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立派な暖炉がある広い客間のソファで、ルビーは居心地悪く身を縮めていた。夕食が出来たら呼ぶからと言い残してブルーローズは調理室へ消えて行った。
赤レンガで造られた暖炉の中で爆ぜる火がルビーの体を暖める。かじかんでいた指先に感覚が戻ってくる。
そう言えば、もう秋だったなと今更ながらに思い出す。ずっと働き詰めだったために季節の移ろいも何も感じる暇がなかったルビーは、思いのほか夜風に叩かれた自分の体が冷え切っていたことに気づいた。
閉め切っていたのだろう、ルビーがいる一階の客間は少しだけ埃っぽい。しかし、調度品やベッドなどは古びた様子もなく、壁にシミ一つない。さすがと言おうか、高級な素材で作られたものばかりが部屋にはあった。窓に掛けられた深紅のカーテンをとって見ても、絹で織られている。それと同じものをマドレアの付き添いで行ったどこかの貴族のパーティーで見たことがある。
ここにルビーを通してくれるなんて、ブルーローズもどうかしていると思う。もう少し、分相応の部屋を当てられなかったのか、それともこの館の客間はどれもこの部屋と同じ造りをしているのかはわからない。
ただ、あまりある厚意がルビーを委縮させる。
足をぶらつかせながら、ブルーローズが居間へやって来るのを待つ。グラン家ではいつも人が溢れ返っていたためか、ここまで人の匂いがしない部屋は落ち着かない。
ブルーローズは自分で料理を作っていると言っていた。使用人を雇っていないのだとも彼は付け加えた。
「……こんなだだっ広い家、一人で何もかもするにはたいへんだろうに」
ルビーは一人ごちた。
ブルーローズにも事情があるのだろうと察して深くは追求しなかったが、彼がもし一人でこの館に住んでいるのであれば、さみしかろうとも思う。
ガチャリとドアが開いた。ドアの隙間からブルーローズがひょっこりと顔を出す。
「お待たせ。夕食の準備が出来たから移動しようか」
通されたのは、客間より少しだけサイズが大きい暖炉がある居間だった。白い長テーブルには緑のクロスがかけられている。
ルビーの喉が鳴った。
テーブルの上にはローストチキンや香ばしく焼けたパン、冷製パンプキンスープなどが並んでいる。大皿に盛りつけられたサラダも瑞々しい。
「こんなに……」
「ルビーはボクの大切なお客様だからね。腕によりをかけて作った」
自信ありげにブルーローズは鼻をこする。その仕草さえ様になっている。
「ありがとう」
夕食はルビーとブルーローズの二人だけで摂った。
「他に人は住んでいないの?」
ルビーの問いかけに、ブルーローズはすぐに首を横に振った。
「もう一人いるよ。今日は先にご飯を食べたらしいから、ここには姿を見せてないけど。明日になったら紹介するね」
「ええ、この館から去る前に、あいさつしておきたいわ」
ルビーは話しながら、手早く料理を自分の手もとにある皿に取って食らいつく。マナーも何もあったものではなかったが、積年の習慣がすぐに抜けるわけがない。使用人達の食事は戦争だった。ボーっとしていたら食事はあっという間になくなってしまう。
あまり咀嚼せずに飲み込み、食べ物を平らげていくルビーを見て、ブルーローズは面白おかしそうに目をくるりとさせる。
「そんなに急いで食べなくても、誰もキミの分を盗ったりしないよ。ゆっくり食べていいからね」
「うん……ごめんなさい。いつものクセで」
もぐもぐと頬張っている食べ物を懸命に喉に流し込んで、ルビーは満ち足りた表情でデザートに手を付けた。ブルーローズに言われたとおり、今度はゆっくりと味わいながらタルトを舌に乗せる。甘味が口いっぱい広がり、思わず口許が緩む。それを見てブルーローズは嬉しそうに笑顔を見せた。
「そんなに幸せそうな顔をされたら、もっと作ってあげたくなっちゃうな」
「ブルーローズは本当に、料理が上手なのね。私がいた邸の料理長も腕が良いって評判だったけど、あなたには負けると思うわ」
「ははっ、ルビーはおだてるのが上手いね。照れるよ」
ブルーローズの頬にほんのり赤みが差す。
和やかだった。二人だけの食事なのに、ブルーローズはルビーをホッとさせる何かを持っている。
夕食後、再び最初に案内された客間に戻ったルビーは、バッグの中から肌着を取り出し、広げてみた。いつもなら、この白い飾りけのない肌着一枚で平たいベッドにもぐり込むのだが、今日は格段と冷える。かくなる上は、暖炉の前に毛布を持ってきてそこで就寝しようかしらとルビーは頭を悩ませた。
小さなノック音がした。
「は、はい。どうぞ」
慌てて肌着をバッグに押し込め、返事をする。部屋に入って来たのは、ブルーローズだった。彼はきちんと畳まれた衣服と水の入ったグラスを手にしている。
ブルーローズは天蓋付きベッドの脇に置かれた小さなローテーブルにグラスを置くと、ルビーに衣服を差し出した。
「寝着を探して来たんだ。今夜は少し冷えるし、良かったら使って」
「ブルー……」
細やかな気遣いを嬉しいと感じる。彼は信じるにたる人物だとルビーの中で意見が固まった。ブルーローズの瞳には澱んだところが見受けられない。しかも、ここまでルビーに心を砕いてくれている。
寝着を受け取り、清潔な石鹸の香りがするそれに顔を埋め、ルビーは少しだけ涙ぐんだ。こんなにも大切にされたことはずっと昔のことでしかなく、もう絶対にないと思っていた。ブルーローズの行動は、戸惑いとともに嬉しさを伴ってルビーの中にじわじわと広がる。
『きっと、王子さまは見つけてくれるわ。だからこうして、いつも笑っておくの』
どんなに近所の子供達に馬鹿にされようと、幼いルビーは決して怒ったりしなかった。じっと我慢して絵本に出てくるような王子を待っていた。
ブルーローズの外見はあの頃ルビーが思い描いていた王子そのもので、中身もまた王子そのものだ。
「ルビー?」
案じてくれるブルーローズの声がする。ルビーは涙を堪えて顔を上げ、笑顔を取り繕う。
「何でもない。ありがとう、ブルー。何から何まで」
「ううん、いいんだ。気にしないで」
ホッとしたように小さく胸を撫で下ろす、陶器並みに白いブルーローズの肌が薄く色づいた。青い瞳にはルビーだけが映っている。
「あとね、良く眠れるようにと思ってレモン水を持って来たんだ。眠る前に飲んで」
「うん、わかった」
「それじゃあ、おやすみ。ルビー」
「おやすみなさい、ブルー」
ブルーローズはゆっくりとドアを閉めた。
暖炉の火が小さく撥ねる音だけがする。照明を消した部屋の中で、オレンジ色の炎だけが光を持つ。 大窓は分厚いカーテンをぴったりと閉めていた。
ルビーはバッグから肌着を取り出し、それを頭からかぶってもそもそと身につけると、その上からブルーローズに貸してもらった寝着を着た。部屋の端にあるドレッサーの鏡に自らの姿を映してみた。シンプルなラインをした淡いアイリスカラーの寝着は、ルビーのプラチナブロンドの髪によく似合っている。ルビーはドレッサーの上に置いてあるブラシで軽く髪をとかす。肩の少し上あたりまでしかない短い髪が艶めく。
随分と長い間、身だしなみに頓着していなかった。
ルビーは仕事の邪魔にならないよう、目の上で前髪を揃えていた。良家の娘達は皆、長く伸ばした髪を巻いてみたり編み込んでみたりと工夫をこらすのが普通だ。
彼女達を見かける度に、ルビーの心はどす黒いもので満たされたものだ。
鏡の中の自分に苦笑を洩らすと、ブラシを置いてベッドのすぐ横にある小窓を開けた。冷たい夜風が鼻をつんとさせる。窓の外には一面、青薔薇の花園が広がっている。すぐ横には林檎の木もあった。
ルビーはローテーブルに置かれたグラスを手に取り、満月の光に掲げる。グラスの底に青薔薇の花弁が一片沈んでいる。
「きれい」
グラスの水が青く光っているように見える。微かにレモンの香りが漂う。
水を飲もうと、それを傾ける。しかし、窓の向こうから投げ込まれたものによってグラスはむなしく床へ落ちた。バリン、と大きな音を立ててドレッサーの鏡が割れた。
驚き、息を殺す。
ルビーは転がりこんできたものを目を細めて見た。ドレッサーの鏡を粉々に打ち砕いたそれは、丸々とした林檎だった。
ガサリと林檎の木が風もないのに動いた。
ちりん、と鈴の音がする。