神は微笑まない。笑うのは悪魔だ。
もしもの話ですが、あなたの目の前に一つのボタンがあるとします。そのボタンは、特別な存在からの貴重な贈り物です。
あなただけに押す権利があり、ボタンを押すたびに「他の誰かの願い事があなたに対して叶う代物」である、と効果もわかっています。
例えば、誰かが『億万長者になりたい』と願えば、あなたは億万長者になるでしょう。
さぁ、あなただったらば、そのボタンをどうしますか?
さて、これから述べる物語は偶然にも、そんなボタンを押す権利を得た男の物語です。
男がどうなったかを一緒にみてみましょう。
ある国の人通りもないような、寂れた裏道に一人の男がいた。
その男の状況を述べると、持ち物は現在身につけている薄汚れた服が一着だけ、当然貨幣や財産なんてものもなく、今日を生き抜くのもやっとという有り様である。
そんな状況だから、男が世界に絶望しているのも当然。明るい未来を考えられないのも当然。
暗い考えに頭の中を占領された男が休息をとるために、この人が寄り付かない道へとやってくるのもまた当然の行動といえる。
男は身近な壁に寄りかかって座ると、そのまま眠りについた――。
――数時間後に男が目を覚ますと、目の前に一つのボタンが置かれていた。
灰色の四角い台座の上に、赤い色の押す部分が乗った小さなボタンだ。
見たところコードの類いは付いていない。
手にとって地面についていた裏面をみても、電池を入れる箇所や切れ目などは見当たらない。
材質はプラスチックのようであり、固くて軽い。
理解不能であり、興味を失いかけたときに、唐突に先ほどの夢の内容が思い起こされた。
(神か悪魔のような存在が自分に何かの権利をくれたような……。そうだ、ボタンを押すと願いが叶う権利だ! しかし、その願いは自身のではなく赤の他人のものが叶うとか、願い事の内容や人の選別はランダムだとも言っていたな)
確かそうだった、と男が心の中で再度確認すると、持っていた右手からボタンを左手の手のひらの上に乗せてみる。
さっきは理解不能なゴミだと思ったが、今では「夢のようなアイテム」へと認識を改めていた。
男はさっそく、いい願い事でありますように、と考えながらボタンを一度押す。
何も起きない。
もう一度押す。
何も起きない。
何度も何度も何度も押す。
しかし、何も起きない。
ただのガラクタだったか、と落胆しつつも、捨てる前にもう一度だけ押す。
――その願い、叶えてしんぜよう。
頭の中に不思議な声が響く。
これは成功したのだろう。
――ただし、叶うのは一三七三万六六六年後であるのに留意せよ。
どうやら何かが叶うようだが、時間がおかしい。生きていられるはずがない。
諦めきれない男は続けて押す。
――ただし、五六億七千万年……。
押す。
――ただし、六一〇年……。
押す。
――ただし、三〇年……。
まだ、押す。
――その願いは五分二〇秒後に叶うであろう。
「やったぞ!」
誰もいない場所に男の声だけが響く。
やっと、すぐに叶う願い事を引き当てたのだから喜ぶのも無理はない。
だけども、喜んだすぐあと、男は重大なことに気付いた。肝心の内容や場所を声の主は言っていない。
しかし、焦ることもなかった。五分待てば、おのずと分かるのだから。
近くに時計がないので、男には確かな時刻を知ることができない。
ボタンを地面に置き、自分は壁へと寄りかかって待つ。
待ち始めてちょっとたつと、表通りの方向から一人の男が歩いてきた。
願い事に関連するのは間違いないはず、と動向にじっくり注目する。
ある程度まで近付いてきたとき、男は立ち止まった。
そして、腰の後ろに手を動かすと何かを取り出した。
続けざまに、取り出した何かの先端を壁に寄りかかっていた男へと向ける。
ようやく取り出したものの正体が分かったが、もう手遅れだ。
願いが叶う時刻きっかり、発砲音が七、八度、裏通りへと響いた――。
以上が権利を得た男の顛末です。
ピアスを通すときの『体に穴をふやしたい』という願いを歪曲してとらえたのでしょうかね。
この人は惜しくも、億万長者にはなれなかったようです。残念ですね。
おや、赤い色のボタンがあなたの足下にありますよ。
あなたの側にあったのならば、そのボタンはあなたのものでしょう。
どうですか? 押してみませんか?
えっ? 遠慮しておくって? もったいない、不老不死や億万長者になる千載一遇のチャンスかもしれませんのに……。
まぁ、いいでしょう。触らぬ神に祟りなし、君子は危うきに近寄らず、ってね。
ボタンを押さない。それも素晴らしい人生を送る、選択のうちの一つなのですから――。
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