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『華燭』

玉蔓からみて満つる月の秘事【1000文字】

作者: 本宮愁

 俺には名も知らぬ姉がいたらしい。名も顔も知らぬ姉が、名も知らぬ姉に変わったのは、姉の顔から生気というものが失せ、もの言わぬ骸と成り果ててからのことだった。とはいえ姉の顔は、人と呼べるかも定かでないほど醜く膨れあがった有様であったから、やはり俺は姉の名も顔も知らぬ。


 夜半、水路に人が落ちたらしい。引き揚げられたのは、いやに着飾った女のみであったそうだ。事故か、自殺か、心中か――下世話な憶測は、ついに答えの出ぬまま闇に失せた。


 水揚げされた衣から、女の勤め先が知れたらしい。一夜、女を買ったきり、消息の途絶えた客があったそうだが、訪れるときもまた唐突であったことから、誰の気にも留まらなんだ。


 客は、浮世離れした美男であったらしい。幾らか名の知れた作家であったそうだが、その作風のあまりに高尚であるがゆえに、やんごとなき身分の奥方に囲われ情夫となったのだという。


 ――すべては伝聞に過ぎず、俺には関係のない話だとばかり思っていた。


 訳もなく通いつめた水路に、あるとき若い娘が立っていた。白い振袖姿の娘が見つめる水面に、満ちた月が浮いていた。風の無い夜だというのに、水月には幾つもの波紋が広がり、娘を誘っているかのようだった。


 滲みひとつない月白の振袖は、死に装束のようにも白無垢のようにも映り、娘が死人か生霊かも判らなかった。幽かに覗けた項の白さ、一筋垂れた後れ毛の色香、兎角、その立ち姿といったら、凡そこの世の者とは思えぬほど清らに美しかった。


 娘は、簪を引き抜き、結い髪をはらりと解くと、俺を振り向いて何事か告げた。見慣れぬ瞳は、かの情夫を囲った家の娘であることを容易に連想させたが、俗民に過ぎぬ俺には関わりのないことであった。


 神楽鈴のごとき声音に欲を唆られた俺は、いまに月へ帰ってしまいそうな娘を捕まえようとした。しかし娘は薄く笑むなり、俺の邪心を簪で刺し払って、水路へ落ちた。艶やかな深緑の髪を蔓のように絡ませながら、水月の中心へと沈んでいった。


 刹那、俺や姉には決して届かぬ水の底で、白き娘を娶るであろう月の男に、俺は猛烈な嫉妬を抱いた。骸に根ざさんとする花はあまりに美しい。水底の花を求むれば、俺もまた沈むより他なかろう――されど、名も顔も知らぬ姉の醜く浮き上がる様が目に浮かんでは、足が竦んだ。


 いっそ泡沫の夢と忘れたくとも、この手の内には、椿を模した白甲簪による刺し跡が、いつまでも遺っているのである。

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