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青薔薇の恋  作者: 藍村 泰
孤独の終
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 せせらぎの音がした。冷たい雫がルビーの頬を濡らす。すいと瞼を開けると、小さな光がいくつも空中に浮かんでいた。

 寝ぼけ眼だったルビーは、はっきりと目を覚まして跳ね起きた。同時に目が霞んだ。ルビーは何度か目を瞬かせる。

 クリアになった視界に映り込んできた光は、ぽっかりと寂しく浮かんでいる爪の形をした月を目指して上昇していく。

「すごい……」

 ブルーローズの館で働き出してから、館の持つ古臭さと幻想的な佇まいに少し慣れたつもりだったが、この光景はまた別格だった。

 この湖をどこかで見たような既視感がルビーを襲う。

 深緑色の木々に囲まれた静謐な湖畔には薄い靄がかかっている。そこには光達が飛び交っている。首を回してみる。ぐるりと見渡すと、遥か彼方に館の姿をとらえることが出来た。

「ここは、ブルーの勢力が弱い」

 ぼそりと地を這いずる声でグレイが言った。彼は湖の水を手で掬って飲んでいる。

 グレイは伸びやかに体を反らす。月光と淡い小さな光とに照らされた彼は、とても不安定なものに見えて。光が途絶えた瞬間、闇と同化してしまうような危うさを感じさせた。

「ブルーの、勢力……?」

 ルビーが尋ねると、グレイの顔に憐憫が過る。

 グレイはルビーの手を取り、立ち上がるのを助けてくれる。

「ありがと」

 感謝の言葉を口にするルビーにグレイは何も語らず、湖畔に咲くしろつめ草を摘んだ。

「ルビー、体の調子はどうだい?」

 ブルーローズに似た優しい口調で言うグレイに驚き、ルビーは目を見張った。グレイは無表情でしろつめ草を編んでいく。

「と、よくブルーに質問されなかったか」

「ええ、されたわ。それがどうかした?」

 グレイはしろつめ草から目を離さない。しだいにそれは輪の形になる。

「最近、本当に体の調子はどうだ」

 ルビーは答えられなかった。大丈夫、とブルーローズには答えていたものの、実のところは非常にだるく、起き上がるのも億劫に感じていたのだ。

 花冠を作ったグレイは、それをルビーの頭に乗せる。その動作はルビーの中の何かを揺さぶった。視界が微かに鳴動する。

「具合、悪かっただろ」

「…………どうしてわかるの」

 自慢じゃないが、ルビーは自分の気持ちを押し隠す術に長けていた。心配をかけないよう、絶対に疲れや具合の悪さを顔に出していない自信がある。

「誰だって気がつく」

 すっとグレイは湖を指差した。

「湖面に自分の姿を映してみるといい」

 命令されるのは嫌だと思わないでもなかったが、言われたとおりにルビーは湖面を覗き込んで見た。風を受けて漣立っている湖にルビーの顔が現れる。

 ぐっとルビーは生唾を呑んだ。

「これ、は…………」

 しろつめ草を乗せている痩せた少女の姿があると思っていたルビーの予想は打ち砕かれた。

 そこにあったのは、幸運全てを喪ったような生気のない澱んだ目をした、頬の削げた少女だった。ルビーは自らの頬に手を当てて短く悲鳴を上げる。湖の中の少女も同様の仕草をする。

 これ以上見ていられず、ルビーは湖面に手を入れて掻き回す。荒い波が立って、少女の姿は歪む。ルビーは背を丸めて膝小僧に顔を埋める。

 嘘だよ、と。冗談だよ、というグレイの言葉を待った。しかし、彼は一向に何も言ってこない。痺れを切らしてルビーは後ろに佇む彼を睨んだ。睨みながらも、どこか縋るような目線を送る。

「嘘だと言って」

「真実だ」

「この湖は、反対のものを映すんだと言って」

「この湖は、正のみを映す」

「ねえ、嘘でもいいから――……」

 言葉が続かなかった。動悸がする。心臓が不自然に脈打つ。グレイが乗せてくれた花冠が落ちた。花冠が湖に浮かんで漣を立てる。

 目の前に揺れる自分の髪が邪魔だと思った。目頭が酷く熱い。

 何となく、気がついていた。この館に来てから体の調子がおかしくなったことを。だが、それを認めるということは館を去ることを意味する。ブルーローズとグレイに不調を知られるのが怖かった。もしも、流行り病が発症したのだとしたら隔離されるだろうし、館の水が合わないのだとしたら解雇されると思った。

「私……私……この館にいたいの…………」

 涙を目の縁いっぱいに溜めて、ルビーはグレイの金色に光る双眸に訴えかける。彼はぎりっと歯軋りした。肩が微かに震えている。

「どうして……」

「え?」

「どうして、ここまでされて涙を流す! どうして、この館にいたいと望む!」

 傷付いた顔をしたグレイは叫んだ。ルビーは驚愕で泣くことを止めた。彼の怒りは収まらない。

「お前がこうなるまで黙っていた俺やブルーを何故、不審に思わない! 館に鏡が全くなかったのは何故だかわかるか? お前が自らの姿を見てショックに打ちひしがれ、この館から去ろうとすることを防ぐためだ。唯一客間にあったドレッサーの鏡は俺がブルーに頼まれて割った。」

「グレイ……」

「ブルーはお前を殺そうとしてる。食事は全て幻想だ。俺が渡していた食べ物や水だけが本物。あとは全て、偽物。だから、体調が優れない。ろくな栄養が摂れてないから」

「嘘……」

 力なくルビーは首を横に振った。信じられなかったし、信じたくなかった。第一、ブルーローズがルビーを殺そうとする理由が見当たらない。出会ったばかりの少女を、あの無垢な少年が殺そうとするだろうか。

 グレイは俯く。彼は肩で息を吐いた。

「――――嘘だと思うなら、館の入り口を探してみるといい。見つからない、絶対に。ブルーはお前を逃がす気はない」

 ざあっと風が吹いて、青薔薇の花園から芳しい香りを運んできた。麻薬のように脳内をとろけさせるその香りが二人を包む。

「……ブルーが毎晩持ってきてくれてる水は、何なの?」

「あれは、青薔薇の花弁から取れる汁を使った毒薬だ。あれを飲んでいると空腹や渇きを感じなくなる。少しずつ混入させて、まどろむような最期を迎えさせようとブルーは思ったんだろうな」

 グレイは答える。単刀直入な答えにルビーは戦慄した。

 グレイの告げたこと全てを信じる気は毛頭ないが、全て嘘だと切り捨てることは出来ない。ルビーは困っていた自分を助けてくれたブルーローズの笑顔を思い描き、睫毛を伏せる。

「じゃあ、なんであんたは最初それを教えようとしてくれなかったくせに、今になって教えてくれるの」

 黒い手袋がルビーの頬に触れた。目の前にグレイの顔があった。黒髪と金眼が踊る。

「わからない」

「何それ」

「ただ――」

 グレイは言葉を切り、目玉をくるりと動かす。彼は壊れ物を扱うように柔らかくルビーの頬を撫ぜる。

「ルビーから、くるくる変わる表情がなくなるさまは、見たくないと思ったから。少しでも長く生きてほしいと思ったから」


『ルビー、なんで――逃げた』


 そう言った時と同じように切なげな表情で、彼は言った。

 




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