考えてもムダですよ
ブラインド越しに差しこむ投光機の光、水道の蛇口を全開にしてサラウンドで聞かされているような轟音のなかに、時折雷のそれが混じる。
ナナトは込み上げる胃液を強引に喉元に押し留める。
前から快慶の、後ろからチーちゃんの、二人分の血液が床一面に広がっている。薄い靴底にねっとりと張り付く死の気配、どうしようもない鉄の臭い、引き裂かれそうな緊張感、切迫感。
セルフィーの首元できらめく肉厚のボウイナイフ。そこから赤い、赤黒い血がドクドクと流れ、純白の衣装を汚している。
「そ、それ以上やったら殺すぞ」
ナナトは言った。しかし歯はガチガチと鳴るし、引き金に触れる指先もまたガチガチだった。
貞子みたいになった黒髪の隙間でQの眼光がきらめく。彼女はナナトに湿った視線を投げかけながら、ひひっ、と吹き出した。
「ふふふっ、殺す? そうじゃないでしょう? 殺すって思ったときにはもう行動は終わってる、そうじゃないですか?」
ナイフが横にスライドし、セルフィーの首元からさらに血が溢れる。
「さあ、殺すのならさっさと殺してください! 殺されるのも最高の快感です。あれをもう一度味わうだって悪くない」
ついにQはナイフすら頭の上に掲げ、ほらほら今なら余裕ですよ、などと挑発する。
ナナトの手元が震える。呼吸が、鼓動が安定しない。湿るグリップに握力が緩み、こめかみを伝って顎の先へと汗が流れ、床に落ちる。
「あーこれ、この感じ」
Qはついにカツラを投げ捨てた。ビチャ、と音をたてて黒髪が血溜まりの中に広がった。
「ほらセルフィーさんも黙ってないで、早く私を異世界に連れてってくださいよ」
Qは泣きながら笑っていた。
セルフィーはなにも答えない。
Qの腕の中で彼女は蝋人形のように固まっている。眼球だけが小刻みに揺れ、ピンク色の髪が縁取るのは真っ白い顔。それは健康的な白ではなく、紫がかった白。
考えろ、考えるんだ。
ナナトは小さくつぶやく。なにかこの状況を打破する突破口があるはずだ。
「考えてもムダですよ」
赤髪になったQが言う。両耳に痛々しく開けられたピアスが光る。
「人間の想像力なんてたかが知れてます」
「なに?」
「いやですけどこれ」
Qのキックに、黒煙を上げるテレビが音を立てて倒れる。
「私たちはこれにすら気づかなかったじゃないですか」
「…………」
「そもそもこんなの持ちこませてる時点でナナトっちさんも相当適当だったでしょう?」
「違う! 俺はしっかり考えて――」
「考えてあれならすごい馬鹿ですよね?」
「うるさい!」
「じゃあ、じゃあナナトっちさんはこれからどうするんですか? ナナトっちさんのプランを聞かせてください」
Qは続ける。セルフィーが死ねばナナトもQも警察に殺される。ナナトがQを撃てば同時にセルフィーの首が飛ぶ。撃たずに見逃せばQは新世界で混沌の王になる。そのどれもが素晴らしい結末に違いないと。
「あとなにかあるとすれば」
ナイフの先が玄関を向いた。
「警察が人質もろとも殺すつもりで突入してくるとか?」
マスコミの報道を踏まえれば、Qが求めるカオスも十分にありうる話だった。
いずれにしろ未来の分岐はどれも絶望的で――
ナナトは焦る。
考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。
「だから考えちゃダメですって」
セルフィーの首元のナイフがサッと下方に移動した。
一寸後、ナナトが反応したときにはすでにその惨劇は終わっていた。
ぼちゃっ、血溜まりの中に指が落ちた。小指、セルフィーの左手小指が血の海の中に落ちていた。
悲鳴。
「残り九秒です。一秒につき一本。それまでに決めましょう。ね、セルフィーさん」
「あぎゃぁぁっぁ!」
女神にあるまじき動物的な声を上げセルフィーがもがく。充血した彼女の両目から涙が溢れる。
なんだよこれ? なにが起こった? いやありえねぇだろありえんこんなのおかしいって!
「ほら、二本目」
左手薬指を落とされたセルフィーの叫びは雷すら凌駕する。耳鳴りのなか、鼓膜が本能的にびちゃびちゃと溢れ出る血の音を拾う。あまりにも不快で耳を塞ぎたくなる。
「セルフィーさん、早く転送しないと指がなくなってしまいますよ」
ナナトとセルフィーの目が合う。が、怖くてナナトはすぐにそらす。そこに潜んだ苦痛と憎悪を直視できない。
「だからナナトっちさん、考えちゃダメですって」
三本目。
セルフィーの苦悶の声にナナトは何度も首を振る。腰が抜けて倒れそうになる。吸っても吸っても息苦しさはひどくなって、氷でも触っているかのように指先がかじかむ。
四本目。
「もしかして人殺すのが怖いとか、そんなことないですよね? そんなのっていまさらじゃないですか? ワイバーンならよくて人間ならダメとかありえませんよね?」
Qが足元の快慶を蹴り飛ばす。
「この人から銃を奪って、警官とやり合って、ワイバーン撃ち落とした時のナナトっちさんはなにも考えてなかったはずでしょう?」
ナナトの脳ミソはグツグツと音を立てて沸騰しているかのようだった。たしかにQの言うとおりだ。今までの人生、考えて行動してもろくな結果にはならなかった。失敗した自己紹介、イジメられるのが怖くて不登校、学校も将来も考えたくなくて引きこもってたら爺ちゃんが死んで、さすがにちょっとは頑張ろうと行動した結果がトラックだ。
たぶん俺は相当なバカだ。
本当に無心になってやろうか。そう、ワイバーンと戦った時はただ必死で――
――ワイバーン?
ナナトの頭に電流が走った。
セルフィーの左手最後の指が落ちる前に、貧相な頭がある一つの作戦をひねり出す。
「きゅ、Qはっ、まだ知らないかもしれないけどっ」
彼女に行動させぬよう、ナナトは必死に言葉を刻む。
「て、転送はっ、魔法陣の真ん中じゃないとできない」
――そう、Qは実際の転送システムを知らない。
「ほう……、セルフィーさん、本当ですか?」
再びナナトとセルフィーの目が合った。ハイライトの消えた瞳からはもう恐怖以外の感情が読み取れないが、彼女は黙って小さくうなずいた。
「なら向こうに行きましょうか」
女子二人がゆっくりと後退していく。セルフィーの足が血によろめく。ナナトはライフルの構えをほんの少しだけ微調整し、脇を締め腹に力を込めて、じりじりと距離を詰めていく。
セルフィーの荒い呼吸が観葉植物を回りこみ扉の奥へ消える。
二人を追ってナナトも転送室の中に入る。
スプリンクラーはすでに止まっていたが、かわりに雨のしぶきが顔に当たった。
枠の崩れた無残な窓からは無茶苦茶な暴風雨が吹きこんでいた。
――やった、報道のとおりだ。あの黒いワイバーンがいなくなっている。
それに幸い警官隊もいない。まだいない。
部屋にあるのは穴だらけ水浸しになった魔法陣とデスクの残骸だけだ。窓から魔法陣の中央へと伸びる投光機の光が、雨の影でモザイクのように揺らめいていた。
――まだ可能性は残されている。
「そこでとまってください」
いつになく硬いトーンでQが言った。その顔にはわずかな疑念。
気づかれたか? ナナトは唾を飲みこむ。
「ナナトっちさんは魔法陣に入らないで」
「あ、あぁ……」
言われたとおり彼は立ちどまる。
いける。たぶんQは気づいていない。
「い、いや、ナナトだけじゃなくて、まっ、魔法陣には、一人しか乗れないんですけど……」
Qに引きずられ、魔法陣を血で汚しながらセルフィーは言った。能面みたくこわばった表情に汗にへたった髪が力なく張り付いていた。
ナナトは焦れた気持ちを抱えたまま、扉の前でライフルを構え続ける。
「いやでも……」
Qが言った。差しこむ光の一歩手前だった。
「こんな穴だらけの魔法陣が使えるなんておかしくないですか?」
その言葉にセルフィーが一瞬ぴくつく。Qの目の色が変わる。
「まさか……」
彼女は後方を一瞥し語気を強める。
「私が狙撃されるのを狙って――」
まずい。バレた。
「本当の転送装置はどこですか!」
セルフィーの左手首が吹き飛ぶ、噴水のように血が舞い上がる。
「答えてください!」
雷。
もはや悲鳴すらない。セルフィーの顔のパーツはこれでもかと中央に寄せ集まって、苦悶のしわが入りまくって、美しさなど見るかげもなく歪みきっている。Qがギラつく瞳でそんなセルフィーをのぞき込む。
「あぁ、あの奥の扉ですか」
――うぉわどうすればどうしたら俺は俺はセルフィーをあいつを銃で。
Qは窓とナナト両方の陰になるように、セルフィーの身体の盾に狙撃圏内へと入った。この暴風雨の中、人質を抱えて動く的を撃てるスナイパーなどそうはいない。
Qたちはそのままじりじりと光の中を後退していく。
ナナトは必死に震えを押しとどめる。
考えろ考えろ。
Qが射程を抜けるまであと一メートル。
ピンク髪の後ろから赤髪が見え隠れする。ちらちら見える無数のピアスに雷光が反射する。汗が目に入るが、瞬きをしている余裕はない。
あと五十センチ。思考を必死に回し続ける。
撃たなければ、殺さなければ。
セルフィーの身体はQの全身をカバーできているわけではない。隙はある、Qを殺す隙はある。だが百パーセントやれる確証はないし、Qの息の根がとまる前にセルフィーの心臓をナイフが貫かないという保証はもっとない。
だけど撃たなければ、殺さなければ。
あと三十センチ。
いややる。やるんだよ。考えちゃダメだ。アーチャーカンストの自分を信じろ。
――でももしセルフィーに当たったら?
ナナトは彼女の潤んだ瞳と再度向かい合う。大きく見開かれた碧い瞳、広がりきったその瞳孔はゆっくり右方向へと移動していく。
その先にあるのは――
そして、部屋中に銃声が鳴り響いた。
ナナトは、ナナトが引き金を引いていた。
「えっ?」
Qがかすれた声をあげた。
足を撃たれバランスを失ったセルフィーが崩れ落ちる。
すかさずもう一発発砲する。
「なにぃ!?」
Qの叫びは銃声にかき消され、今度はセルフィーの右腕から鮮血が噴き上がる。ナイフが床に落ちる。セルフィーの陰に完全に隠れるQ。もう一発。左肩を貫かれたセルフィーの身体が大きく躍動し、そして脱力する。
「くうっ!」
緊張を失った人体は重い。いまやQは倒れてきたセルフィーの下敷きだ。
さらに撃つ。セルフィーを撃つ。
血煙が舞い、血糊が広がる。しかしQはまったくの無傷だ。彼女は声にならぬ声でわめきながら、銃弾に躍るセルフィーの身体の下でもぞもぞと動いている。
それでも撃つ。ナナトは撃つ。セルフィーを撃つ。撃ち続ける。
ついに弾が切れた。
「ナナトぁーー!!」
冷静さを欠いたQの声が聞こえた。荒く息をつきながら、彼女は背中に回していた自らの銃をつかむ。
「ダムッ――」
セルフィーから這い出したQの頭を窓の外からの銃弾が貫通した。