Q & A
至近距離で突然爆音が鳴り響き、セルフィーは飛び上がった。
また雷かと思った。でも違った。
目に映るのはQと、彼女が持つライフルから立ち上る煙。
「ごぱっ」
銃口が向くほうから鈍い苦悶の声が聞こえた。
セルフィーは息をのんだ。正直嫌な予感しかしなかった。見たくない、知りたくない。だが両眼は生理的にそちらを向いてしまう。
「かっ……」
そこには虚ろな表情で腹を押さえる大男。
――快慶だった。快慶が撃たれていた。
「っく……」
ガクッと巨体がよろめく。
いくつもの穴の開いた制服。その穴ひとつひとつから赤がじわじわと広がり潔白の象徴である白を汚す。布が吸収しきれぬ赤は容赦なくボタボタと床に流れ落ちていく。
セルフィーはそこではじめて悲鳴を上げた。同時に快慶が膝から崩れ落ちた。
「うーん、胸を狙ったんですけど……」
Qが小首をかしげた。
「やっぱり私、銃は向いてないのでしょうか……」
「な、なんで、なんでなんで!」
頓狂な声をあげて、ナナトがQに詰め寄る。
「なんでって、それはこれに対する回答ですよ」
Qがライフルの先でテレビを指す。画面は『しばらくお待ちください』から、胡散臭そうなお抱えコメンテーターの顔へと変わっている。彼が語るのは、近年ますます増加、凶暴化する死者による犯罪について。
「そ、そそ、そんなそんな」
ナナトがQと快慶の間で視線をキョロつかせる。
うつ伏せの快慶の身体からはどんどん血糊が広がっていく。シトラスの香りを打ち消して余りある獣の匂い、血の匂い。
ピロリン、ピロリン。
天国を脅かす“うらめし公園連続バラバラ殺人事件”に関するコメンテーターの見解に被さるかたちで、テレビが場違いなアラートとテロップを発する。
『天国全域に大雨・洪水・暴風・雷警報が発令されました』
「さすがにここで殺さなきゃ立てこもり犯として失格じゃないですか?」
Qはニヤニヤと笑いながら、神様もご覧になられてますでしょうか? などと悪態をついて、おもむろにセルフィーに銃を向ける。
「あのぉ、セルフィーさん?」
「なっ、なに?」
黒く無機質なフォルムに嫌でもセルフィーの身体が硬直する。
「タブラ・ラサってなんですか?」
Qはシャンプーの種類を聞くときと同じ笑顔で言った。
――嘘だ。私はたぶん夢を見ているんだ。
セルフィーはふるふると首を振る。
だってこんなことあってはいけない。あるはずがない。酔ってるんだ。幻覚かなにかを見ているんだ。
「は、白紙のっ」
だが呂律が回らないのは酒のせいではない。現実は夢でも幻でもなく、いまやセルフィーはすっかりシラフに戻っている。
「白紙の、世界っ、はっ入った者の、望みどおりに、一から世界を創造できる」
「……本当ですか? 本当に神がそんな力が持つのならば、まずはじめに私たちを遠隔魔法で焼き殺さないでしょうか?」
「う、嘘じゃない、から。神は嘘をつけない、からっ」
「嘘をつけない?」
「せ、せせ政治的な意味で、む無理だからっ」
セルフィーは喉をこわばらせる。
「そ、それに、魔法にも制限があって、攻撃魔法を人に向けることはできないっ、天国憲法で決まってるから、し、信じて!」
これらは真実だ。ただし神には嘘すら真実にできるだけの政治力があるし、攻撃魔法にかわる暴力装置としてのアークエンジェルズがいるのだが……
「ふーん」
Qはセルフィー、ナナト、テレビの順に眼球をぎょろりと動かすと、銃口の向きは変えずに言った。
「まぁとりあえず信じますか。嘘なら殺せばいいですしね」
殺す、その単語にセルフィーは肝の冷える思いがした。
「うぅぅ……」
彼女は嘘みたいに汗をかいている。髪の毛がじっとり湿って重くなって、皮膚の表面がピリピリと痺れ、胸が詰まって呼吸ができない。床の上の残飯がぐにゃぐにゃと回転し、汚いマーブル模様を描き出す。
『先ほどの中継でセルフィー氏、犯人グループと酒盛りをしていましたよねぇ。しかも厳正であるべき審判局長の選抜に、神の関与を疑う発言もありました。ショーンGさんはこの点どのように思われますか?』
不安を煽るかのようにテレビにセルフィーの顔写真が映し出される。約五百年前、大学を卒業したてのやつだ。若い。が、髪型が致命的にダサい。
『神職にあるまじき言動ですよねぇ。次の神総選挙に影響するのは間違いないかと』
――なんで?
セルフィーの膝がぐらつく。
胡散臭いショーンの笑顔は、セルフィーの社会的信用が完全に失墜していることを示していた。
焼き鳥を食べたことも、飲酒も、神への放言も、異世界に行きたいとか言ったこともみんな天国中に報道されてしまっていた。立てこもりを許した責任とかいうレベルはとうに通り越していた。
――マジでありえない。なんで私ばっかこんな目に。
仮に生き残ったとしても地獄行きは免れない。それも左遷とかそういうんじゃなく実刑として。
セルフィーの目が潤んでくる。そこそこの給料、まずまずの福利厚生、それなりの社会的地位、そのすべてを失った妙齢の無職独身女性。そんな曖昧な存在になってしまう。出所したらいくつだろう? ピラティスみたく貯金しているわけでもないし、婚活どころじゃない、生活の危機だ。
Qがテレビを見て笑っている。ナナトがそんなQに不安げな顔を向けている。
銃への恐怖、これからどうしようという不安、将来への絶望、否認。様々な感情がセルフィーのなかで入り乱れている。そのネガティブな感情群を一言にまとめると「死にたい」とかそんな感じになりそうだが、かといって本当に死にたいわけなどあるはずもなく、あぁこれこそナナトが言うところの「異世界に行きたい」っていう気持ちなのか、ってふざけんなバカ野郎!
いきなり部屋の電気が消えた。
「ひ」
セルフィーは情けない声を出した。
「ねぇナナトっちさん」
なぜか電源の落ちないテレビがQの顔下半分を照らしだす。
「ナナトっちさんはどうしますか?」
「どどどどうします、ってなにを?」
「異世界をですよ」
Qが笑う。
「い、異世界?」
ナナトの声が裏返る。
「やっぱり世界を創るなら、力こそすべてって感じですよね?」
「はっ?」
「いやだから、みんなで仲良くとか安定した生活、なんてつまらないでしょう? 今はチートでもハーレムでもなく、弱肉強食こそが覇権でしょう?」
テレビの光に浮かび上がるQの顔は妙にのっぺりしていて不気味だった。
ナナトは口をあんぐり開けてなにも答えない。
『あ今、墜落したワイバーンが飛び立ちました。どうやら生きていたみたいです』
「急がないと警察に突入されます」
Qがライフルを下げた。
「だからナナトっちさんも細かいところを詰めておいてくださいね」
彼女はそのまま快慶の血溜まりを避けるように歩き出す。
「ちょっとチーちゃんさんにも聞いてきますから」
笑顔のQがセルフィーのそばを通り過ぎる。ほのかに香る焦げ臭さはいわゆる硝煙の臭い。
――逃げなくては。一秒でも早くこの女から離れなければ。
だけどセルフィーは息を荒げたまま微動だにできない。ナナトもやはり黙ったままで、青ざめた顔で立ちつくすのみ。そして快慶は死んだように動かない。
ブラインドの隙間からまばゆい光が差しこむと同時に、爆発するような音が轟いた。雨も雷もさっきよりその勢いを増していた。
Qがトイレのドアをノックする。チーちゃんがトイレに入ってから結構な時間が経っている。
『えっ? 今、たった今入った情報です。犯人グループの一人になんと、先日現世を騒がせたあの熊廣血広死亡者がいることが判明しました』
画面に大写しで映し出される女の肖像。ビビットな赤い髪と目鼻立ちの整ったその顔は――
『熊廣死亡者は生前に傷害、暴行、窃盗、脅迫、詐欺、住居侵入などの犯罪を繰り返しており、今年の三月には鋭利な刃物を用い、六十六人もの通行人を次々と――』
「ねぇ、チーちゃんさん。チーちゃんさんはどんな世界にしたいです?」
テレビの報道など意にも介さず、Qがトイレの扉越しに話しかける。
「こ、殺さないで!」
扉の向こうでチーちゃんが叫んだ。
「ねぇセルフィーさん、聞いて! 聞いてください!」
『熊廣死亡者は幼少期に両親を亡くし、福祉施設にて養育されましたが、十三歳のときに職員を殺害し逃亡――』
「わっ、私の名前は山田チンチロです。恥ずかしくて今まで本名隠しててすみません! 犯した罪も全部償います。万引きしたカラコンは弁償します。複垢使って自演したのも謝ります。適当な四字熟語でキャラ作ったり、太ももをインスタに晒したり、マスクで顎隠したりももうしません。ラノベ大好きのくせにスノッブぶって、私が一番才能あるとか思って、養成所のみんなを見下してごめんなさい!」
チーちゃんの舌っ足らずの震えた声にセルフィーはいたたまれなくなる。ただでさえ衰弱したメンタルに針でチクチクされるかのような痛みを覚える。
「自殺もする気なんて全然なくて、再生数稼ごうと酸性と塩素系の洗剤で遊んでみた、とかしちゃったら手が滑っちゃっただけで、ホント死ぬつもりじゃなくて、単に生きてるって実感を味わいたかっただけなんです。許してください!」
やめてくれ、わたしはもうここの職員じゃない。黙っててくれ。異世界でもどこでも行ってくれ、巻きこまないでくれ。
「地獄でいいですから! 何千年でも、何万年でも償いますから、助けて、死にた――」
バラバラバラバラ。
チーちゃんの命乞いはフルオートの無残な銃声に掻き消された。
「チーちゃんさん、それってつまり私たちを裏切るってことですよね」
Qがドア越しに銃を連射していた。
返事はなかった。
『なお裏・明治公園到着後からの足取りもつかめておらず――』
ナレーターの淡白な声と激しい暴風雨が不穏な沈黙を埋め合わせる。ドアの隙間から溢れた赤黒い液体が白い床に広がっていく。
「ほいQ、ほまえ!」
「なんですかナナトっちさん?」
「あんで、はんでチーちゃんを!」
「はい? 裏切り者は当然これでしょう?」
なにがおかしいの、って感じの口調でQは自らの首を切るジェスチャーを示す。
ひゅー、とセルフィーの喉から高い音が漏れた。もう随分と自分の呼吸が止まっていたことに気がついた。
次いで襲ってくる異様な悪寒。全身が総毛立つ。指も手も腕も脚も肩も腰も凍りつき、ぴくりとも動かせなくなる。
「それで、ナナトっちさんは決めました? やっぱナナトっちさんもカオスな世界を望みますよね?」
「……い、嫌だ」
ナナトは答える。
「お、俺はそんなの嫌だ!」
「えっ? でもさっきナナトっちさんパンクでアウトサイダーな世界って言ってたじゃないですか? 通り一遍な異世界じゃないって……」
「ち、違う、俺のはそ、そんな意味じゃ――」
雷に上書きされるナナトの声。
「嘘ですよね?」
「嫌だ嫌だ! 俺は俺の――」
「ねぇ、嘘ですよね?」
Qの眉間にしわがよる。
「冗談ですよね?」
「違う違う違う!」
ナナトが叫び、ガチャガチャと音を立てながら不器用に銃を構える。
「お、俺は楽しい世界がいい!」
ナナトは銃口をQに向けた。風で飛ばされた石かなにかがぶつかったのだろうか、ガラスにヒビが入る音がした。
ナナトはさらに声を張りあげる。
「平和な世界がいい!」
滝のような汗に真っ赤な瞳。ナナトは指が白くなるくらいグリップを強く握り、銃床にこれでもかと頬を押し付けている。
「……そうですか」
Qの目が険しく釣り上がった。彼女もおもむろに銃を構え、二丁の銃が互いに向き合うかたちとなる。
「ナナトっちさんならわかってくれると思ってたのに……」
「な、なんだよ意味わかんねーよ! んなの無――」
「こっちこそ意味わかりませんよ! ナナトっちさんだってスリルが好きなんじゃないんですか!?」
ナナトの言葉をさえぎりQが怒鳴る。
「ス、スリル? そんなの別に」
「え? いやいやいやいや、人質にスマホをいじらせたり食事頼んだり、警察の前に飛び出してワイバーン落としたりするナナトっちさんじゃないですか!?」
「いや、それは――」
「行動が全然読めなくて、カオスで、ランダムで、最高だったじゃないですか! それがいまさら平和な世界だなんておかしいですよね!? ありえないですよね!?」
Qはうわずった早口で言った。
彼女は本心からそう思っているようだった。実際その声も銃口も震えていて、目には涙さえ浮かべていた。
――なんなんだこの女。
すっかり石化しきったセルフィーの身体の内側で心臓が早鐘を打つ。こめかみの奥がなにやらドクドクいっている。ダメだ、頭が痛くて破裂しそうだ。重要な脳の血管がプチンといってしまう、もしくはいってしまっているのではないか?
「ねぇナナトっちさん、これも前フリなんですよね? 私を驚かせるために、私を楽しませるために――」
「違う! 俺は、俺は、Qちゃんの異世界になんて行きたくない!」
「そんなっ、ありえません! ナナトっちさん、ねぇそれを下ろしてください、頼みますから……」
『熊廣死亡者は施設で日常的な虐待を受けてお――』
「うるさい!」
局中に響き渡るかのような大音量で叫び、Qがテレビに連射する。
「私がこうなったのにあいつらは関係ない!」
動揺を隠しきれないナナトにQは続ける。
「私が子供の頃、両親が運転する車が事故ったんです。ガードレールを突き破って崖から落ちて、でも、なぜか私だけが生き残った」
不粋に唾を飛ばしまくし立てる。
「そのときなんです。そのときはじめて私は気づいたんです。ついさっきまでそこにあったモノがグチャグチャになる、すべてが一瞬でひっくり返てしまう、あの感覚に。最高でした。一秒後に死んでいるかもしれない理不尽さ、生きるか死ぬかの瀬戸際、びっくり箱みたいなワクワク感、あれ以上の快感はない、そう思ったんです。だからっ――」
そこで不意に嗚咽。Qの目尻から涙がこぼれた。
「だから私は、私はっ――」
銃声の残響のなか、Qは過呼吸ぎみにしゃくりあげる。無様に肩を震わせ、二の腕で涙を拭おうとしてライフルを落としそうになって、慌てて構えなおす。
「はぁはっ、こ、殺しても殺しても、誰も私のことなんかわかってくれなくて、ひぅ、でも、だけどナナトっちさんなら、ひ、ナナトっちさんならっ、私のこと、わかってくれると、うぅ、思ったのに……」
そのあとはよく聞き取れない。
テンパったQはまだまだ話し足りないとナナトになにやらもごもごわめいている。震える唇の両端には唾の泡が溜まっていて、全身は不安定によろめいていて、必死。あまりにも必死に身体を揺らし過ぎて、せっかく整えたウィッグがまたズレて回転していく。
「ねぇナナトっちさん。なんで、なんで私が……」
そんなQの姿を傍から見ていたセルフィーの心の氷が不意に、パリン、と音をたてて割れた。
――話なげーんだよメンヘラが。
Qのスカートからだらしなくはみ出したブラウスに、脂汗の浮いた首筋に、みすぼらしく丸まった背中に、こいつは消えることを恐れている、ナナトの銃に怯えている、そう思った。
――説明的な長台詞には罰金刑が科される。
続いて湧き上がる感情は恐れではなく怒り。
――私はこんなクズ相手にいったいなにをやっているんだ。
別に私はなにひとつ悪くないのに、こんなゴミに殺されてしまっていいのか? 常識的に考えて間違ってるだろ、ありえない。
潤滑油――苛立ちはセルフィーの硬直した身体のきしみを改善する力として機能する。指、手首、肘、肩と関節のこわばりが徐々にほぐれていく。凍てついた血液の温度が高まっていく。
Qの攻撃対象が自分からナナトに移ったこともあるのだろう、わずかながら生存への可能性が残されているような気がした。セルフィーは必死に息を抑えつつ、犯人たちに向ける目を細めていく。
「ナナトっちさん……私はっ、私はあの感じ、せ、生と死が、黒と白が入れ替わるあの熱さ、あの快感を、はぁ、何度だって味わいたいだけなんです。本当にそれだけなんです!」
Qが鼻をすする。頬の筋肉がピクピクと痙攣し、ついに黒髪が顔全体を覆う。
――よく考えれば別になんということはない。
これまで何万という凶悪犯を裁いてきたセルフィーは知っている。土壇場におけるこの類の戯言は、自己消滅の恐怖と死に際の承認欲求のコラボに他ならない。原風景だの初期衝動だのを他人にペラペラ語ること自体が、すでにそれが揺らいでいることの証明である。
「スリルが、ただそれだけが欲しくて……」
――しかもスリルだと? くだらない。
彼女が語るその哲学自体もセルフィーにとっては耳慣れた類型の一つにすぎない。要するにこいつは、ただのオリジナリティに乏しい壊れた犯罪者の一人だということ。
時間の流れが遅くなる。自分が冷静さを取り戻しつつあるのがわかる。
そう、冷静さこそこの危機を切り抜ける唯一の方法だ。だって私は今までこんなゴミを無限に処理してきたじゃないか。もっとハードな修羅場だってくぐってきたじゃないか。
セルフィーはパリパリに乾いた唇を舌で湿らせる。意識して口呼吸から鼻呼吸に切り替える。
「……もういいです、わかりました」
Qが唐突に声色を変えた。
「ナナトっちさんの考えはよくわかりました」
ナナトはなにも答えず、ただ眼光を鋭く尖らせている。
「撃ってください」
Qが髪の隙間から透ける口角を片側だけ上げ、わざとらしくライフルを持つ両手を離す。
バシッ、とベルトに吊られたライフルがQの腹に当たる。
「ねぇナナトっちさん、撃ってください!」
ナナトはやはりなにも答えない。
ぷすぷすと煙を上げるテレビを背景に、火花の散りそうな二人の視線が交錯する。
「正直私には、ヒリヒリする感じさえあればそれでいいんです。異世界なんて別に興味ありませんし、要するに命のやりとり、生きてるって実感、ははっ、チーちゃんさん結構いいこと言いますね。だからナナトっちさん。撃つならさっさと撃ってください。もっと私を楽しませてください!」
Qはさっきまでとは人が変わったかのように口元を歪め、ライフルを背中に回す。
「ほらほら手ぶらですよ、撃つなら今しかないですよ?」
――これだってただの虚勢だろう。
セルフィーは二人に悟られぬよう必死に脱出の機会をうかがう。
いまや彼女のメンタルはほぼ完全に回復していて、すべては頭のおかしな死人に陰で脅されてどうのこうのとかいう、警察に保護された後の弁解の文句まで頭に浮かんでいる。
――どちらにしろ犯人同士で争っている今がチャンスだ。
セルフィーはそろりと一歩後ずさった。
そのとき突然サンダル越しに生暖かい感触。
見ると、快慶から溢れた血が足元を侵していた。
「わっ!」
セルフィーが足を上げた瞬間、なにかが首に巻き付く実感。
それはじっとりと湿っただれかの腕で――
「やっ、やめろ!」
こちらを向くナナトの銃。
「いやですよ」
耳元で熱い吐息。
「はなっ――」
ナナトが飛び出すまえに、セルフィーの首元がスッと冷たくなる。
「私ってやっぱり銃はダメみたいです」
ピリッとした線の痛み。
「これ、こっちのほうがしっくりきます」
セルフィー目下でなにかがきらめいていて、
彼女はゆっくりと視線を下ろす。
「あ」
そこにあるのは快慶が持っていたゴツいナイフだった。
「いっ、ひっ――」
どうしようどうしようどうしよう!
「ナナトっちさんが撃たないのなら仕方ないです。セルフィーさん、死にたくなかったら早く私を異世界に連れていってください」
痛い痛い痛い痛い痛い痛い!
「は、わっ……」
なにか言わなくちゃとセルフィーは口をぱくぱく動かすが、まともな声になってくれない。
「時間がないんです。さあ早く」
嫌だ嫌だ嫌だ。死にたくない死にたくない死にたくない。ありえない、ありえないってこんなの!
セルフィーの首元から心拍に連動して血が噴き出し、耐え難い疼痛が高まっていく。傷口から溢れた血は胸から腹へ、腹から腰へ、腰から脚へと流れていく。クリーニングでも落ちないくらいに制服が汚れていく。
Qが笑う。
なにひとつ楽しくないのに痛すぎてなんだかこっちまで笑えてくる。
あはは、虚勢は私のほうだったあははは。そうだ楽しいことを考えようなにか楽しいことをって楽しいことってなんだろう? 私、この仕事辞めたら血の池リゾートに行くんだ。運慶と快慶も誘ってさ、ピラティスにも謝ろう、おじさんだって許してくれるよねきっと、ってさすがに無理か……
「おいQ!」
叫ぶナナトと目が合った。
――てかクソニート、お前射撃のスキルあんだからさっさとこのアホ射殺しろや。
って、え?
セルフィーは思わず浮かんだその考えにぎょっとする。
この私が死人なんかに期待している!?
いやいやなんで私が死人になんてありえない、この世の終わりでもありえない、あーなんなのどうしてこんなことになってるのこんな男に、私なんでこいつとケバブ食ったんだろどこでこいつちょっといいかなとか思ってしまったんだろ、いやだってコンサルタントが妥協するのが大事ってか七百越えたら恋は胸じゃなく頭でとか言ってた先輩最高イラついたし、いやこれは話が違うあーもう最悪ムリもうマジでムリ終わり終了人生破滅――
「セルフィーを離せ!」
――だから早く撃てや、このウスノロが。
あーもう、今の自分を救うことができるのがこいつだけだという現実が悔しい、悔しいけど一応こいつはワイバーンを撃ち落とした、ピラティスから私を守ってくれた、罪人だが根っからの悪党というわけではないしだからなんとかなるはず私は生き残るサバイブできる大丈夫だ助かるはずで――
「今すぐ離せ! さもなくば……」
ナナトのひょろりとした身体が、銃口が小刻みに揺れている。脂汗まみれの顔は怯えを隠しきれていないが、ナイフ越しに感じるQの震えに比べればよっぽどマシだ。
無残な残飯。解けた靴紐。散らばる閻魔帳。すっかりメイクが落ちた自分の顔。彼の黒い瞳には様々なものが反射している。
その瞳は黒い、天国人のものよりあまりに黒すぎて、なにを考えているのかわからない。
もしかするとなにも考えていないのかもしれない。
だけど――
まばゆい光とともに雷が轟いた。
「助けてナナト!」
気がつくと、セルフィーは張り裂けんばかりにそう叫んでいた。