、血溜まりの中に警備員の制服を着た男がうつ伏せで倒れている。近づくと、赤く染まった制服に包まれた筋骨隆々とした巨体――こいつが明朗の彼氏。


「明朗、お前こんな奴と……」

 ピラティスは男向かって吐き捨てた。


 明朗は受けだからある意味浮気していたわけではない。そんな希望という名の妄想が鎌首をもたげ始める。いや妄想じゃない。実際、受けか攻めかは重要なんだ。明朗快慶でなく快慶明朗なのであればまだ未来は、まだ私の婚期は……


 メタ村が言う。

『その男は瀕死ですが生きてます。地獄側に回収されるとまずい』


 ピラティスは男の頭に拳銃の狙いを定める。神と同じく閻魔もまた強大な魔力を持つ。こいつが生きたままヘルズエンジェルズに回収されれば、閻魔が回復し神に対し不利な証言が行われる可能性がある。


 だから、ここで殺す。

 ピラティスは引き金に手をかけ、奥の部屋に銃声がバレないよう次の雷を待つ。


 ――しかしそれでいいのか?


「なにが正義だ」

 不意に明朗の言葉を思い出す。

「人質は罪のない天国人ッスよ」


 ピラティスは脳内で首を振る。


 いや、こいつは犯人たちと酒を飲んでいた男だ、同情の余地などない。


 雷。しかしピラティスには引き金を引くことができない。


「操り人形……」

 また明朗の声が聞こえる。

「先輩は神の命令に従うだけの操り人形じゃないッスか」


 雷なんて無視してピラティスはさっさと引き金を引こうとする。だけど手はガチガチにかじかんで動かない。


『ピラティスさん、早く射殺を!』


 意識を失った男は足元で微動だにせず、静かにピラティスの決定を待っている。


「明朗、あぁ明朗……」

 ピラティスは男の名前をうわ言のように繰り返す。自分がずっと涙を流しっぱなしだったことを思い出す。涙は髪からしたたる雨水と混ざり、意味もなく血溜まりの上で跳ねている。


『ピラティスさん!』


「……いや」

 ピラティスはゆっくりと呼吸を整え、マイク向かって噛みしめるように言った。

「今は時間がない。こいつの処理はアークエンジェルに任せる」


 心臓が破裂しそうだった。彼女は拳銃を下げ手の甲で涙をぬぐい、男のそばを通り過ぎた。


 ――とにかく今はナナトだ。あいつだけは、私と明朗の人生を狂わせたあいつだけは……


 待合の左奥に開け放たれたままの扉がある。その中へと続いている複数の血の足跡。あの向こうにナナトたちがいる。


 ピラティスが注意を向けた瞬間、いきなりそこから銃声が轟いた。


『えっ!? 犯人、局長に発砲しています』


 ピラティスは慌てて近くのソファに身を隠す。ぴちゃぴちゃと音を立てる床の血糊。ずぶ濡れなのに彼女の身体は異様に火照っていた。


 何発も、何発も、銃声は鳴りやまない。


 ――また仲間割れか? いかにも薄汚い死人らしいじゃないか。


 息を潜め、ピラティスは拳銃を握りなおし神経を研ぎ澄ます。


 ソファもまた血まみれであった。その周囲には小さな赤い綿のような固まりが散らばっている。

 これはなんだ? ソファの中身? いや一部は肉?

 そんな破片は部屋の隅、ドアが開いたままのトイレの中にまで点々と続いていて――


『局長後ろっ――』


 ノイズとともにピラティスのヘッドセットが外れ、血溜まりの中にずり落ちる。

「なわっ」

 まとわりつくぬるっとした感触にピラティスは驚き振り返る。不意を突かれ引き金を引く余裕もなかった。


「助けて!」

 そこにいたのは奇怪な格好の女だった。仲間割れで撃たれた犯人の一人だった。

「まだ死にたくない!」

 女はいまや赤単色となった髪を振り乱し、不潔な血液を撒き散らす。


「お前はもう死んでるだろ。亡者めが!」

 ピラティスはそのゾンビみたいな腕を振り払い、恐怖に満ちた顔を思い切り蹴り飛ばす。


「びゃん!」

 女はソファの角に頭をぶつけ、そのまま死んだように動かなくなった。

 彼女のボロボロのボリューミーなワンピースのすそからは四角く角ばったなにかが見え隠れしていた。気になったピラティスがそれを引きずり出すと、それは尋常でない分厚さの閻魔帳であった。その閻魔帳はあまりにも分厚すぎて、女に撃ち込まれた銃弾のほとんどを受けとめていた。


 ピラティスが閻魔帳を打ち捨てると再び銃声。奥からだ。


 それは今までとは違う種類の銃声だった。スナイパーの発砲だろうか?


 女の生死など無視し、ピラティスはゆっくりと観葉植物の陰まで移動する。転送室はすぐそこだ。


 中からはもう銃声は聞こえない。雨と風と雷の音以外なにも聞こえない。


 くそっ、ヘッドセットを回収し忘れた。戻るか、いや――


 銃を構えピラティスは慎重に部屋に入る。


 デスクの残骸。壊れた窓枠。


 そして赤い髪と赤い血液。

 魔法陣のようなものが描かれていたのであろうか、崩れた複雑な文様の中央、血の海の中に頭を撃ち抜かれた熊廣が転がっている。


 そのすぐそばにはセルフィーもうつ伏せで倒れている。体中に銃痕。左手首から先は欠損していた。


 ナナトはいない。


 もしや、奴はすでに――そんな疑問が頭をよぎった瞬間、


「ピラティスちゃん?」

 セルフィーがわずかに顔を上げた。

 蚊の鳴くような声だった。息も絶え絶えで、生気のない目。ここまで血に汚れてしまうと、年齢知らずのモチモチ肌もなんの意味もない。


「あぁ、ナナトはどこに行った?」


 ピラティスはゆっくりと彼女のもとへ歩き出す。一歩、一歩、拳銃を持つ両手に力を込めて、かつての婚活仲間のもとへ近づいていく。


「ねぇピラティスちゃん、私もう――」


 ピラティスは黙ってうなずいた。この傷なら放っておいても彼女はすぐに失血死するだろう。万一生き残れたとしても、ナナトを異世界に逃がした罪で死刑は免れない。


「これも命令なんだ」

 ピラティスはセルフィーにしゃがみ込み、彼女の眉間に銃を突きつけた。こいつだけは、せめてこいつだけはこの私が引導を渡してやろう。


「悪く思うなっ、ゃっ――!」

 突然ピラティスの後頭部に激痛が走った。


 振り向く。星の飛ぶ視界に、

「ナナトっ!」

 ピラティスは迷わず引き金を引く。


 ナナトの手指が弾け飛ぶ。奴の抱えたライフルが床に落ちる。


 次発を撃つ前にピラティスはナナトにのしかかられた。元の体勢が悪くこらえきれず、拳銃が跳ね飛ばされる。


 二人は血溜まりの中に転がりこむ。


 胸ぐらをつかまれ、ピラティスの骨盤にナナトの膝蹴りがクリーンヒットする。防弾ベストの下でシャツのボタンがはじけ飛ぶ。重い痛みが腹いっぱいに響く。


「クソガキがっ!」

 ピラティスはナナトの顎先めがけ思い切り拳を叩きこむ。右手に衝撃、吹っ飛ぶナナト。ハンマーでも使ったかのような鈍い音が部屋中に反響する。


 ピラティスはここぞと呼吸を整える。鼻につくのは血の不快な臭気。


 ナナトが起き上がる。


 影の落ちた彼の顔。その中央で光るのは痛みと恐怖に塗れた動物の瞳で――


 ピラティスはとっさに身構えた。


「うわぁぁぁぁ!」

 パンサーみたくナナトが跳躍する。


 だが、雄叫びあげて飛びかかってくるナナトの反撃は完全なデタラメだ。


 ピラティスはその一つ一つを丁寧にさばいていく。相手に戦法もクソもないが、捨て身の馬鹿力に、皮膚を介してビリビリとした緊張が彼女の全身をかけ巡る。


 ナナトの指の欠けた拳から飛び散るマンガみたいな血糊。それがピラティスの目に入り嫌でも生まれた隙めがけ、風を切って決死のパンチが飛んでくる。


 ――所詮は素人。


 ピラティスはブラインドでナナトの腕をつかみ、カウンターで自らの間合いに引き寄せた。


「!?」


 ナナトにまともに驚く暇すら与えず、彼女は器用に身体を捻ってマウントを取る。


 あとはもうワンサイドゲームだった。


 肘で、拳で、拳で、膝で。

 ピラティスは十代のみずみずしい肉体めがけ無心で手数を叩きこむ。


「あ、がっ……」

 ナナトの前歯が砕ける確かな手応え。間髪入れず次は鼻を叩き潰す。一撃一撃に殺意を込めて殴りつける。


 なんてことはない、こいつはただの人間の高校生だ。五百年警察をやっている私の敵じゃない。


 しかし今日の私はどうかしていた。今日だけで何回不意打ちを食らったことだろう。


 あぁでもだって明朗が、

「あぁ明朗……!」


 ――くそ、


 殺してやる。セルフィーと一緒にお前も恒久の孤独のなかに消えてもらう。


 そのときだった。


 パーン、と乾いた音が部屋に響いた。


 同時にピラティスの首に衝撃が走る。


 とっさに手をやると、なんだかぬるりと熱かった。

 ピラティスは息をのむ。

 ドク、ドク、ドクと心臓の拍動に合わせて右手に粘度のある液体が絡みついていく。


「な?」

 見ると彼女の手は真っ赤に染まっていた。


 ピラティスはゆっくりと顔を上げる。


「セルフィー!」

 あの女が私の銃を持っている。

「やめっ――」


 ついで右の太ももを撃ちぬかれ、ピラティスはその場に崩れ落ちた。


 首から足から凄まじい激痛が沸き、強度を保ったまま全身向かって放散していく。


「私……学生時代……」

 うんざりするようなあの耳障りな声。

「……ピラティスちゃんに、哲学のノート見せてって言ったのに……無視されたこと、まだ忘れてないから……」


 手足が爆発して四散しそうな感覚。ピラティスは悲鳴を上げるどころか、息を吸う余裕すらない。身体は意志に反して痙攣し、その下からナナトがゆっくりと這い出していく。


 待てこのクソ死人めが、ピラティスは遠くなりそうな意識を罪人への怒り、その一点に集中して必死に繋ぎとめる。


「行こう」ナナトの声。

「うん」答えるセルフィーの声。


 霞む視界の真ん中で、ナナトがセルフィーを羽交い締めにしてずるずると引きずりはじめる。


 ピラティスは立ち上がろうとする。が、身体はまったくいうことを聞かない。

「ま……てっ――」

 むせると血の塊が口から飛び出す。内臓のかけらみたいなものが床に転がる。


 ナナトとセルフィーはナメクジのようにじわりじわりと奥の扉向けて進んでいく。


 彼らはもうスナイパーの射程の外だ。早くとめなければ、私がとめなければ。


 これ以上強まることがあるのかってくらいだった雨脚がさらに強くなる。雷の連続で外は昼みたいに明るい。

 壊れた窓から差しこむ光の中、なにやら黒く小さな塊が部屋の中へと投げこまれた。


 カラン、という金属音がして一気に白い煙が巻き上がる。


 ――催涙弾。アークエンジェルズか、それともヘルズエンジェルズか!?


 直後、内蔵が反転するかのような圧力が沸き起こり、ピラティスはさらに嘔吐した。


「遙かなる無よ、穢れなき白よ、神の名のもといざ我が前に、タブラ・ラサ!」

 近くで扉の開く音がする。


 だけど涙でなにも見えない。激痛に彼女の五感のすべてが破壊されている。


「待てぇ!」

 気合と根性だけ。ピラティスは執念で自らを駆動させる。

「私より先にゴールはさせん!」

 なにか声に出さないと意識が飛んでしまう。なにもかもを投げ捨てたくなるのを必死に踏みとどまる。痛みをねじ伏せ這って進む。


 煙の中、ピラティスの右手がなにかをつかんだ。


「きゃ!」


 それは女の、セルフィーの足首だった。やった。だが、死にかけているはずなのにどこにそんな力があるのか、法外な力で足を振り回される。


 正義? そんなのもうどうでもいい。この手、この手だけは絶対に離さない。


「お前にだけはっ、お前にだけは先を越させんぞ!!」

 ピラティスは右手にありったけの力を込める。また血反吐を吐く。構うものか、私は別に死んでもいい、消えてもいいが、お前らが添い遂げることだけは許さない。


 銃声。


 ナナトの怒声。セルフィーの悶絶。


 銃声。


 催涙弾の煙の中、三人の身体がぐちゃぐちゃにもつれ合う。


 呼吸ができない。


 どこまでが自分の身体で、どこまでが他人の身体なのかわからない。


 ただ熱が、暑さだけがそこにある。


 銃声。


 いつしか痛みは三万光年彼方へと後退している。


 再び銃声。


 どこだ?


 アークエンジェルズたちはどこにいる?


 そもそも私はまだ生きているのか?


 もうみんなとっくに死んでしまって、彷徨える魂だけになっているのではなかろうか?


 身体は動いている? なにかに接触している? 血と汗と涙と体液。皮膚と皮膚。肉と肉。


 ピラティスの思考はどんどんぶつ切れになっていく。その一方で時間を極限まで薄く引き伸ばされ、間延びした永遠を味合わされているような感覚もある。


 しかし、そんな無限にも思えた死闘の終わりは唐突だった。


 ダダダダダダダ、轟音とともにピラティスの胸を貫くいくつもの衝撃。


 彼女の頭の中を白く白い光が埋め尽くす。彼女の身体は伸び縮みしてついに張り裂ける。


 扉の閉まる音だけが無常に響いた。




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