8
どんなに思い悩んでも、朝はやって来る。
「はあ……」
重い溜め息を吐いて、ルビーはベッドから起き上がった。昨夜、グレイに教えてもらったことを回想しながらのろのろと着替え始める。
グレイが語ったことを自分の身に起きていることに当てはめてみると、非常にしっくり来る。空腹の原因、鏡がない理由など、全て解明出来る。
(大丈夫よ。裏切りなんてよくある話)
ルビーはそう思い、ぐっと拳を握った。
皮肉にも、幼い時のひもじさが今になって役立っている。食事が幻想だとしても大丈夫だ。
胸はズキズキと痛んだけれど。
ルビーは何もなかった顔を取り繕って居間へ入った。そこには、もう既にブルーローズとグレイの姿があった。
ブルーローズはいつもと変わらない笑顔でルビーに朝の挨拶をしてくれる。対してグレイもいつもと変わらず無言だ。
朝食の席について、今日の予定などをブルーローズに話す。いつもどおりの三人。だが、少しだけ違う。ルビーはパンを頬張りつつ、こっそりブルーローズの横顔を窺った。初めて出会った時から、彼の印象は変わらない。柔らかで穏やか、そして純粋。
とてもじゃないが、裏で何かを画策出来るような少年には見えなかった。
「ルビー、どうしたの? 体調でも悪い?」
口先だけでなく、心から気遣ってくれているのが伝わってくる。
(……わからない)
剥き出しの悪意の方が、どんなにいいか。ダイレクトに悪意を示されれば、それなりに対抗も出来る。このように気遣われると、わからなくなる。もしかしたら、グレイが嘘を吐いているのではとも思えてきた。
ルビーは、心配そうに肩に触れようとしてくるブルーローズをやんわりと拒絶する。
彼はあからさまに落胆した表情をした。薔薇色の唇が微かに震えている。
ちくりと罪悪感が生まれた。
一緒に食事を摂っているというのに、グレイは一言も喋らないし、ブルーローズもルビーに拒否されたことで塞ぎ込んでいる。
ルビーは場の雰囲気が気まずくて居た堪れなくなり、早々に食事を終えると居間を出た。
◆
ちりん、と音がした。最近ではこの音がしたらグレイが傍にいるのだとわかるようになった。
グレイは、一階の廊下をモップがけしていたルビーに水と葡萄を差し出す。
「…………」
二人の目が交錯する。
グレイの瞳の奥に宿るものを見つけようと、じっと金の双眸を見つめてみたが、彼の目には何も浮かんでいない。殺意も好意も、嫌悪でさえ浮かんでいない。
グレイが何を考えているのかはわからないが、ルビーは水と葡萄を受け取った。葡萄を食べて水を含む。すぐに喉は潤った。ルビーは口端に零れた水を腕で乱暴に拭う。
「今日は、天気がいい」
ぽつりとグレイが口にした。ルビーはいきなり喋りかけられたことに面食らったが、頷く。
「ええ、そうね。洗濯日和だわ」
「少し寒いのが、難点だ」
「あら」
呆れてルビーはグレイを見る。彼の服装はおおよそ晩秋に相応しくない。着ている黒服は薄手だ。家の中だと言っても、廊下は冷える。
「寒いんなら、暖かい服を着なさいよ。風邪引いちゃうわ」
「……厚手の服は持ってない。けど、風邪は引かないから……いい」
ルビーは肩を竦め、羽織っていたコートをグレイにかけてやった。彼は目を丸くする。
「私はセーターを着ているから、それ貸してあげる。ここ、館内だし。あ、貸すって言っても、私もブルーに借りたんだけどね」
苦笑して言うと、グレイは少しだけ口許を緩めた。黒髪の間から覗く切れ長の金目が潤んだように見えた。
昨晩のことは二人の話題にのぼらず、他愛ない会話が続いた。
「そう言えば、グレイ。あんたが昨日言ってたとおり……どの部屋にも鏡、なかったわ」
「……そうか」
ルビーは館内の掃除をすると同時に、鏡があるかのチェックもした。すると、どの部屋にも鏡がない事実を改めて突きつけられた。内心ひどくショックだったが、仕方ないと割り切ることにした。
「でも……まだ信じられない」
ルビーは呟いた。
グレイはふいと顔を逸らして眩しげに窓の外に広がる青薔薇の花園を見る。そこにはブルーローズがいた。
ブルーローズは優しい眼差しで、薔薇に水をやっている。慈しみの表情には嘘偽りなど微塵もなく。
「ブルーは日中、ほぼあの花園にいる」
ヒントのように彼は告げた。昨晩のことが信じられないならば、自分の目で確認しろとでも言いたげだ。
ルビーはグレイを睨みつけて、バケツとモップを持ってガニ股でその場を後にする。廊下の角に来た時、そっとグレイの方を見やると、彼は何かを耐えるように俯いて右腕を左手で強く握っていた。
◆
グレイに言われたから来たのではない、と自分に言い聞かせながら、ルビーは周囲を気にしつつ館の入り口へ向かった。もし見つかった場合に言い訳が出来るよう、手には折れたモップ――わざわざ言い訳のためにルビーが折った――を持っている。
(たしか、この林檎の木の奥に…………は?)
ルビーの目が点になる。
綺麗さっぱり入り口は消えていた。最初からここには何もなかったと思えるくらい、跡形もない。ルビーの目の前には塀しかない。
パニックを起こしそうになりながら、ルビーはその辺りを右往左往する。行けども行けども、あるのは高い塀のみ。
ついにルビーは、塀のつっぱりに足をかけて登ろうとするが――木登りが得意だったため、いけると思った――、登っても登っても塀の果てがない。段々、指先が痛くなってくる。爪が剥がれてしまいそうだ。
指先の痛みが限界に達し、ルビーは墜落した。とっさに受け身の体勢を取る。伊達に木から何度も落ちていない。しかし、久しぶりだったのが祟ったか、したたか腰を打ってしまった。ルビーは涙目で腰をさする。
「……グレイが言ったことは、真実だったっていうの?」
一人ごちる。
ブルーローズがルビーをだまそうとしていたなんて信じたくなかった。
心のどこかで、昨晩グレイとともに行った湖の件は夢だと思っていたい気持ちがあった。
「ルビー?」
掠れた声が後ろからした。
ルビーは、ぎくりと体を強張らせる。
恐る恐る振り返ると、ブルーローズが林檎の木の下に立っていた。
つい先程まで薔薇園にいたからだろう。彼の髪に青い花弁がついている。
「花びらがついてるわよ」
そう言って払ってやると、ブルーローズの頬に薔薇色の赤みが差す。
「ありがとう」
照れ笑いするブルーローズに、ルビーは複雑な思いを抱いていた。彼はルビーを騙そうとしているのかもしれない人物であると同時に、ルビーのことをこの館に受け入れてくれた恩人でもあった。
わからない。
本当に、何が真実で何が嘘で、何が正しく何が間違っているのか……わからない。
「ところでルビーはこんなところで何を――?」
ブルーローズは頭を傾けた。核心をついてきたブルーローズに、ルビーの顔が若干引き攣る。
ルビーは申し訳なさそうに眉を八の字に下げて塀を登る時にそこらへんに放っていたモップを手にする。
「……ねえ、ブルー。館の入り口はどこだったかしら。私、モップの柄を折ってしまって慌ててしまったの。ちょっとお店にひとっ走り行って来ようと思ったのだけど」
我ながら、下手な言い訳だと思ったが、ブルーローズは信じたようだった。彼は笑顔で首肯した。
「ああ、そうだったんだ。館の入り口ならこっちだよ」
なんの躊躇いもなく、ブルーローズはルビーを入り口へと案内してくれる。
ルビーが当たりをつけていた場所の反対側に入り口はあった。林檎の木の近くだったと思っていたルビーは拍子抜けする。
「でも、たしかここに来た時は……あっちに門があったはず……」
「夜だったからね。方向感覚が少し狂ってしまったのかも」
ブルーローズの真摯な態度にルビーは息を吐く。
そうだったかもしれない。夜の闇は、様々なものを錯覚させる。正直、ルビーは林檎欲しさに館へ立ち入ったため、どこから入ったかよく覚えていなかった。きっと、林檎の木の傍に入り口があったというのは思い違いだったのだろう。
そして、ルビーは思い至る。
グレイの方がルビーを殺そうとしているのではないか、と。
彼が持ってくるものを食べているから体調がすぐれないのではないか、と。
ルビーにとってみたら、ブルーローズも十分怪しいが、グレイも怪しいことこの上ない。
「あ、ルビー。モップの柄なんだけど、予備が地下倉庫にあるはずだから、わざわざ買いに行かなくてもいいよ」
さらりとブルーローズは言った。
「え、そうなの?」
「うん。それで、その。ルビーにお願いがあるんだけど」
ブルーローズは遠慮がちに、上目遣いでルビーを見つめる。
「なに?」
鼓動が速まる。決して、美少年であるブルーローズに見つめられたからではない。何か裏があるのではなかろうかと思ったのだ。
ルビーは捻くれてるため、おいそれと状況全てを信じようとしない。
「ルビーはモップの柄の交換とか出来るんだろう? どうやるか教えてよ。前いた人は『そんなこと坊ちゃんがすることじゃないです』って言って教えてくれなかったんだけど。ボクもやってみたい」
純粋な目で見つめられて、ルビーは半歩後ずさる。
今のルビーにとって、ブルーローズは眩しすぎた。
邪気も影もない無垢な少年と、長時間一緒に過ごしたくない。自分の醜さが際立ってしまうとルビーは焦った。
「前の使用人が言ったことは正しいわ。ブルーはこの館の主人なんだから、そんなこと覚えなくていいの」
「ルビーなら教えてくれると思ったのに。ひどいなあ……」
ブルーローズは唇を尖らせていじける。
何とかその場を切り抜けたルビーは、ほっと胸を撫で下ろす。
「ところでルビー。仕事はひと段落してる?」
「ええ、まあ一応」
ルビーは真面目にも、館内の仕事を終わらせてからここに来ていた。
ブルーローズは精巧な造りをした顔をパッとほころばせる。薔薇と見まごう美しさにルビーは自らの顔を覆ってしまいたくなる。
ブルーローズはルビーの手を引っ張った。
「じゃあさ、一緒に薔薇園で遊ぼうよ」
「そんな……まだ洗濯が終わってないの……」
折角切り抜けたと思ったそばからこれだ。ルビーは頭痛がした。
「午後からすればいいよ。ルビーにもぜひ朝の陽に照らされた青薔薇の花園を見てもらいたいんだ」
控え目な態度から一変、かなり強引に手を引っ張られる。少々子供っぽいその行動に苦笑しつつも、ルビーは従うことにした。
◆
朝陽に照らされた花園。水を撒けば、キラキラと反射して小さな虹を作る。
ほんの些細なことでもルビーには驚きの連続だった。
ブルーローズは虫が苦手らしく、薔薇にたかってくる虫を嫌そうに払う。ルビーは平気なため、彼の代わりに葉にへばりついた虫を掴んでカゴへ入れた。カゴに入れた虫は、後で近くにある野生の草に放る。素手で虫を掴むルビーに、ブルーローズは仰天しながらも称賛してくれた。
彼一人だったら、虫取りの作業は一向に進まないらしい。
ルビーは虫取りを終えて、カゴに入った虫達を薔薇園の外に放つ。
そして、改めて薔薇園を眺めた。一面、青い薔薇だけが咲いている。太陽の下、そこだけが別世界だった。
「綺麗ね。青い薔薇は決してないって昔聞いたことがあったから、本当にびっくり」
青薔薇にそっと触れながらルビーが言うと、ブルーローズは曖昧に微笑んだ。
「そうかな」
予想外の否定の言葉。
ルビーは驚いてブルーローズを見る。彼は労りをこめて花を撫でる。
「この花園はボクの宝物。だけど、ここに咲いてるこの青薔薇達は皆、綺麗なんかじゃない」
寂しげにブルーローズは俯く。彼の青い目が翳った。
「青い絵の具で塗った偽物の薔薇じゃないのに、ボクにはどうしても綺麗に見えない」
ブルーローズは苦しそうな表情をしている。その表情はグレイが見せたものに似通っていた。
「いいえ、綺麗だわ」
ルビーは断言し、力強く笑んだ。
「今まで見たどんな花より、ここに咲く青薔薇は綺麗」
孤高の薔薇。
他の薔薇とは全く違う、孤独で気高い薔薇。
どうやってこの花をブルーローズが手に入れたかはわからないが、水の雫を弾く凛とした青薔薇は色を持ってルビーの目に映り込む。
ブルーローズは一瞬呆気に取られていたが、やがて嬉しそうに目じりを下げた。
ルビーは薔薇園の中に座り込んだ。ブルーローズもその横に座る。地べたに座るなんて、はしたないと思ったが、もう座ってしまったのだからしょうがない。
青薔薇の隙間から見上げる空は一種の芸術作品だ。絵画に描かれてもおかしくないだろう。
土の匂いがする。随分長い間、自然と触れ合うことなどしていなかった。
(昔はよく家族で森に出かけたりしてたなあ)
遠い日々が色彩鮮やかに蘇る。
郊外にある美しい森一帯を領地としている伯爵の許可をもらい、よくルビーは花畑の中で遊んでいた。伯爵の領地にふさわしく、そこには白薔薇の花園があった。
青薔薇園の中で転がるブルーローズに、棘が刺さるわよと警告しながら、ルビーは風に髪を遊ばせた。
ブルーローズがくれたマフィンを口にする。
マフィンは甘かった。とても偽物には思えない。
「小さい頃はよくこんな花園で遊んでいたわ」
ルビーの呟きに、ブルーローズは過剰に反応した。彼は仰向けにしていた上体を起こす。
「花園……? それはどこの?」
「どこだったかな。たしか、どこかの伯爵様の領内だったんだけど……あんまり覚えない」
うーんとルビーは唸る。何せ幼い頃の話だ。しかも楽しかった頃の記憶など、とうの昔に打ち捨てている。思い出そうにも、霞がかって、ぼんやりとしか思い出せない。
「そっか。ちぇっ、ボクの知ってる場所かと思ったのに」
ブルーローズは再び寝そべる。
「そんなムキにならなくてもいいじゃない」
「ルビーの小さい頃がどんな風だったか、気になったんだ。とても可愛らしかったろうね」
ルビーはチャコールグレイの瞳を細める。
この少年は知らないのだ、ルビーの過去を。
何となく、知ってほしいと思った。
「私のお父さんね、昔は領主だったの」
ぽろりと口にした。
ブルーローズの目が二三度瞬く。
「けど、信じていた商人の裏切りにあってしまって、財産も家もなくなっちゃったわ。今じゃ面影もないけど、私もそれまではブルーみたいに純粋無垢だった」
ブルーローズは盛大に顔をしかめた。
「今は違うと言うのかい?」
問いかけにルビーは頷く。
「きっと、王子さまが助けに来てくれるって思ってた。けど、そんな現実起こりっこないじゃない。白かった肌も、メイドに丁寧に梳いてもらっていた髪もボロボロになってしまった今の私を見たら、あの頃の私はきっと憐れむでしょうね。そして言うのよ。『私があなたを助けてあげるから希望を捨てないで。そうすれば、幸せな未来がやって来るはずよ』って。そんな言葉って、恵まれているからこそ言えるものなのよ。貧乏人には決して言えないの」
毛先まで丁寧に手入れされたプラチナブロンドの巻き毛をした少女が脳裏に浮かぶ。少女は猫を抱えてルビーに憐れみの目を向けた。
『元気を出して、ルビー。私には大切な友達がいるんだから』
過去の自分は今も語りかけてくる。それは今のルビーにとっては、虫唾が走る綺麗事ばかりで。
ルビーは荒んだ目を閉じて、表情を取り繕った。
「過去の話はおしまい。さあ、早く水やりを終えてしまいましょう。お腹減っちゃったわ」
ルビーは無理に元気を出す。そうしないと、くじけてしまいそうだった。過去を思い出したら、その分、現実を思い知る。みじめだった。
ブルーローズは立ち上がろうとするルビーの手を引く。彼は真剣な面持ちをしていた。
「誰も、幼いキミを助けてくれなかったの? 知り合いの、誰も」
ルビーは皮肉な笑みを洩らした。
「ええ、誰も。一人として私を助けてくれたりしなかったわ。でもいいの。それを怨んだことはあったけど、今は仕方なかったと割り切ってる」
ブルーローズは目を伏せた。長い睫毛が彼の瞳に憂いを浮かばせる。