15
「ちょっとマドレア。どうしていきなりここに?」
「いいからいいから」
「…………」
マドレアは馬車の中で香水を振りまきながらふんぞり返っている。
三人を乗せた馬車はワエブ伯の館前に止まっていた。何故、グラン家の前ではなくここへ馬車が止まったのかわからない。
ルビーは横に行儀良く座っているネイブに顔を向けた。
「ネイブ、あなたはどうしてここに来たのか知っているんでしょ? 教えてちょうだい」
「えーっと……」
「ネイブ」
答えようとするネイブに、マドレアは待ったをかける。
「ルビー、ちょっと待ちなさいってば。もうそろそろ結果が出るんだから」
「結果って……」
ハッとしたルビーはマドレアを見た。
マドレアは馬車の小窓の向こう側を見、目を細めた。
「……来た来た……」
彼女はそう言って全てを悟った表情をすると、突然馬車の扉を開け放ってルビーを馬車から追い出した。
「あいたっ」
思いきり背中を押され、つんのめったルビーは舗装された地面に鼻から激突した。
「ちょっと、マドレア……何するの!」
ルビーは涙目で鼻の頭を押さえてマドレアを振り返って抗議の声を上げた。マドレアはウインク一つ飛ばして笑う。
カツ、と靴の音がした。ふっと目線を上げれば、正面に青年の姿があった。彼はルビーに手を差し伸べてくる。
「ありがとう」
青年――グレイスの手を取ったルビーの頬に朱が散った。ふと、恥ずかしさに俯いたルビーの視界にグレイスが手に持っている手提げカバンが映り込む。彼女はポカンとして訊ねる。
「どうして、そんな荷物を持っているの?」
「ちょうど今、ワエブ伯とは縁を切ってきたから、ここにはいられなくなったんだ。これから離れ、遠い地へ行かなければならない」
「………………へ?」
「さあさ、さっさと二人でどこなりとも行ってしまいなさい」
外野から声が飛んだ。マドレアである。彼女はいつの間にか馬車から降りて、ルビー達のすぐ後ろに佇んでいた。
マドレアの発言にルビーは慌てた。
「な、何を言ってるのよマドレア。私はあなたの家の使用人として――」
「グラン家には使用人がたくさんいるわ。別にルビー一人いなくとも大丈夫だから安心して。あと……はい」
彼女はおもむろに革袋を差し出した。反射的にそれを受け取ったルビーはその重みに驚愕する。金属が擦れ合う音がしたところを鑑みるに、金貨だろう。
「それはね、あんたが毎月ご両親に送っていた金貨よ。結局、ぜーんぶグラン家に返ってきてたんだけど」
「え、そうなのっ?」
そうよ、とマドレアは腰に手を当てた。豚鼻が大きく膨らむ。
「ルビーがお世話になってるから、この金貨はグラン家の皆様でお使い下さいって。……で、あたしの優しいお父様とお母様は、それをルビーが結婚する時に全額返してやろうって決めてたわけ」
なんと言ったらいいかわからなかった。喉元に込み上げてくるものが喜びなのか申し訳なさなのか、それさえ区別出来ないくらいの感情の波がルビーを襲う。
黙り込んだルビーを尻目に、マドレアはグレイスに顎をしゃくってみせた。
「グレイス! あんたさっさと言いなさいよ」
「……君に言われなくとも、わかっている」
ムッとした声でグレイスは言い返した。
彼はぎこちない動作で身をかがめると、ルビーの手を恭しく取った。壊れ物でも扱うかのような優しい手つきに鼓動が速まる。
グレイスはルビーの手の甲に軽くキスを落とした。
チャコールグレイの瞳を驚きに見開いた。ルビーが驚くのも無理はない。グレイスが行なったのは求愛の証なのである。
「――――ルビー。これからずっと、俺と共にいてほしい」
時間が静止した。
視線を落としたまま答えも待つグレイスに、ルビーは声がかけられなかった。彼女は挙動不審にマドレアやネイブ、そして邸内から顔を覗かせている数多の使用人達を見回した。誰か助け船を出してくれとの思いを込めて見つめるも、誰も彼も生温かい視線しかよこさない。それは当然である。求婚の答えを第三者が出すことなど出来ないのだから。
一向に答えを返さないルビーを不思議に思ったのか、グレイスはそっと瞼を持ち上げて上目遣いにルビーを見た。琥珀色の切れ長な瞳が、ひたむきな輝きを宿してルビーをとらえる。
涙が、零れ落ちた。
後から後から流れ続ける熱い涙をルビーは乱暴に拭う。それでも涙は止まることを知らず流れ続ける。彼女は嗚咽を上げる口を手で覆った。
何とか返事をしなければと思うが、言葉が声にならない。
だから、ルビーは首を縦に振る。彼女は何度も頷いた。
グレイスはそれを見た瞬間、唇をわななかせた。今にも泣き出しそうに、瞳が潤む。彼はルビーの手を引き、自らの胸に抱き寄せた。ルビーはグレイスの背中へ手を回して涙で濡れた顔をシャツに擦りつける。
「……全く、どれだけ世話をかけさせるのよ。二人ともまだ子供ね」
マドレアはせせら笑う。
「マドレア……あり、がとう」
鼻をぐずつかせながら、ルビーは顔を上げて言った。
「別に。ああ、あと。あんたの部屋に青薔薇あったじゃない? あれ、あたしが責任もってもらってあげるから。前々から狙ってたのよねぇ」
マドレアの言葉がどんどん早口になっていく。微かに声音が揺れていた。
ルビーはグレイスから離れ、マドレアの両手を握りしめて心から声を発する。
「私……落ち着いたらきっと、マドレアに会いに行くから」
「………………うっ」
ケバケバしい化粧を施したマドレアの口許に皺が寄る。彼女は我慢していたものが決壊したのか、大声で泣き出してルビーに飛びついた。
マドレアはルビーを掻き抱いて耳もとでわめき立てる。
「幸せになるのよ、幸せに! 絶対、約束だから」
「うん……マドレアも……っ」
ルビーの目から新しい涙が滲んだ。
そんな女同士の友情を、グレイスはネイブと並んで静かに見守っていた。
「グレイは金貨持ってるの?」
「…………」
問うネイブに、グレイスは黙って財布の中身を見せる。
「……うわあ……」
ネイブは盛大に顔をしかめる。財布の中身はゼロに等しかった。金目のものは全て置いてきた。邸にあるものは父親の財産である。それを持ち出すことなど出来ないグレイスの頭は判断を下した。今日ほど、自分の生真面目さが嫌になったことはない。
「はい、これ」
ネイブは後ろ手に持っていた上等な絹で出来た財布を、グレイスの手に握らせた。
「いや、受け取れない」
つっぱねて押し返そうとするグレイスに対し、ネイブは柔らかな微笑を浮かべて首を左右に振った。もの悲しさと一抹の寂しさを感じさせる彼の微笑みは、まるでブラウがグレイスに見せたものと同じで。
グレイスは心臓を鷲づかみにされたような息苦しさを覚えた。
「キミのためじゃないよ。それは、ルビーのために」
戸惑うグレイスへネイブは言葉を重ねる。
「約束して。ルビーを絶対幸せにするって」
ネイブは強く言った。
ああ、とグレイスは首肯した。すると、ネイブはようやく安堵したと言わんばかりに強張っていた肩の力を抜いた。
「いつか、きっと返す。……ありがとう」
すると、ネイブはいたずらっぽく深海の双眸を瞬かせた。薔薇色の唇から整然と並んだ白い歯が覗く。
「じゃあ、いつか……カーティス家の館にある白薔薇園を、青薔薇園にしてよ。それが金貨を貸す条件」
何故、ネイブがそんなことを言い出したのかはわからない。
館の誰かからブラウが青薔薇を見たがっていたことを聞いたのか。グレイスが青薔薇を作ろうとしていることをルビーから聞いたのか。
それとも、もしかしたら――……。
いいや、とグレイスは己の甘い期待を掻き消すように首を振った。そして、ブラウに向かって力強く笑んだ。
「ああ……必ず」
二人はかたく握手を交わした。
「さあ、グレイス。さっさと行きなさいよ」
マドレアがルビーの背を押しながらこちらへ声をかけてきた。
グレイスは「ああ」と返事をし、寂しさに瞳を揺らすルビーの手を包み込んだ。
快晴だった。真上にある太陽の眩しさに、ルビーは手で陽射しを遮る。
ヘンバールの町は整然とした美しさでルビー達を見送ってくれる。石造りの住宅が連なる大通りを抜ける彼女の右手には、しっかりとグレイスの左手がつながれていた。
グラン家がある町はここからそれほど遠くない。ワエブ伯が遠くへ行けと言っていたらしいから、噂も届かないような遠い町へ行かなければならないだろう。
出て行く前にせめて両親へ挨拶をしてから、というルビーの意向を汲んでくれたグレイスと共に両親に会いに行った。父はショックを受けたようだったが、きっといつかワエブ伯の心も緩み、再びこの町へ戻ることを許してくれる日が来るよ。爵位は継がなくてもね、と励ましてくれた。
母親は、いつまでもあなた達の幸せを祈っていると泣き顔に無理矢理笑顔を貼り付けて言ってくれた。
ルビーはぎゅっとグレイスの手を握りしめる。
これからどんな旅路が広がっているのか、皆目見当がつかない。しかし、後悔はなかった。
「本当に後悔していないか」
低い声で聞いてくるグレイスに、ルビーは眉間に皺を寄せた。
「しつこいわ、これで何回目よ」
「いや、だが――」
「イエスって言ったんだから、それでいいじゃない」
「そんな軽いものじゃ……」
二人は立ち止まり、何度目になるともしれない口喧嘩へ発展しそうな雰囲気を醸し出す。
と、ルビーの頬にひとひらの花びらが掠めた。
あっという間に数多の花びらが視界を埋め尽くす。それはどれも青い色素を持つもので。
「これは……俺が開発途中だった青薔薇……?」
グレイスは驚きに満ちた声を上げる。
ルビーとグレイスは花びらが飛んでくる方へ体を向けた。風に乗って舞い散る花の隙間からマドレアやネイブ、ワエブ伯爵家に仕える者達の姿が見えた。
「グレイスさまー、あなたがいなくなっても……おれたち薔薇の研究続けますから!」
「グレイス様が唸るような薔薇を作ってみせますから!」
グレイスと同じように薔薇作りに従事していると思われる者達が涙に涸れた声で叫んでいる。
「お幸せに!」
「薔薇の王子様、またいつか、この町に帰ってきてちょうだいね!」
頭上からも青薔薇が降り注ぐ。良家の婦人と思われる者達が窓辺からカゴをひっくり返してたくさんの花を散らしていた。
マドレアやネイブが町の人々へ協力を仰いでくれたのだとルビーは目頭を熱くさせて思った。
二人の道を祝福するような爛漫の花びらは町にあふれる。
「うわああ、綺麗!」
「ワエブ伯のとこの薔薇でしょう? 香りもいいわ!」
事情を知らない、通りを行き交う人々はやんやと騒ぎ立てながら笑顔になる。子供達は花びらをたくさん掴もうとジャンプしている。
花のシャワーを浴びながら、ルビーとグレイスは肩を寄せ合った。
◆
「……と、いう感じでパパとママは一緒になったのよ」
ルビーは自慢げに人差し指を立て、子供達に話して聞かせた。そののちの一騒動や多発した喧嘩の部分は、まあ、別に子供達へ聞かせることでもないだろうと思って、勝手にはしょった。
「へえ……」
「ロマンチックだわ」
興味津々の少年と夢見心地の少女は、ほうと息を吐いた。
少女はふっくらした頬をピンクに染めて、ルビーの手を引っ張る。
「ねえ、おかあさま。今度は黒猫グレイのおはなしをきかせて」
「ええ。じゃあ、パパが黒猫グレイをいじめていたところから話しましょうか」
「はーい」
少女と少年は声を合わせて手を上げた。
「おい」
と、そこに不機嫌な声が降ってきた。あ、とルビーは首を竦めて舌を出した。
彼女の後ろには腕を組んで端整な顔立ちをした男が立っている。
短く切った黒髪に鋭利な琥珀色の双眸に、薄い唇の横に添えられたホクロ。年を取っても衰えないその美貌には、長年彼の妻として過ごしてきたルビーも感心していた。近所のご婦人達には相当羨ましがられていたりする。
「その話は、もう良いだろ」
グレイスは手厳しく言った。ルビーが何度も繰り返し語る過去話にうんざりしていると言いたげな口調である。だが、口調とは裏腹に、瞳の奥は優しさに満ち溢れていた。
グレイスは、話が途切れたことに口を尖らせていた少女と少年の背中をドアの方へ押しやった。
「子供は風の子。話なんていいから、外で遊んでこい」
「ちぇ、おとうさまのいじわる!」
「ひどいわ、おとうさまのろくでなし! 自分は、ひきこもりだったくせに!」
べーだ、と子供達はグレイスに舌を出してドアノブを回す。
「……はあ……」
グレイスは額に手をやって溜め息を洩らした。
ぶうぶう文句を垂れながらも、笑いながら駆けて行く子供達にルビーは叫んだ。
「夕方には帰ってくるのよっ!」
バタン、とドアが閉まって大きな足音ともに少女達は駆け出した。きっと、自分の声は届いてないだろう。
「元気ね」
「ああ、本当に」
ルビーとグレイスは目を合わせると、小さく笑った。
一家の住む家の窓辺には、一輪の青薔薇が飾られていた。きらきら光る……思い出深い、一輪の青薔薇が。
ルビーは枯れることを知らない青い花びらに指先で触れる。それに応える如く、薔薇は身を震わせた。