ブラックワイバーン・ダウン
最初の銃声はセルフィーがデスクの引き出しを開けようと身をかがめた際にあがった。
大きな破裂音の連発、直後に続くガラスの割れる不穏な響きに彼女は悲鳴を上げ、デスクの陰に身を伏せた。
「なにこれなにこれ?」
再びバラバラと銃声。
「きゃ」
セルフィーはデスクの下に潜り込む。脈打つ心臓。無意識のうちに服の裾を強く握りしめている。
――攻撃されてる? 嘘でしょ!?
外からの、内からの銃声。合間にガラスが、床が、壁が砕ける衝撃。
「やだ!」
突然、部屋の照明が消えてぎょっとする。
ありえないありえないありえない。
セルフィーは丸まってできるかぎり表面積を小さくする。それでも唇の、膝の、指先の震えを抑えきれない。Qが意味不明の奇声を発するたび、隣の部屋でわめく快慶の声が聞こえるたびに、セルフィーの身体は縮み上がる。
殺される殺される殺される。
頭を締め付けるガンガンいう音が銃声なのか耳鳴りなのか区別がつかない。
――どうなってんの? なんでこんなことが起こってんの?
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ、絶対違う絶対違う絶対違う」
セルフィーは言葉にならぬ言葉でわめきながら、浅く速い呼吸を繰り返す。
銃声、怒声、嬌声。
人質を無視して強行策にでたのか? ナナトはどうなった? このデスクの強度は大丈夫か?
様々な思いが交錯する。
時間が経つのが遅い、いやむしろ早いのか、わからない。
自分の感覚が麻痺しつつあるのか、鋭敏になりすぎているのかもよくわからないし、わかりたくもない。
ただ、
銃声が唐突に鳴りやんだ。
「はぁはぁ……はぁ……」
Qが息を切らしているのがわかる。
マガジンを投げ捨て交換している音が聞こえる。
セルフィーはデスクの陰から少しだけ顔を出し、恐る恐る辺りを窺う。
薄暗い室内、窓枠のそばで身を潜めるQの背中が見えた。
乱れたスカート、腕まくりしたカーディガン、荒い呼吸に上下する背中に長い髪。その周りにはガラスの破片が飛び散って、ブラインドにあいた無数の銃痕からは外の光が差しこんでいる。
硬い大理石の床も、デザイナーに依頼した魔法陣も銃弾で穴だらけになって、いつものオフィスは見るも無残な姿に成り果てていた。
むき出しの腕が脚が冷たくなった。ガクガクと歯が鳴ってとまらない。内臓が圧縮されていくような不快な戦慄。
かと思ったらいきなり皮膚の表面がぐわわっ、と熱くなる。
炎だった。
瞬時に燃え上がるブラインド、そこから部屋の奥にかけて、床から天井にかけて、一直線に炎のラインが伸びていく。
ブラックワイバーン――嫌な単語が頭に浮かんだ。高い機動力と強烈なファイアブレスを有する、天国警察が誇る最強の飛竜である。
天井でスプリンクラーが作動するが、そんなものではどうしようもできない火力。
「なにあれ……」
「嘘でしょ……」
青ざめるセルフィーと慌てるQをよそに、窓からの火炎放射自体は十数秒ほどで収まった。
だがブラインドは完全に燃えつきて、窓枠ごとボロボロと崩れ落ちた。
「あぁぁぁ……」
セルフィーの予想は見事に的中してしまう。
投光機の灯りを逆光に、窓の向こうで黒いワイバーンがホバリングしているのだ。
見せつけるかのように吠える飛竜。その咆哮が腹の底まで響く。
すかさず銃撃が再開する。
急に怖くなって、なぜ自分はバカみたいに顔を出しているのか意味不明になって、セルフィーは急いでデスクの影に身体を引っこめる。
もう悲鳴を上げることすらできなかった。
両手で耳を塞いだってなにも変わらない。バサッ、バサッという大きな羽音が近づいては遠ざかる。薄闇で揺れる明暗、たゆたう陰。バラバラとうるさい銃声が、ジャージャーいうスプリンクラーの雨の音が、不快な煤の臭いが、肌に張り付いて体温を奪っていく濡れた髪が、服が、じわじわと正気を侵食する。
デスクにも弾が当たったのだろう。側板に接するセルフィーの二の腕にビリっと振動が走る。寒くて怖くてきつくて、視界はブラックアウト寸前だ。撃たれなくとも、このままではショック死してしまうかもしれない。
再び銃撃がとまった一瞬、
「おい大丈夫か!?」
ナナトの声がした。
「なんなんですか、あの黒いのは!?」
そしてQの声。
「完全にハメられた! 警察めナメやがって!」
「くっ、全然当たらない!」
銃声やスプリンクラーに負けぬ声量で怒声が飛び交う。
死者たちの声がセルフィーの頭の中で反響する。彼女は体育座りで頭を抱え身を縮こませ、すべての情報をシャットアウトしようとするがうまくいかない。目をつむろうとしてもまぶたの筋肉がこわばって動かない。
「Qちゃん危ない!」
というナナトの叫びが聞こえた直後、
「うぐがっ!」
言葉にならない大声をあげQとナナトのふたりがセルフィーの目の前に倒れこんでくる。
「ひぃ」
水しぶきが跳ね、セルフィーは思わず口元を押さえた。
「くそっくそっくそっ!」
眼前で右腕を押さえたナナトがうめいている。彼の右腕全体は血に濡れていた。黒いTシャツですらも赤く染めようかというその血は、ドクドクとスプリンクラーが洗い流すそばから溢れ出て彼の肩口から腕へそして床へと流れ落ち、白い床を汚していく。
そんな床に転がるのは黒いウィッグ。
「大丈夫ですか?」
Qがナナトを抱きかかえる。黒髪の下に隠れていたのはナナトの血と同じくらい赤いショートヘアーで――
「いっってぇぇーーっ!」
ナナトが再び叫んだ。
そこでセルフィーは気がついた。自分で自分の腕を無意識のうちに強く握っていることに気がついた。「あわ、ゎわあっ、ああぁぁわ……」
見ているだけなのに、痛い。このままでは死ぬ、殺される、嫌だ、怖い。
Qが言う。
「とにかく止血、止血をしましょう」
「くっ、ぅおっ、おう……」
Qはカーディガンを脱ぎ、それでナナトの腕の付け根を縛り応急的に止血する。上品なベージュのニットははみるみるうちに赤く染まっていく。
「くっ……つかなにQちゃんその頭?」
「ああ、これですか」
「うん、ちょっとびっくりしたんだけど……」
「私、赤いものを見ると髪が赤くなるんです」
「は? え、なんで真顔? てかいやいや、その理屈はおかしいでしょ」
「うーん……じゃまた後で話します」
「あ痛、ちょ、ちょっときつく縛りすぎ、いやま、俺らに後があればなんだけど……」
などと、ナナトとQは軽口を飛ばし合う。
そんなふたりにセルフィーは絶句する。
いやちょっとなんでこんな状況でそんな余裕なの? 痛くないの? 死にたくないの? カーディガンでしばって済ませられる程度なの? なんでふたりとも微妙に笑ってんの? ドMなの? アドレナリン出すぎじゃないの?
ナナトたちは再びセルフィーの視界から消えた。
――早く終わってくれ、誰か早く私を救い出してくれ。
セルフィーの心の叫びはだれにも届かない。
警察はなにをやっている? 一歩間違えば私が撃たれるだろうが。ストーカーとかろくに動かないくせに、こういう物騒なことばっかやる気になってさ。
「Qちゃん。持ち方はそうじゃなくて、こうだ」
「こう?」
「いや左手は添えるだけじゃなくて、こう。そう、そう抱えこむ感じで」
「あぁ、たしかに撃ちやすくなりました」
「無理して当てようとしなくてもいい」
「わかりました」
「たぶん向かいのビルの屋上にスナイパーがいる。あまり乗り出すなよ」
セルフィーはそんなふたりのやりとりをデスクの下で聞くでもなく聞いていた。彼女の恐怖はまったく収まらなかったが、いつしか銃声が少しばかり減っていた。
ナナトが来てから形勢があきらかに変わっていた。
デスクの陰のセルフィーは彼らの戦闘を直接見ているわけではないが、少なくとも部屋の中まで撃ちこまれることはなくなっている。ファイアブレスだって最初の一回だけだ。
「俺が走ってデカブツを引きつける」
ナナトが声を張り上げる。
「Qちゃんはその隙を」
Qの了承の声はスプリンクラーの水しぶきの中に消えていく。
もはや散発的な銃声以外に聞こてくるのは彼らの息使いとスプリンクラーの音だけだ。ワイバーンは後退しているのか、羽音が聞こえない。
――今なら逃げられるのではないか。
ふと、そんな希望がセルフィーの頭をよぎった。
二人は今、自分たちを守ることで手一杯だ。私のことなど気にしちゃいない。
待合室まで走れば助かるかもしれない。おそらくあのゆるふわクソ女がいるだろうが、銃は二丁ともここにある。それに向こうには一応快慶もいる。
――銃撃がやんでいる今ならいける。
見込みは一気に確信へと変わり、セルフィーは慎重にデスクの下から抜け出した。
側面に移動し、首を回して窓のほうを見やると、
「きゃ!」
ちょうど上空からワイバーンが急降下してくるところだ。
セルフィーは恐怖で車の前に飛び出したネコのように固まってしまう。
しかし、ナナトがワイバーンに発砲し、事なきを得る。
それはコンパクトでピンポイントな反撃。
セルフィーは水浸しの床にへばりこみ胸を撫で下ろした。
意外とナナトはできる、FPSで身につけたのか、彼にはあきらかに射撃のスキルがある。
「今だQちゃん、いけ!」
ナナトが窓の前を駆ける。
ワイバーンがブレスを吐こうとしたタイミングで今度はQが乱射する。肉を穿つ音とともに飛竜の悲鳴が上がる。
「いける、いけるぞ!」
Q側にスライディングしたナナトが追加の銃弾を叩きこむ。腕も脚も細く、胸板は運慶や快慶の半分もない、そんな少年があのブラックワイバーンを圧倒している。
連撃に絶えられなくなったワイバーンが上空へと舞い上がった。
――今だ。
ここぞというタイミングでセルフィーは駆け出した。デスクを回りこむ。舞い上がる水しぶきの中を、銃痕が残る魔法陣の上を突っ走る。
「おい!」
ナナトがこちらを振り返った。紅潮した顔。目が合ったセルフィーの足がとまる。
「おいセルフィーなにやってる、伏せろ!」
刹那、ナナトがセルフィーに飛びついた。
「きゃ」
濡れた床にふたり一緒に倒れこむ。
銃声。
「ひぇえっ!?」
これまでで一番大きな銃声に反射的に閉じたまぶたを開くと、今まで自分が立っていた床に致命的な穴が開いていた。
背筋が凍りついた。
「だからスナイパーがいるって!」
ナナトと一緒に転がるように、身体が射程の外へと押し出される。
さっきまでの反動のように相手からの銃撃が激しくなった。
鼻先を掠める粗野な匂い。じわりと侵食してくる男の体温。ナナトの黒髪からしたたった水が、ぼんやり開いたセルフィーの口の中に入る。
「大丈夫か?」
「…………ぁ」
セルフィー答えを待たずして、ナナトは叫んだ。
「おいまた来るぞ! Qちゃん今だ」
「はい」
ナナトが離れる。間髪入れずQが発砲する。
セルフィーは動けない。
空気が、全身が揺さぶられ、金属的な飛竜の鳴き声が耳をつんざき思考を切り裂く。ダメージを確実に与えていると思われるくぐもった鈍く低い音が連続する。剥がれたウロコが飛んできて床に深々と突き刺さる。まばたきをする余裕すらなく、目と鼻の先を銃弾がかすめていく。
「やったか!?」
規則的な羽音にランダムな不協和音が加わったのがわかった。
見ると、ワイバーンが無軌道な上下運動を繰り返している。ナナトでない男の悲鳴がいくつも聞こえる。
ワイバーンはウロコを撒き散らしながら、より一際甲高くいなないた。それは怒号、もしくは絶叫のようで――
「おいこっち来るぞ!」
ナナトが叫ぶ。
「やべ、離れろ!」
暗くなる視界。次いでなにかがひしゃげたような、爆発したかのような轟音。同時に襲ってくる地を揺さぶる衝撃にセルフィーは身体を丸めるしかない。
――そして、完全な闇が訪れた。
「……………………………………………………………………………………っぷは」
セルフィーは長く浸かっていた水中から顔を出すかのように酸素を肺に取り込んだ。
――たぶん数秒は気を失っていたと思う。
ゆっくりとまぶたを開くが、あたりは暗くなにも見えない。
「……ごほっ、ん、くっそなんも見えねぇ」
「ナナトっちさん、大丈夫ですか」
スプリンクラーの音の隙間から聞こえてくるのは犯人たちの声。
「かはっ、ごはっ、ごはっ……」
猛烈にけむくてセルフィーは何度も咳きこむ。咳きこむたびに身体の節々が痛む。でも普通に痛むだけで致命的なものではなさそうだ。
助かった――のか?
真っ暗でよくわからないけど五体は満足だと思う。思いたい。
――ん、真っ暗? 窓は?
怖くなったセルフィーは手探りでポケットからyPhoneを取り出した。
ボタンを押すと、ぱあぁ、と周囲が明るくなり、ちょっとだけホッとするが、
「へっ?」
窓に目をやって、心臓がとまるかと思った。
そこにあるのは壁であった。崩れた窓枠を埋め尽くす黒いウロコの壁であった。墜落したワイバーンが建物に寄りかかって、その動きをとめていた。
「……嘘でしょ」
しかし嘘ではなかった。
スマホの薄明かりに犯人二人も近づいてくる。
「やべ」とか「すご」とかいう小さなつぶやき。光に照らされる大口を開けたQと、右腕を普通に動かすナナトの笑顔をみるかぎり、こいつらも大した傷ではなさそうだった。
それにワイバーン、こいつもまだ生きているっぽい。呼吸に合わせ、黒い壁は小さく上下に動いている。とはいえこの様子じゃ再起不能だろう。
勝った。人間たちがあのブラックワイバーンを撃退していた。
二人の死者たちはどちらともなく長い息を漏らし、ふふ、ははは、と小さく笑いだす。さざ波のように広がる彼らの笑みにセルフィーの表情筋もわずかに弛緩した。別に楽しくはなかったが、少なくとも命が繋がったことは実感できた。
「ナナトっちさん、やっぱりすごいです、最高です!」
「おう。まぁ俺はアーチャーとしてもカンストしてるからな、ってQちゃんいつのまにまたカツラかぶってんの?」
「えっ? なんのことですか? 私はずっとこの髪型ですけど?」
「いやそんな小芝居別にいいって!」
そんな死者たちの懲役五百年ものの掛け合いに、セルフィーはふと我にかえった。
ワイバーンが落ちてからずっと、プーーーーーーーーーーーー、というあのイヤな電子音が鳴り続けていることに意識が向かう。
――いや違う。私はあえてこの音を意識しないようにしていた。
セルフィーはふらふらと、窓枠とワイバーンの間に残ったわずかな隙間へと身を乗り出した。
「あんまり近づくと危ないぞ」
ナナトの声も耳に入らない。
セルフィーは隙間に手を差しこみyPhoneの懐中電灯アプリで下のほうを照らす。
「そんなっ!」
絶望がそこにあった。
「ああぁ嘘、ありえない」
「おいだから危ないって」
ナナトがセルフィーに駆け寄ってくる。
「だって……あれ、あれ私のPMWじゃん!」
yPhoneの光はワイバーンの腹に押しつぶされぺしゃんこになった白い車を照らし出していた。
それはセルフィーの愛車であった。駐車場にとめていた高級車の残骸であった。
プレスされた車体。踏み潰された虫から飛び出す内臓みたいにはみ出したエアバッグ。助手席に載せていたグデネコのぬいぐるみも破裂してより一層ぐでついていた。
「わわわ、うゎあぁぁぁ!!」
セルフィーは狙撃されそうになったとき以上に取り乱す。
「なんでなんでっ! どうしよ、あぁ百八十年ローンだったのに! 大事に乗ってたのに!!」
「おいちょっと落ち着け――」
「だってだって!」
ナナトの声はクラクション以上の音量でこだまする彼女の絶叫に掻き消される。
「痛っ、おい暴れんなって、あんなのどうしようもねーだろ」
彼は窓際でじたばたするセルフィーを羽交い締めにする。反動でyPhoneが隙間に落ち、明かりが消えた。
「ここは危ない。中に戻ろう」
「そうですね」
再び暗黒と化した転送室の中、セルフィーは二人がかりで待合室へと引きずられていった。