流れるままに!0
例えば自分が、何の変哲もない地方の高校に通う一生徒だったとして。
夏のある日、学校の敷地内を流れる細い小川の傍に、ひっくり返ってバタバタする亀を見つけた場合、咄嗟に考えることは何だろうか。
少なくとも彼女――黒瀬鈴の場合、恐らくその川に住み着いている、赤ん坊の頭部ほどもあるその亀を見て脳裏に浮かんだものは、決して浦島太郎物語や、ましてや「ホッホッホッそれはまさしくワシのお遣い亀」なんぞと言いながら登場する神々しい白髭のご老人なんかではなく、単純に「見つけたのが死んだ後でなくて良かった」という心からの安堵であった。
それとて、別に慈愛だの動物愛護だのが理由ではない。単に腐った亀の死体など見たくはないからという、至極現実的な思考からである。
まさか宙返りに失敗したわけでもあるまいに、亀がひとりでにひっくり返るとは考えにくい。
大方たちの悪い生徒の誰かが悪戯半分に亀で遊んだ後放置したのだろうが、生憎この道の先にある裏門をしばしば使用する(だってすぐ傍にバス停があるのだ)立場である鈴が、ある日突然通り道で亀の腐乱死体など見つけたならば、どう考えてもトラウマものだろう。
あまつさえ、うっかり仏心など出して生存確認でもしようものなら、その日一日は授業に集中できないほどのショッキング映像を目に焼き付ける羽目になるに違いない。
同胞がすまないねともがく亀に申し訳なく思う傍ら、そんなことを考えるくらいには、鈴は己の身が可愛い人間だった。
何はともあれ。
運良く未だ元気そうな亀を見つけた鈴は、「まだ生きてることを分かりやすく主張してくれてありがとう」などと話しかけつつ、彼女が近付くや否やヒュッと手足を引っ込めた亀を正常な姿勢に直してやって。
ついでに暑さで弱っているかも知れないからさっさと水中に放ってやろうと、小川の上へと身を屈めた。
「ほら、お行き、亀。もうヘンな奴に捕まるんじゃないよ」
一日一善なんて綺麗なものでもないが、これで一つの命が救われたと思えば、生臭くなった己の手も報われようというものである。
自分が水に触れたと知るやすぅいと泳ぎ出した亀にそう言ってやった後、鈴はやれやれと立ち上がろうとして――
ずるりと苔に足が滑り、右半身から川に突っ込んだ。
「げっ!?」
脛までしか深さのない川だから溺れることはないだろうが、石で頭を打ったら危ないなあ、とか、そんな思考が一瞬で脳裏を駆け巡り。
一拍後、彼女は盛大な水飛沫を上げて、小川の中へと突っ込んでいった。
※※※
次に感じたのは、控えめにそよぐ風と緑の匂いだった。
纏わり付くような熱気のない清かな空気に、鈴は無意識に眉を動かして、それから自分が両目を閉ざしていることに気付く。
――そう言えば、亀を助けた後、足を滑らせたんだった。
ぼんやりした意識が思考力を取り戻し始め、鈴は自分の状況を思い出した。
どうやら今の自分は、右半身を下にして地面に横たわっているらしい。
服が濡れているにも拘わらず水に浸かっている感触がしないことに違和感を覚えたが、それよりも頭部や体に打撲の痛みを感じないことに安堵を覚えた。
(……学校の中にこんな匂いのする所、あったっけ?)
鈴の通う高校は、敷地内に小川があったり隣に小山があったりと自然が多い。
それでもやはり大きな道路だの車だのが日々視界を横切っている以上、これほどに澄んだ自然の匂いに満ちた場所には覚えがなくて。
もしや誰かが川から助け上げてくれたのだろうかと考えつつ、鈴はゆっくりと目を開けて――
「!?」
間近に存在していた一対の瞳に、思い切り肩をびくつかせた。
「……っ!? ……っ!?」
「あ、起きた」
手と足で地面を掻いて、ザザザザザザッ、と反射的に後退る鈴を視線で追いかけ。
ことん、と無邪気に首を傾げ、独り言のように言葉を発したそれは、酷くのっぺりとした印象を受ける笑顔を浮かべた、細面の青年だった。
――ひやり、と。
目が合った瞬間覚えた寒気は、或いは文明に満ちた生活の中で削れに削れてきたはずの、野生の本能というものだったのかも知れない。
目を見開いて固まっている鈴に、青年はするりと内心の読めない眼差しを向けてくる。
ともすれば上がりそうになる息を必死で落ち着かせながら、鈴はどうにか目の前の青年の全体像を把握した。
顔立ちそのものは、これまで見たことがないほどに整っている。が、だからこそ感情を窺わせないその空気は無機質なプレッシャーとなって、相対する鈴の肩に異様な重みを圧し掛からせていた。
随分と日本人離れした容貌ではあるが、恐らくその年齢は十六歳の鈴よりも上だろう。
真っ直ぐな長い黒髪は橙色の髪紐で綺麗に括られ、光の加減で紫がかった艶を見せていて。
狐か蛇を想わせる切れ長の双眸が、興味深げに鈴を観察して瞬いていた。
ふら、と立ち上がった青年を、鈴はバクバク心臓を打ち鳴らしながら見つめ続けることしかできなかった。
「ねえ、お前、どうしてここにいるの? ここ、一部を除いて立ち入り禁止の禁域なんだけど」
茫然とへたり込んでいる鈴に、青年はゆっくりと歩み寄りながら問いかける。
鈴はぱちりと目を瞬いて、掠れた声で「禁域?」と鸚鵡返しに繰り返した。
「ここ、入っちゃいけない場所なんですか?」
「そう言ってるじゃない。見つかったら捕まるどころじゃ済まないよ。お前、何処から入ったの?」
「分、かりません。ええと、あたしは、川に落ちたはずなんですが」
「ここに川なんてないよ」
「……あの、すみません、あたし、とにかくすぐに出て行きます。あの、出口が何処かだけ教えて頂けませんか?」
「やめておきなよ。捕まるどころじゃ済まないって言っただろ?」
しょうがないなあ、と言いたげに。
軽く溜息をつきながら鈴の前にしゃがみ込んで、青年が彼女の顔を覗き込んできた。
パーソナルスペースの狭さを疑うほど接近されて、鈴の喉が、ひく、と鳴る。
至近距離で鈴と見つめ合っていた青年の唇が、やがて、きゅうう、と大きく歪んだ。
最初に見た時からずっと、プラスチックじみた作り物の表情しか浮かべていなかった彼が、初めて感情の色を相貌に浮かべた気がした。
「――あは。間抜けな顔」
ざっくりはっきり言い放たれ、プレッシャーすら思わず忘れて鈴の顔が引き攣りかける。ひくりと動いたその鼻を、伸びてきた青年の手が容赦なく摘まんだ。
「いだだだだだっ! 痛い痛いですお兄さん! ちょ、捻らないで真面目に痛い!」
「あははははは、変な顔!」
けらけらと笑いながら一頻り鈴の鼻を弄んで、青年はパッと指を離した。緩い弧を描いた双眸を更に細めて、彼は自身の唇に人差し指を当てながら鈴を見る。
「もしかして暗殺者か、とも思ったんだけど……でもお前、どうやらそんなこと出来そうにないね。痩せっぽちだし、貧弱だし、なんか藻みたいな臭いがするし、美人でもないし、アホそうだし」
「なんで初対面の人間にこんなボロクソ言われなきゃいけないんだ。心折れそう」
「まあ、お前が僕を殺そうとしたら――それはそれで、どうしてやろうか楽しみでもあるんだけど」
――にぃ~んまり、と。
獲物を見つけた化け狐のように吊り上がった口角に、鈴が覚えた感覚は何だったのか。
ぞぉっ、と再び背筋を震わせた鈴に、彼は再び手を伸ばしてきた。
ひくりと硬直する鈴の視界を、しかしその手はあっさり通り過ぎ、土で汚れた頬を撫でる。
「ねえ、お前、名前は?」
「……田中ヨネです」
「本当は?」
「黒瀬鈴です!」
ボソリと口にした祖母の名前をあっさり切り捨てられ、ギラッと光った眼光に怯んだ鈴が即答で返したその返事に、青年はにっこりと愉しげに笑った。
「うん、良い子良い子。それに、お前にぴったりの良い名前だね」
「そ、それはどうも」
「まるで僕に呼ばれるために名付けられたみたいだよ。ね、クロ」
「犬扱いか! しかも区切るとこ違う!」
「クロで良いよね?」
「勿論良いです!」
目が笑っていない笑顔でガシッと頭を鷲掴まれて、鈴は速攻で白旗を上げた。やばいこの人、絶対に逆らっちゃいけない人種だ……!
一瞬で腹を見せたチワワの如く服従の姿勢を取った鈴に、彼は再びにっこりと笑って立ち上がった。
その行動をぽかんと目で追う鈴に、彼は驚くほど優雅な仕草で片手を差し出してみせる。
「じゃあ、行こうか、クロ」
「は? え、何処に?」
人に見られてはいけなかったのではないか、と。
怪訝な顔をする鈴に、青年は「まずはここから出たいんだろ?」と笑った。
「だ、出して頂けるんですか?」
「勿論。ここにいても話が進まないしね。その後も、もしも行く当てがないなら、僕と一緒に来れば良い」
一体彼の中で何がどう完結したのか、青年は最早のっぺりした印象など欠片もない、美しい微笑で鈴を見下ろして。
そうして獲物を丸呑みした直後の蛇よりも満足そうに笑い、無邪気な声でこう言った。
「ペットはご主人様の傍に控えているものだろう?」
あ、こりゃイロイロ終わったな。