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花咲く乙女たちの楽苑  作者: 扇智史
1・冬の果実
7/30

 浅い夢から醒めたのは、虫の知らせだったのだろうか。


 真っ暗な部屋の中で、警告のように青い点滅が天井に反射している。パソコンの周辺機器が、夜なお飽くことなくまたたいているのだ。

 枕元のスマホに目をやれば、まだ午前二時。タオルケットにくるまった彼女のすぐそばで、男の寝息が聞こえる。三十代後半の小太りの会社員で、SNSで出会って半年、何度か部屋に泊めてもらっている。肉体関係を持つ時もあるが、疲れて寝てしまう方が多かった。どちらでも、同じだけ金を払ってくれる。


 もう一度眠ろうとして、しかし、首筋をなでるぞわりとした寒気が、理楽の目を開かせた。

 枕から頭を上げて、カーテンの引かれた窓の方を見た。ひょっとしたらそれは、理楽が眠りの中で聞いた物音の記憶が、無意識に刻まれていたせいかもしれなかった。


 みしり。ガラスを何かが押している、と直感した瞬間、理楽は跳ね起きていた。

 耳障りな音、ガラスが割れてはじける。カーテンが風船のように膨らんで、冷えた外気と花の匂いが同時に部屋に躍り込む。理楽はタオルケットを跳ね飛ばし、部屋の端まで駆けた。その時にはすでに、彼女の胸には”千虹菫”のつぼみが宿っている。


「電気ぐらいつけたらどうっす?」


 開きかけた花が、途中で止まる。理楽の視線の先で、割れたガラスを踏む音がして、土足の侵入者の影が部屋に射し入ってきた。肌寒そうにジッパーを上まで閉めたピーコートの襟元から、小さな”花”がいくつも伸びて、少女の周りを覆っている。

 その”花”には見覚えがあった。確か彼女は”電気百合”と呼んでいた。

 豆電球のように火がともると、織子の不敵なほほ笑みが夜闇に浮かび上がった。


「でも、さすがはリカさんっすね。気づくの早いわ」

「オリちゃん、どうして?」


 かろうじて声を発する。なぜこんな夜襲を仕掛けたのか、と問うたつもりだったが、織子は肩をすくめて別の答えをした。


「あたしの”花”、知りませんでしたっけ? リカさんの匂いなら、ずっと覚えてますよ」


 織子の頬の脇に灯る、寺の鐘に似た形の”電気百合”の明かりが、首輪に繋がれた犬みたいに理楽のいる方に揺れ動く。一度遭遇した相手のことはずっと覚えていて、いつまでも追い続けられるという。


「そうじゃなくて」

「ああ」


 わざとらしく、織子はうなずく。そして、あっけらかんとした声で、言い放つ。


「ごめんねリカさん。でも、こっちも必死なんで」


 次の瞬間、カーテンを貫いて、弾丸のような”花”が室内に飛来した。高速で刻むドラムのビートを思わせて、フローリングにとがった種子が無数の傷を穿つ。

 この攻撃も知っている。夏頃に街で助けた女の子、確か真水まみといった。


 理楽はとっさにキッチンに飛び込み、引き戸を荒っぽく閉じる。木製の薄い扉を、ががが、と種子が貫いてくるが、勢いの衰えた種子は理楽のもとまで届かない。

 狭いキッチンに逃げ場はないが、織子が追ってくる気配もない。一気に距離を取るべきか、と玄関へと駆け出しかけて、思いとどまる。敵が追いかけてこないのは、その必要がないということ――ここでなくても理楽を仕留める算段が出来ているという意味だ。おそらく、待ち伏せがいる。

 せめて彼女らの敵意を阻喪できれば、と思い、理楽は内心歯噛みする。彼女の”花”の香りは人の心を様々に操るが、興奮や怒り、あるいは混乱を引き起こすものばかりだ。心を鎮め、優しくさせる”花”は、いくら試しても、理楽の手に咲くことはなかった。


「ねえ、こいつどうする?」


 ドアの向こうから、真水の声が聞こえてくる。


「ほっとけば……あ、やべ」


 忘れ物に気づいたみたいな織子の声と同時、硬いものの砕ける音と、「痛ぁぁっ!?」という男の悲鳴が同時に聞こえ、理楽の背筋に寒気が走る。


 がたん、と戸を開けると、血の色が視界に飛び込んできた。


 目に痛いほど白かった壁紙を、噴水のような血液が赤黒く染め上げていく。二次元に刻み込まれたおぞましい水仙のようだった。その根元で、男の死にかけた体がもがいている。右手に握ったスマートフォンの画面は無残にひび割れて、手のひらごと巨大な棘に貫かれていた。叫びの代わりにこぼれ出るのは、どろどろとした血の泡だけ。ベッドのシーツも真っ赤に染まって、端から赤い滴がフローリングに垂れ落ちている。

 灯火を受け、織子と真水は、薄暗いほほ笑みで男の苦悶を見下ろしている。


「死ぬかな?」

「死ぬよね。まあいいんじゃない?」

「未成年買ってるキモくて臭いおっさんなんて、この世でいちばん価値ない生き物だよね」

「ほんとそれな」


 血の匂いにも、湧き上がる死の気配にも、二人は何も感じていないらしかった。殺す理由さえあれば、邪魔な段ボールを除けるみたいに人間を片付けても何とも思わないのか。それとも、年を取った冴えない男の気色悪さが、死よりも惨めに見えるのか。

 理楽をずっと助けてくれた男だった。欲望や哀れみが理由でも、理楽の身体をあたためてくれたことは事実だった。寒さは人も草木も殺す。男は、理楽の命の恩人だった。


 何かが目の奥ではじけた。


 ――次の瞬間、織子が口を押さえてうずくまっていた。

 その脇で、真水は忌々しげに充血した目で理楽をにらむ。


「あんたも……クソだ」


 ぐるり、と、真水の瞳が裏返って、彼女はその場に昏倒した。首筋は青さも白さも通り越してどす黒く染まり、自慢の”花”は見る影もない褐色に枯れて萎びていく。

 その活力を吸って、黒い”千虹菫”はいっそう赤く、重く、まがまがしく咲き乱れていくかのようだった。

 床一面が、黒い花に彩られている。花弁の中央から、霧のように漂う花粉は、かすかでも吸い込めば毒が全身に回り、細胞を蝕む。”楽苑”での戦いでも決して使わなかった、最悪の花だ。


 殺意によってしか咲かない花を、理楽はためらうことなく咲かせた。

 人を殺した人間が殺されて当然とまでは思わない。しかし、行きずりに躊躇なく人を殺した織子と真水は、復讐されても仕方がない。それは理楽への報復を呼び込むかもしれなかったが、かまわなかった。暴力の連鎖を抑止する社会の論理から、理楽はひどく遠いところにいる。


 深く、長く、理楽は息を吐いた。洗濯してもいないセーターを着込んで、パジャマ代わりのジャージを床に投げ捨てる。ハンガーに掛けたままのパーカーは、男の血で汚れて使い物にならなくなっていた。ひどく風通しの良くなった部屋の寒気が身に染みて、小さくくしゃみをした。

 ジーンズを履き直すと、ポケットに入れたままだったユズの実が、太股と尻にごりっとこすれた。はっぱをかけられたような気分で、理楽はきびすを返して玄関に向かう。つま先を蹴って靴を押し込み、何の気なしに外に出た。

 ドアの前で、きょとん、としている少女がいた。


「あの……」


 彼女が待ち伏せ役だったはずなのだ、と、一瞬遅れて気がついた。あまりに日常的な理楽の仕草と気配に、つかのま、彼女は自分が戦闘の場にいるのを忘れたみたいだった。しょせんは十代の少女だ。

 理楽は、彼女の横を通過する。挑みかかる気もなかった。織子に誘われて理楽を襲う算段だったにしても、別に彼女が男を殺すのに手を貸したわけではない。復讐の相手ではないのだから戦う意味はない。

 少女の方は、自分がここにいる意味が失われたことにも気づいていないのか、「ねえ、ちょっと」と間抜けな声で理楽を呼び止める。

 無視しようと思ったが、ふと、気が変わった。振り返り、肩越しに問う。


「何しに来たの?」

「は?」

「あーしを狙ってきたんでしょ? 何したかったん?」


 とぼけた空気が流れた。あっけにとられた少女は、まだ状況が分かっていないのだろう、緊張感の失せた表情のまま言葉を垂れ流す。


「織子さんが、金が要るって言って。リカさんの客なら、JK買うくらいの金は持ってるだろ、ってなって。殺しちゃっても別にいっか、って」

「……そう」


 罪の意識も躊躇いもない話しぶりに、理楽は、それ以上のコミュニケーションを諦めた。織子の事情には興味がない。どうせ聞いたところで、理楽に手助けできることなどない。見張りの彼女を責めて憂さを晴らしても、それで何かが戻ってくるわけでもない。理楽の手元からは、失われていくものしかなかった。

 理楽は今度こそ、その場を立ち去った。いちおう最悪の可能性は考えて行動しないといけない。

 思いついたのは、結局、手慣れた方法だった。ロビーのオートロックの前で足を止め、スマホを触って最初に出てくる電話番号を呼び出すと、コール一度で相手が出た。


『部屋なら空いてますよ』


 ソフィアはあいさつもなしに告げた。彼女たちの会話はいつも、そういう事務的なことから始まってばかりだった。


「それと、コート貸してくれる? 汚れちゃって」

『あげますよ、一枚や二枚。お似合いの、たくさん取ってますから』

「さんくー。それとさ」


 ほんのすこしだけ間を置いて、


「”花”で人殺したら、犯罪になるかな?」

『たぶん立証は出来ませんが、自白があれば状況証拠で有罪という線もあります。刑務所、入りたいですか?』


 問い返されて、さすがに理楽はちょっと考えた。これでも、今まで警察の厄介になったことはなかった。前科がつくとどうなるのか、理楽にはピンとこないけれども、何か良くないことが起こりそうな気はする。


「今よりまともな生活できるかなあ」

『外を出歩けないの、意外と堪えますよ。あと、きっと太ります』

「んむむ」

『いいから、一度うちに来て下さい。お話聞かないと、何とも』

「うん」


 通話を切って、もう一度くしゃみをひとつ。

 自動ドアを抜け、底冷えする夜に歩み出した。上着が一枚減っただけで、自分の体がひどく心許なかった。肌身どころか骨まで染み通るような寒気と、ひとけの絶えた夜の住宅街の孤絶感に、理楽はうつむいて足を止めてしまう。

 星明かりさえ直に彼女を串刺しにして、月への贄にするのではないかと思われた。

 屋根のある部屋が恋しくなったけれど、もう、そこは理楽の居場所ではなくなってしまった。

 あたたかさの記憶は、凍った心に疼痛を起こす。急ぎすぎた命のやりとりは、理楽の魂をつかのま麻痺させていた。縮んだ指先に血の通うように、感情がふたたび励起してくる。


 人を殺そうとした。コミュニケーションの最後の手段に、破滅的な暴力を選んだ。それも”花”に心をむしばまれたせいだ、と、必死に自分に言い聞かせる。しかし、お前は元々そういう人間なのだ、と心の暗がりからささやく声がする。


 どちらが本当なのか、ひとりで心に問うても答えのあろうはずはない。


 苦く冷たい唾を飲み込みながら、理楽は歩いた。歩き出すしか方法は残されていなくて、それがどこへ続く道なのかも彼女は分かっていなくて、ただ足音だけが、高らかに黒い空へと溶けていくばかりだった。

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