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花咲く乙女たちの楽苑  作者: 扇智史
2・記憶たち
10/30

 がん、と、大きな音を立てて、ロッカーを閉じた。ドアの冷たい表面に手のひらをつけた姿勢のまま、雪衣はうつむいて佇む。


「九鬼さん? あの」


 美咲が、横からおずおずと声をかけてくる。「その、私もロッカー……」


「ああ、ごめん」


 まばたきして、雪衣はその場を退いた。ジャージとバスケットシューズをロッカーにしまうと、美咲は雪衣に振り返る。とぼけた黒い瞳が、まっすぐ雪衣を見た。


「九鬼さん、調子悪い?」


 さっきの体育の授業でミスを連発した雪衣を、美咲も見ていただろう。バスケットボールを額にぶつける雪衣なんて、クラスどころか学校でも誰にもさらしたことのなかった醜態だ。

 雪衣はそっと額をさする。”花宿り”になって傷の治りが早くなったからか、もう痛みもない。


「平気」

「そ、そうだよね。九鬼さんが風邪だなんて、それこそ鬼の霍乱だよね」


 美咲は冗談半分の口調で言って、


「それに、この時期はみんな気が抜けてるみたいだし」

「期末も終わったしね」

「九鬼さん、期末も点数よかったよね。目標は達成したの?」


 雪衣は当然のようにうなずく。”楽苑”で時間を潰してはいても、『毎日一時間ごとの予習と復習』『試験の成績は十位以内』というノルマはきちんと果たしている。空風台高校で成績上位を保てる実力があれば、首都圏の名門大学にだって合格できる目がある。

 はあ、と美咲は長嘆息した。雪衣は他人の成績を逐一調べたりしないが、たぶん美咲の名前は成績上位者名簿には載っていなかった。


「九鬼さんは、やっぱ国立とか行くの?」

「どこでもいいけど。名前のあるとこの方が、多少は就職しやすいだろうから」

「そっか」とまたため息をつく美咲。彼女の目標は県内の私立大学だと聞いたことがある。両親がそこの助教と元助手なのだそうだ。コネで入れるというのではなく、単に、成績や通学しやすさを勘案してそれが最善という結論だったらしい。


「私も、どこか遠くの大学行ってみたいな……」


 消え入るような語尾には、憧れの感情だけがあった。美咲にとってそういう言葉は、たぶん現実とは遊離した空想の領域なのだろう。できること、確かなことしか喋りたくない雪衣とはかけ離れた、言葉の使い方だった。


「出来るんじゃない? 今からでも。まだ一年生なんだから」

「うん……」


 美咲はぼんやりとうなずきながら、ロッカーの上の窓から海のほうを見はるかす。空風台の校舎からだと、枯れ果てた古い釘浜の市街地の向こうに広がる海が、廃墟みたいなビル街の隙間にわずかにのぞける。群青色の海面は、上等なラピスラズリの顔料を塗り込めたようにきらめいている。透明でくっきりした冬空の青との境目に、白い波がざわざわと立つ。


 美咲は頑張れないだろうと思う。彼女の静かな挙措、さりげない品の良さ、どこをとっても善良で育ちのいいのが知れるが、それゆえか野心には欠けている。遠くの宝物にあこがれても、手に取るために冒険しようとは思わないというような、控えめなところがあった。

 だから雪衣は、美咲をそれ以上せかすようなことは言わないことに決めた。「人を追いつめない」という自分の中のルールが、雪衣をそうさせた。


 ちらり、と美咲がこちらに目を向ける。何か言ってほしそうな、けれど、期待と違う言葉でかんたんに傷ついてしまいそうな、繊細な瞳。

 雪衣が何か、別の話題を提供しようとしたとき、ざわ、と、ふいに、廊下の向こうでどよめきが聞こえた。雪衣が口を閉じて振り返ると、隣の教室の前で一人の生徒が水飲み鶏のように頭を上下させて「すみません、すみません」と謝罪を繰り返している。


「気にしないで。私が不注意だったから……もしもし」


 相手はそう言って手を振り、スマートフォンでどこかと会話を続けている。背は低いのに、彼女のたたずまいを見逃すものはなく、誰もが彼女に道を譲る。


 手島智愛だった。彼女は言葉を止めないまま、雪衣を一瞥して、かすかに首をかしげる。雪衣は素知らぬ顔で目をそらし、教室へと向かう。

 ”楽苑”以外の場所では、ふたりは赤の他人だ。『楽苑の人間関係をよそに持ち込まない』そういうことにしていた。ソフィアのほうはたまに、その則を破りたそうな素振りを見せていたが、雪衣はいつもそれを無視している。


「九鬼さん、やっぱり手嶋さんと何かあるの?」


 後ろからついてきた美咲が、興味津々という様子で訊ねてくる。雪衣はわずかなたじろぎも見せないよう、強いて落ち着いた顔で、


「ううん。何も」

「……そう……」


 美咲は、意外にあっさりとうなずいて、足を止めた。ふと、後ろ髪を引かれたようなそぶりで、彼女は廊下の方を振り返っていた。

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