千葉天警到着しました
ブラックワイバーンが落ちた。人間たちに落とされた。
このミレニアムで一番の大事件だった。しかもマスコミにその一部始終を中継されてしまっていた。ヒートアップする群衆。ピラティスの後ろではバリケードが亡者の波に押され、署長も明朗もその対応に追われている。
ピラティスはわざとらしく鼻をつまんだ。
罪人の臭いがますます濃くなっている。肉食特有の臭いだ。汚らわしい。
ヘッドセットから無線でメタ村の通信が入る。
サーモによると人質二名は健在、しかし犯人たちもほぼ無傷。要するに完全に作戦失敗。
どうして気づかれた? ありえない。
審判局の玄関扉がぐわりと動き、ピラティスは身構えた。
「みんなー、それにマスコミも、見てたかー?」
開いたドアの隙間からナナトの声がする。
「俺たちはなにもしてないのに、こいつらは撃った!」
愚民どもから歓声が上がる。
「お前らから撃ってきたんだろ!」
ピラティスは半開きの扉向かって叫んだ。叫んでからしまったと思った。今犯人を煽ってはいけない。いつ人質に危害が加わるかわからない。
案の定ナナトは外に飛び出してくる。
「嘘つくな、俺たちを分断して突入するつもりだったんだろ!」
両手を上げ丸腰をアピールするナナトの眉間に、ペガサス狙撃部隊のレーザー照準三つ、四つと集中する。スプリンクラーに濡れたのかナナトは全身びしょ濡れで、彼の足元には水たまりができていく。
「おい落ち着け、そんなつもりはなかった」
「はぁ!? あんなのありえねーだろ!」
「だからそれはちがっ――」
「嘘!」
ピラティスの発言は甲高い女の声にさえぎられる。
「でっち上げで無理やり手柄作るのがあんたたちのやり方じゃん!」
ナナトに続き玄関から出てきたのは同じく濡れ鼠のセルフィーだ。
ボリュームダウンしたピンク髪からは水が滴り、濡れた制服からはライムグリーンのブラが透けていて、死者の男どものテンションがさらにあがる。
「おいセルフィー!? お前は中にいとけって」
「私にも言わせて!」
「ちょ待て――」
「ピラティスちゃん!」
セルフィーは大声で言う。
「なんで撃ったの、私を殺すつもりだったの!?」
セルフィーは目に涙を浮かべ、ぶるぶると肩を震わせている。
――クソが、悲劇のヒロイン気取りかよ。
「ねえピラティスちゃん、もしかしてこの前の街コンで私がピラティスちゃんの狙っていた男取ったから?」
「は?」
「あの人とはすぐ別れたんだけど!」
「い、いやしょれは」
ピラティスの声が震える。群衆がどよめく。
「それは今関係ないだろ!」
「そりゃ、私が死ねば敵が一人いなくなるもんね!」
「だから違うって!」
「私を殺す気なんでしょ。絶対そうだ!」
「話を聞け!」
「いやそう、絶対そう。目見たらわかるもん、ピラティスちゃんなら絶対するもん」
「あーもう、だーかーらー」
なんなんだお前は話を聞け。そんなことだからすぐ男に逃げられるんだろうが、
「セル――」
「やっぱお前らは信用できない!」
いきなりナナトが割りこんできた。
「いやこれはお前には関係――」
「うるさい! どっちにしろさっきの銃撃、あれがすべてだ。お前らは人質もろとも俺たちを殺す気だった。間違いない」
ナナトは吠える。
彼の濡れた髪から水滴が飛び散りピラティスにかかる。彼の異様に鋭い瞳、血走った瞳の赤が青白い肌にやけに映える。
「今だって俺を狙撃しようとしている。いつでも殺せるようにしている」
「ペガサス下がれ!」
署長が怒鳴る。
「そこのクソマスコミもだ!」
「異世界! 異世界!」
背後から自然とあの不快なシュプレヒコールが湧き上がる。
ピラティスは下唇を噛みしめた。
あぁ、これだから罪人どもは忌まわしい。人の話をろくに聞かず、自分の都合ばかりで突っ走る。自らの穢れを省みず、過剰な権利を主張する。
ほどなくそんな愚民の群れから投石が始まった。ピラティスは飛んできた空き瓶を僅差でかわす。
「先輩危ない!」
「へ?」
明朗の声にピラティスが振り向くと、バリケードを飛び越えた上半身裸の中年男が手頃な石を持って彼女の真後ろに迫っている。
「っ!」
間に合わない。
「うぉぉぉぉ!」
しかし男は明朗にタックルを食らい、地面に引き倒された。
間一髪であった。
ピラティスは意図せず硬直した自分の肉体に、はらわたが煮えくりかえりそうになった。
荒ぶる暴漢を押さえつける明朗の額から血が流れている。
「異世界! 異世界!」
ナナトがどんどん亡者どもをアジっていく。
ピラティスの肩が震える。
――私は警官失格だ。
仕事をなめていた。人間をなめていた。ナナトに少しでも情を抱いた自分を悔いる。人間とまともな信頼関係を築けるなどと考えたのが甘かった。すべては私の失態。明朗に先輩としての顔が立たない。
――クソが!
身体が溶けそうに熱い。防弾ベストの下は汗でびっしょりだ。セルフィーの蔑むような視線に口の中いっぱいに酸っぱい味が広がる。
とにかく、とにかくだ。今は時間を稼ぐしかない。ピラティスは降り注ぐ投石など無視し、呼吸を整え、頭の中で状況をもう一度整理する。なにより転送室から突入できなくなったのが痛い。こいつらにワイバーンという天然のバリケードを与えてしまった。ドラゴンの放水では追いつかぬこの暴徒の群れも含め、今は近隣天警からの増援を待つほかない。そこまで犯人の意識を人質からそらし続けるしかない。
「ほらな、ドラゴンがまた水を吐いてる。お前らはやっぱりなにもしてない人をいたぶることしか考えてない」
なにがなにもしてないだ。お前らは存在自体が罪、生きているだけで罰を受ける対象だろうが、という思いをぐっとこらえる。プロとしての自覚を、血塗れの明朗を意識する。
「もうダメだ。これ以上待てない。今すぐ異世界に行けないなら人質を殺す」
「待て、早まるな!」
局に戻ろうとするナナトを強引に呼びとめる。
「は? 誰が待つかよ!」
「待てって! 神とは連絡がついている。異世界も考えてみるとのことだ」
「本当か? ただの時間稼ぎじゃないのか?」
「違う、嘘じゃない」
「俺をここに引きとめて、さっきみたいにまた突入するつもりだろう?」
――くそ、バレている。
疑念の固まりのようなナナトの視線。最初の電話の震え声が嘘のようだ。なんなんだこの男、閻魔帳と全然違うじゃないか。
「嘘じゃない」
ピラティスは嘘を必死で塗り固める。
「神はもうすぐ来る」
とにかくナナトを引き留める。
「神は殺人鬼の話など聞かんぞ!」
「なら今すぐ異世界を作ってよ!」
セルフィーがわめく。
「いやそれは……」
「できないことないはずでしょ。それってつまり私が殺されてもいいってこと?」
「わかっている。だから神に――」
「なら神をここに呼んでよ、私が直接頼むから」
「いや、さすがに神をここには……」
なんなんだこの女。お前はどっちの味方なんだ。相手は罪人だぞ。男なら誰でもいいのか?
『千葉天警到着しました』
ピラティスのヘッドセットにメタ村からの通信が入る。
『チバリアンデスワーム部隊も一緒です』
とにかくもう少しだ。ピラティスはパラディンを指示する署長と目だけで会話する。今はちょうど八時半。九時まで、九時まで引っ張れれば手段はある。
「おいお前ら、武器を降ろせ! 話ができん、早く!」
ピラティスの指示に左右の警官隊が銃を下ろす。
「わかった。神のことはわかった善処する。そうだ他、他になにかないか? 神が来るまで食い物以外になにか欲しいものはないか?」
「ならまず電気をつけろ!」
「メタ村、電気だ。電気を戻せ!」
ピラティスは口元のマイク向かって怒鳴る。
『ですがピラティスさん……』
「電気つけろつってんだよボケが!」
ほどなく局に灯りが戻る。二つの長い影がピラティスに向かって伸びてくる。
「他には?」
「あそこ、あそこで婆さんが殴られている」
「バカ貴様、刑が確定していないものに手を出すな!」
署長の命令で、パラディン部隊は完全に防戦に回る。
「その人もだ」
ナナトの発言に、明朗が捕らえていた男を亡者の中へと突き返す。
「おい他はあるか? 言うとおりにしたぞ!」
『デスワーム、展開開始しました。局の真下まで二十分あればいけるそうです』
よし行ける。もう少しの辛抱だ。ピラティスは目をカッと見開いて気合を入れる。
「おい、セルフィーもなにかないのか?」
おいクソ女、なにか言え、なんでも言え。
ナナトを捕まえてお前に一生分の貸しを作ってやる。私にキラキラした生活を見せつけたことを、街コンで男を奪ったことを後悔させてやる。
「異世界! 異世界!」
セルフィーもナナトもなにも答えない。濡れた髪の下のギラギラとした目でじろじろと私を一挙手一投足を警戒している。
「ほら言えよ」
ピラティスもナナトを見据える。
目を離さない。目をそらしたほうが負けだ。心拍数が上がる。世界が狭まる。観衆の声がフェードアウトしていく。
「なんでも希望どおりだ。そのかわり人質は殺るな。殺ったら総力を上げてお前らを殺す」
五秒、十秒。
やはり二人はなにも答えない。
「異世界! 異世界!」
ゆっくりと時間だけが過ぎていく。
二十秒、三十秒。
「もう二度と騙すな」
先に折れたのはナナトだ。
彼は目を右上にそらし、ごまかすように公園の時計を指さした。
「時間は短縮だ。十時まで。十時までに異世界に行けなければ本当に殺すぞ!」
ピラティスは首筋にぞくりと勝利の歓びが走るのを感じた。
十時だと? なにを悠長なことを言っている。
「わかった。十時までになんとかしよう」
お前はもうすぐ終わりだ。無間地獄行きだ。拳を強く握る。
そのときだ。
辺りが急に暗くなった。
『ピラティスさん、か――』
無線がノイズに掻き消される。
次の瞬間、空からすさまじい風が吹き、足元のゴミが見るかげもなく吹き飛ばされた。
「なんだ!?」
皆が一様に空を見上げる。
空が……白い!?
異世界コールがトーンダウンし、驚愕と戦慄を帯びた喧騒に置き換わっていく。
星空を埋め尽くす白い巨体――そこにいたのは一体の巨大なドラゴンであった。ブラックワイバーンの三百倍はあろうかというそいつが、どでかい羽根を二枚同時に動かして、上空から地上向かってどんどん近づいてくる。
「なっ、あ、あれは……」
神奈川天警のグレイトドラゴン?
いや違う。あまりにもデカすぎる。まさか、
「……マスタードラゴン」
そのことに気づいた瞬間、ピラティスはなぜか言いようのない多幸感に満たされる。それは五百年前はじめて犯人を確保したあの感覚に似ていた。
「なんだよあのドラゴン……」
「まさか本当に……」
ナナトとセルフィーも唖然としている。
ドラゴンが地面に近づくにつれ、その巨体が光を帯びていることがわかった。煉瓦みたいな分厚いウロコに覆われた全身がオーラのように淡く発光している。明媚、純潔、荘厳、そんな言葉が似合う。それに比べれば、警察のドラゴンやワイバーンなどまるで子供だ。実際奴らは隅のほうで怯えて縮こまっていた。
ゴウッ、ゴウッ、――いつしか場にはマスタードラゴンが発する巨大な羽音しかなかった。それはとてつもない大音量であったが、どことなく柔らかで、ある種の催眠的な静けさすらたたえていた。
ドラゴンはいまや誰もいなくなった中央広場付近でホバリングし、滝を登るようにダイナミックに、それでいて新雪が降り積もるようにゆったりと着陸した。
そしてなにかを確認するように一度だけ大きくいななく。
地鳴りのような力強い咆哮にピラティスは鳥肌が立つ。ドラゴンの威厳に満ちた顔は笑っているようでもあり、怒っているようでもあった。彼女は完全に言葉を失っていた。それを間近で見るのははじめてだった。
ドラゴンが地に頭を垂れた。当然、頭の上にはあの御方が鎮座していた。
「神様!」
すべての天国人たちが同時にひざまずく。
なぜ今になって神が来られたのか、その真意はわからないが、とにかく完璧なタイミングだった。今日の私はツイている、ピラティスは心のなかでガッツポーズをキメていた。
ナナトとセルフィーは死者たち同様、ほうけて棒立ちになっている。
「な、あれが神だ。嘘じゃないだろ?」
「あ、あぁ」
これだけの光景を見て信じない人間などいない。
ピラティスは言う。
「いくら神でもすぐに世界創造は無理だ。準備ができたらまた連絡する。それでいいよな?」
ナナトはきまり悪そうに顔を伏せ、
「わ、わかった」
聞き取れないほど声でそうつぶやくと、セルフィーと一緒にいそいそと局へと引っこんでいった。