始りの夜
シンという音が降るような宵だった。
新年を明日に控え、母屋では家の者達も明日の儀式の準備に余念が無く、主役である少女も禊をする他は何と言ってすることが無いもので、自然足は儀式を行う舞殿に向かっていた。
玉砂利を音も立てず歩いて行くその姿は、瑞々しいセーラー服姿にはそぐわない程の厳しい武道家のそれで、凛とした眼差しは少女であるのに若武者の様にも見える。
セーラーの襟にかかる真っ直ぐな黒髪も、高く結い上げているポニーテイルだというのに髷に見えるほどだった。
男顔というのではない。寧ろ切れ長の目もすっと通った鼻もやや薄い唇も、美少年というより美少女なのだ。
しかも10人に問うて10人が『美しい』と称賛するだろう美少女だ。
ただ、この年頃の少女たちの薄っぺらい華やかさと俗が無い美しさと呼べばいいのか。些か古風な美を持っていた。
少女が舞殿に辿り着く。
外出していたのかその肩には肩掛けの鞄が有り、その手には長い物を包んだ包みを持っている。
舞殿の階に対面し、美しい礼を取ると徐に靴と靴下を脱ぎ始める。
きちりと揃えた靴に靴下を入れ、鞄から出したウエットタオルで足を拭くと、包みだけを手に舞殿に上がる。
本殿へつながる回廊の手前に建つ舞殿に壁は無い。鎧戸どころか格子戸も無く、ただ屋根と柱のみの吹きさらしになっている。
美しく拭き清められ姿を映すほどに磨かれた床板は張り付くかと思われる程に冷えているが、少女は頓着しない。
一歩また一歩舞殿の中央に歩み寄って行く。
少女が本殿に向かい包みを高く上げ伏し奉る。
口中で一言二言呟くと、右足を前に出す動作で包みを取り去り、返す身でその中身を構えた。
一振りの刀。少女の手には抜身の真っ直ぐな刀身を持つ刀が握られていた。
すっと正眼の構えに持つと、やはり鞘は無かったのか包みだけを床に落し息を整える。
「ひのふのよ、ひのふのよ」
呟きながら爪先だけを上げ踵を滑らせる足捌きで右へ左へと移動してゆく。
片刃の刀は美しい波紋を浮かべ少ない光源の中で妖しいまでにその輝きを見せる。
少女が振り撓め再び振り下ろす度に燐光に似た残像を残した。
「願い願い奉る。ひのふのよ、ひのふのよ」
鍛錬し身に付けた『型』をなぞる少女は彼岸に意識を持っていかれ、心ここに在らずだ。
だから、少女を襲う存在に気付くことが遅れた。
聖域である奥まった本殿まで辿り着いたそれには名前があった。
玉砂利を無残にも踏み荒らし、茫洋とした表情で一人の少女が歩いている。
少女の名前は工藤奈々。舞殿で一心不乱に舞う少女のクラスメイトだ。
その姿は愛らしく、特に男性受けの良い容姿をしていた。
ふわふわとした性格に相応しい容姿と人を逸らさない言動で、16歳になるこの年齢まで自分の叶わない事は無く、仕草ひとつで係わる人間を性別問わず翻弄してきた。
彼女の来し方が急激に変化したのは新しい転入先である高校で、自分の魅力が通用しない異常事態に彼女はだんだんと自我を狂わしてしまうことになった。
自分の周りに常にいた人々がいない。
誰も自分を見ない。
私のいた場所にいる人間がいる。
私から全てを奪う人間が居る。
元々持っているモノを一部取られるだけで全てを奪われたと思う人間がいる。
それが彼女だった。
彼女が転入した高校は『天羽一族』が経営する一族の為の私立高校だ。
地元では有名だがその実態を知らない者の方が多い学校で、少数精鋭・眉目秀麗な生徒が多いことでも名を知られていた。
本来ならば『他所者』である彼女の転入は有り得なかった。
しかし自分に異常とも思える自信を持つ彼女は諦めなかった。ありとあらゆる伝手を使い目的を果たしたのだ。
その異常事態に学校側は息を潜め異分子である彼女を迎え入れた。
生徒たちも日頃から言い含められており、多少の動揺はあったが普段通りに学校生活を送っている。
転入生である少女は何の波風も起さず自然に迎え入れられ、一生徒として学校に組み入れられた。
彼女は『特別』では無かった。『特別』になれなかった。
おかしいと思ったのは3日も経った頃だろうか。
彼女を迎え入れ一通り転入生に群がり情報を聞き取った生徒たちは、すっと波が引くように彼女の周りから消えた。
彼女は有り得ないことに教室の備品の様にそこの存在するが注目はされないモノになっていた。
クラスの男子生徒たちが自分を囲み、華やかに過ごすはずだった日常はここには無かった。
机が近いからと昼休みに弁当を囲んでくれる女子生徒はいる。
それだって食事が済めば早々に席を立ち教室の一角へと去ってしまう。
教室の一角。そこにはクラスどころか他クラスからも人が集まり環を成している。
派手に騒ぐでもなく和やかに穏やかに、心から環の中心の人物に好意を抱いている生徒たち。
自分を独り置いて、幸せそうな顔の群れに囲まれている人物。本当はそこにいるは自分なのにと彼女が呟く。
そんな彼女を蔑むように見る生徒たちもいたが、それにも気付かず少女は食い入るようにその人を見ていた。
それが舞殿にいる少女だった。
彼女=工藤奈々が舞殿の階に辿り着いた瞬間、少女が漸く彼女の存在に気が付いた。
「え?く…どうさん?」
呆然と刀を持ったままの形で少女が立ち竦む。
有り得ない事態に思考が硬直したのだ。
普段からこの奥まった本殿に一族以外の人間は侵入できない。
況してや大祭の宵の夜だ。部外者は入るどころか入り口すら認識できない結界が張ってある筈なのだ。少女が戸惑うのも無理は無かった。
「天羽さん。ずるいよう。
私のモノぜ~んぶ盗っちゃて!酷いよう。
返して?ねえ、返してよ!」
靴のまま舞殿に上がり、傾ぐような足取りで近付いて来る。
人を呼ぶにも舌の根が乾き張り付いて声が出ない。目前の異常事態に、理解すら追いつかなかった。
工藤奈々がチキチキと音を立てカッターの刃を出したことに気がついた時には、翻った髪の先が切り落とされていた。
「工藤さん!危ない」
制止の声が必死で可笑しかったのかけらけら嗤う彼女に、少女は今更ながら手にした刀を重く感じていた。
儀式に使うというのにその刀は本身で刃を潰していないモノだ。
不規則な上に激昂して不意を突く動きをする相手に、怪我をさせないようにするのがやっとだった。
「返せ!返せ!」
狂ったように振り回されるカッターに、為す術も無く逃げ惑う。
儀式を浚い陣を張った聖域を穢されることは許されない、しかも何が起こるかわからないのだ。
愛らしかった顔を猿のように歯をむき出し迫る彼女に、初めて怖気が走る。
そんな少女の様子に気を良くしたのか、彼女がカッターを構えて突っ込んでくる。受け止めることもできず躱し損ねた手を薄い刃が過ぎった。
「ああっ」
絶望的な声がした。自分の声だとも気付かず少女の視線は滴り落ちた己の血を追った。
床板に薄っすらと張られていた陣の中央に滴が落ちる。瞬間後、黒い光が二人の少女を包んだ。光は少女たちの悲鳴すら呑込み床板に吸い込まれていった。
「流れた」
「皇子?どうされました?」
降るような満天の星の下、並び立った二人の青年の影が闇に滲んでいる。
一人が天を見上げ何かを呟き、もう一人は気忙しげに主らしい人物に尋ねる。
「吉兆ですか?」
時を読む主の『占』かと俄かに緊張する従者に、主である青年は頭を振る。
「確とは判らぬが、時が動く」
感情の抜けた応えに、従者は頭を垂れた。
「神は人に係わらぬ。人の事は人が裁くのだ」
主である青年が歩き始め従者はは従うが、今一目と夜天を見上げる。
主が言葉は絶対だ。神に願いはしても己の事は己で切り抜けなければならない。今この時の平穏が偽りであることは従者が一番知っていたのだから。