終わりの始まり
「あんたさ、ちょっと美人だからって調子に乗ってんじゃないの? 人の男に手ぇ出してんじゃねーよっ!」
ドンッ。
肩を突き飛ばされ、壁に背中が当たる。痛い。おまけに冷たい。2月になったばかりのこの時期、壁や床はある意味凶器になるほど冷え切っているというのに。
ちょっと来て、そう言って呼び止められた時に嫌な予感はしていた。というのも、こういうのは初めてじゃない。ただし、そのほとんどが身に覚えのない理由ばかりだった。
「男って、誰の事?」
私がそう言うと、相手は顔を真っ赤にして怒り狂った。
「とぼけてんじゃねーよ。里谷健司だよっ」
「里谷……ごめん、本当に誰だか分かんない」
クラスメイトにそんな名字の男子が居た気がしないでもないけれど、下の名までは全く記憶にない。それにもしその人だったとしても、手を出すほど話した事も無い。せいぜい挨拶程度だろう。
「ふざけんな!」
言葉と共に平手が飛んで来た。視界が勢い良く揺れて頬に痛みが走る。私はすかさず相手にビンタし返した。相手は呆然とした顔で頬を押さえている。まさか反撃されるとは思っていなかったんだろう。人に喧嘩を売る時は相手をよく見てからにしろと言いたい。私が黙ってやられているような女に見えるなら、男を追っかける前に眼科へ行きやがれ。
「これでおあいこだからね。言っとくけど、私は本当に里谷って男に手を出した覚えは無い。自分の男なら自分で捕まえときな。少なくともこんな所で私に言いがかりつけてる暇はあんたには無いはずだよ。本当に好きなら泣いてでもすがってでも引き止めればいいじゃん」
「あ、あんたに言われたくない!」
「そりゃそーだ」
私は肩を竦めると用は済んだとばかりに踵を返した。そして教室に向かおうとした。が、言い忘れていた事を思い出して、足を止めた。振り返るとまだ何かあるのかと相手が身構える。その頬が思いのほか赤くて、強く叩きすぎたかと少しだけ反省する。あくまでも、少しだけだ。
「一人で喧嘩しに来た事だけは褒めてあげる。それから一つ訂正させてもらうと、私は“ちょっと美人”じゃなくって“すごく美人”だから。次からは間違えないでよね」
「なっ……」
言葉を失った相手にゆったりと微笑みかけると私は今度こそその場を後にした。
「また女子同士でやりあったんだって?」
「……うるさいな」
公園のベンチに座り明るい声を上げて走り回る子供を眺めていると、蓮見華月がやって来た。テーブル付のこのベンチは子供の頃からお気に入りの場所だ。暑い季節も寒い季節もここに寄って時間を潰してから家に帰るのが日課となっている。華月はテーブルの上に鞄を置きながら隣に座った。
「真理ちゃんの言い方は少しキツく聞こえるんだよ。“~だわ”とか、“~なのよ”とか語尾に付けるとちょっとは優しく聞こえるんじゃないかな」
「何それ、オバサンくさいしダサい」
「ほら、また」
華月は呆れたように溜め息をついて見せた。本当は仲良くなりたいくせに、と小さく、だけど聞こえるように呟く。華月のこういう所が嫌いだ。私の全てを知った風な口をきく、こういう所が。
「女子ってこえーな。口のとこ、血が出てるじゃん。これでも貼っとけ」
テーブルに乱暴に鞄を投げ出しながら向かいの席に座り、絆創膏を差し出してきたのは葛城智治。華月と智治は私の幼なじみだ。家が近いので物心ついた頃からの腐れ縁である。
「用意いいじゃん」
「部活やってっと怪我だらけだからなー」
絆創膏を受け取るとそれには何とも可愛らしいキャラクターがプリントされ、ハートマークまで付いている。
「え、何これ。智治趣味変わったね。てか、キモい」
「キモい言うな、俺が選んだんじゃねーよ。マネージャーがくれたんだけど、俺はこーゆーの使えないからお前にやるよ」
「へーえ、マネージャーねぇ……」
十中八九、そのマネージャーは智治の事が好きなんだろう。ハートマークはささやかなアピールってわけだ。ついこの前まで鼻水垂らして走り回っていた気がするのに、やはり中2にもなると色恋沙汰の一つや二つ出てくるらしい。
「真理ちゃん、貼ってあげるよ」
鏡が無いので手間取っていたら見かねた華月が絆創膏を取り上げた。動かないで、と言いながら私の顔を覗き込む。白い陶器のような端正な顔立ちが近付いて来る。決して目立ちはしないが華月はその名の通り月みたいに美しい顔をしている。月下美人、と華月の事をそう評したのは誰だったっけ。
「あんま周りを刺激するなよ。それでなくてもお前は敵を作りやすいんだからさ」
「あー智治うるさい」
「真理ちゃんは勝気で目立つ美人だからね、誤解されやすいんだよ」
「おま、よくそんな事言えるなぁ……」
さらりと褒めた華月を、智治がぎょっとして目を見開く。確かに、智治では一生かかっても言えないセリフだ。華月と智治は性格が全く違うのにどうしてか仲がいい。違い過ぎるからこそお互い飽きないのかもしれない。喧嘩してもその数分後には笑ってたりするから、男という生き物がうらやましくなる時もある。女の世界なんて、面倒なことばかりだ。
「私が美人な事なんて今に始まった事じゃないでしょ」
「お前もよくそんな事言えるよな……」
こいつらやってらんねーぜ、と智治が天を仰ぐ。
幼い頃から可愛い、美人、綺麗とさんざん言われて来た私は最早それくらいの褒め言葉には動じない。言ってみれば挨拶みたいなものだ。
そして大抵の人は賞賛を与えた後で遠巻きに私を見て、決して近付こうとはしない。それはそうだろう、女なら私の隣に立てば劣等感を感じてしまうし、男なら傍に居るだけで緊張してしまうのだから。だから私には友達が居ない。……この二人以外は。美醜を判断出来る年齢になる前に知り合ったせいかもしれない。私の記憶のどこにでも彼ら二人の姿があった。
まあ、別に友達になりたいと思える子が居なかったからいいんだけどね。ただ、さっきみたいに他人の恋愛トラブルに巻き込まれるのだけはいただけない。男には俺にだけ挨拶してくれたからとか俺にだけ微笑んでくれたからとか身に全く覚えのない理由で連日告白され、女には男子の前だけ態度が変わるだの自分の彼氏に色目を使っただのこれまた身に全く覚えのない理由で誹られる。かと言って誤解されないように周囲から距離を置けばお高くとまってると言われ、どないせいっちゅうんじゃ、というのが正直な感想だ。
……人間関係は煩わしい事ばかりで疲れる。
公園を出て曲がり角で智治と別れると、華月と肩を並べて歩いた。
「真理ちゃん、ここ車通りが多いから内側歩きなよ」
「うん」
華奢で線が細い華月だったけれど、こうやって隣に立つといつの間にか背が私より高くなっている事に気付く。その差はこれからもっと大きくなる事だろう。智治はとっくの昔に追い越して行った。小学生の頃は私が三人の中で一番背が高かったのに、と何だか少し悔しくなる。急に背が伸びたり、こんな風に大人っぽい表情や仕草を見せたり、男の子は不思議な生き物だ。
「もうすぐバレンタインデーだね」
「ああ、もうそんな季節か。まあ私には関係ないけど」
「真理ちゃん僕にチョコくれないの?」
「知らないの、バレンタインの正体を」
「正体?」
「あれはね、チョコの代わりに、ホワイトデーにはその何倍もするお返しをもらいますからよろしくねっていう事なんだよ。つまりある種の脅迫で、先行投資って事」
「ひねくれてるなぁ」
「うるさいな」
そんな事は言われなくても十分すぎるほど知ってる。わざと不機嫌な声を出すと、何故か華月は微笑んだ。人が怒っているのに笑うとは何事だ。
「いいよ。何倍もするお返しをしてでも、チョコが欲しいから」
「……華月、そんなにチョコ好きだったっけ?」
「真理ちゃんのチョコ、だからね」
華月は真理ちゃんの、という部分を強調した。さては毎年お母さんからのチョコしか渡してないのを恨んでいるのか? チョコなんて誰からもらっても同じだろうに。チョコはチョコだ、それ以上でも以下でもない。
「……どうせたくさんチョコ貰うんでしょ」
「今年は本命からしか受け取らないって決めてるんだ」
「……」
「意味、分かるよね?」
「…………う、ん」
長い沈黙の後で、小さく頷いた。身体中の血が逆流したみたいに心臓がどくどく鳴って頬が熱くなる。
華月が私を? 全然気付かなかった。華月は私だけじゃなく皆に優しいから。
どうしよう。何だか私……嬉しい、かもしれない。
でも、幼なじみ同士でくっつくのって、何かカッコ悪くない? 他に相手居ないから手近な所で済ませたみたいじゃん。それに、華月と今さらイチャイチャなんて出来ない。
「返事、くれないの?」
「……」
なのに気づいたら私は小さく頷いてしまっていた。俯いたまま華月の顔を見上げる事が出来ない。華月が私の名前を呼んでぎゅっと抱きついて来て、恥ずかしさのあまり、「暑苦しい!」と叫んでその手を振りほどいた。我ながら可愛くないと思う。だけどこっそりと様子を窺うと華月は嬉しそうににこにこしていた。こんな女がいいなんて、華月も趣味が悪い。
「真理ちゃん」
「……何?」
「呼んだだけ」
「……あっそ。……華月」
「何、真理ちゃん?」
「……呼んだだけ」
私達の手と影が自然と繋がる。いつもと同じ帰り道が違って見える。
―――そしてその日、華月が私の“彼氏”になった。