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消えた従兄3

 不知火と宇喜田が出て行ってから二時間ほどが経過し、時刻は夕方四時を回った。

 想いもよらぬ大掃除をする羽目になった千景は、使った雑巾を二重にしたビニール袋に包んでゴミ箱に捨てたあと、狭い浴室の小さな浴槽に湯を張り、ハスの香りのするハーブ束を入れて薬湯を作った。ハーブ束は、ガネーシャの像と一緒に土産にもらったものだった。

 こういう香りを、なんと表現するのか。

 的確な言葉の代わりに千景の脳裏に浮かんだのは、祖母の通夜の席で足のしびれに耐えかねて泣き出した思い出だった。

 あれ以来、幸運にも身内の不幸は起きていない……お従兄さんは失踪したのであって、死んでしまったわけではないのだ。彼の行き先はわからないが、異世界に飛ばされたなどということもない。

 結局、思考の末路には不愉快な二人組が待ち受けていた。

 千景は枯れ木の様な探偵と、柳のような助手の姿を追い出すかのように頭を二 度、三度と横に振り、脱衣所へ急いだ。

 指先を浸けて温度を確かめる。熱すぎず、ぬるくもない。黄色い洗面器で汲んだ湯を足先、肩の順にかけていく。そのまま浴槽のへりをまたいで、一気に湯船に身を沈めた。大学の友人たちは大型の銭湯によく行くのだが、千景は彼女らの誘いにのったことはなかった。見られて恥ずかしいような体型ではないし、温泉自体が嫌いなわけでもない。入浴は副交感神経を刺激し、大変なリラックス効果をもたらしてくれる。そうした時間に、他人と交流するのはいささか億劫だと思っていた。身体を洗う前にザブンと入れるのも、自宅で入浴するメリットの一つだった。

 今にして思えばうさん臭さしか感じさせない男だった。

 乳白色の湯に(オトガイ)まで浸かり、結局探偵のことを考えながら、千景は右手を上げた。


「『質問は一つだ』とか言っちゃってさあ。こんなんで格好つけたつもり……あれ?」


 不知火の真似をして薬指を立てようとして、千景は奇妙なことに気が付いた。

 拳を軽く握った状態から――すなわち薬指以外の指を曲げた状態では、薬指をピンと立てることができなかった。どうやっても、薬指と小指がその動きに引きずられてしまう。


「ますます気持ち悪い……なんなの」


 探偵のおかしな動きのせいで、千景はますます不愉快な気持ちになった。

 千景は思い切り息を吸い込み、鼻まで湯に沈めてブクブクと泡を作る。子供じみた行為だが、不思議と目の前で弾けては消えていく泡を見ている間は無心でいられた。

 のぼせる前に湯船を出た。

 けして嫌いな臭いではないが、お気に入りのボディーソープの香りのほうが自分には合っている気がした。

 不知火の言うことは信じないが、冷静に考えてみれば人を連れ去る神さまと一緒にもらったハーブなんて、気味が悪い。


「何っ!?」


 千景がシャワーのコックを捻り、独特の香りを流そうとした瞬間、湯船が大きく泡立った。







「行くぞ」


 日が落ち始めた学生街は、楽しげに話ながら歩く女学生や、割のいいアルバイト先を目指して自転車を漕ぐ男子学生、下宿民に供する夕食のために買いこんできた食材を抱えた中年女性、引っ越しだろうか、リヤカー一杯の荷物を引いて歩く若者――などの喧騒で溢れていた。

 鈴森千景のアパートも、そんな学生街の一角にある。五階の彼女の部屋からは駅前から細長く伸びる商店街のアーケードが見下ろせる。

 商店街は買い物客が多く行き交い、少しずつ酔客も混じり始めていた。

老若男女が様々に入り乱れる人込みの中で、ぽっかりと空いている場所があった。一人の男が、ある一点を凝視したまま佇んでいるのだ。どう見ても人の流れを妨害しているのだが、その張本人を咎めるような視線や舌打ち以外、通行人が彼に不満を表する手段はないようだった。

 伸び放題の黒髪は油でベタついていて、フケが絡まったそれは乾物屋のワカメを彷彿させる。

 長身だが病的なほどに痩せていて、撫で肩からずり落ちそうな背広の裾や袖は皺だらけであり、一目できちんと採寸してつくったものではないとわかる。シャツのボタンは三つ開いており、そこから見え隠れする皮膚は青白く、日焼け防止のためにペンキを塗られたまま立ち枯れたミカンの木のようだった。

 一言で言えば、不知火の立ち姿は不気味だった。

 それ故に、通行人も構おうとせず、結果的に不知火は張り込みに集中することができた。


「センセ。ネギま、食べます?」


 不気味な人影に、華やかな格好をした人物が近づいて行った。

 健康的な艶を持った髪、長い睫毛は今さっき美容院を出てきたばかりのように整えられている。それは不知火と同じ黒なのだが、絵筆を持って描写させれば、百人が百人とも異なる絵具を使用すると思われた。


「そこの焼鳥屋の大将ったら、あの“鳥千”で修業したことがあるんですって」


 ほらほら、と言いながら取り出したのは、竹串に大振りの鶏もも肉と長ネギが交互に挿して焼いたものだった。甘辛いタレでしっかりとコーティングされ、程よく焦げた醤油と砂糖の香りで、食欲を刺激されない帝国民などいないはずだった。


「いらん」

「あら」


 花が咲いたような笑顔から一転、頬を膨らませた宇喜田は、彼を知らない人物が見れば妙齢の女に見えたことだろう。


「ったく。かわいくねえ御仁だよ」


 ただし、大口を開けて一気に半分ほどの鶏肉とネギを頬張り、豪快に咀嚼する姿を目にするまでは、の話だった。

 宇喜田は長い串を加えたまま裏地に花柄をあしらった白いジャケットをはだけ、ミカン箱の上に胡坐をかくようにして座り込んだ。


「それで、どうなの?」


 宇喜田は包に手を突っ込み、二本目の焼き鳥を掴みながら問いかけた。


「なにかの儀式が始まっているようだ」


 不知火は宇喜田の方を見ようともせず、答えた。声に緊張が含まれているのを感じ、宇喜田は口中の肉を急いで流し込むと、缶入りの緑茶のプルトップを引いた。


「儀式なんて……千景さんにはなんの力もないって」

「力はなくとも、知識はあるのかもしれん。あの部屋でガネーシュの力が高まっているのは事実だ」


 千景の部屋の窓を凝視したままの不知火が、宇喜田の方に手を伸ばした。それに缶を握らせてやりながら、宇喜田が立ち上がった。

 頭一つ以上背が高い不知火が、怪訝そうにそれを見下ろす。


「なにをしている」

「わかっているのよ? ほら、せーんせ!」

「…………」

 

 宇喜田は左手に焼き鳥の包みを持ち替え、右手の指に残ったタレをひと舐めすると、不知火の左腕に右腕を絡ませた。


「離れろ。そういう趣味はない」

「あら、私だってそういうんじゃないわ」


 異質な二人はそのまま歩いていく。遠目に視れば、じゃれ合っているカップルにでも見えたかもしれない。




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