13
――ちりん。
ちりん、ちりん。
カーティス公爵の館を訪れて数日経ったある日のよく晴れた午後。ルビーはぶらぶらしていた。いつもならば使用人としてあくせく働いている時間にすることがないのも考え物である。手持ちぶさた過ぎて思い出したくないことまで思い出してしまう。
ルビーは肩を落とし、視線を斜め下に流した。
「みゃあ」
「…………あら」
低くだみ声で猫が鳴いた。いつの間にかルビーの前に姿を現わした猫は、艶のない黒い体をしている。その目は金色だった。
「グレイ?」
そんなわけがないと知りながらもルビーは言い、自分自身に対して苦笑した。
黒猫・グレイは死んだ。黒猫が金目だからといって、グレイだと認識するのはおかしな話である。
「みゃあ」
黒猫はルビーの呼びかけに応えるように、再び間延びした鳴き声を上げた。そして猫はくるりと背を向けて歩き出した。ぼんやりとその後ろ姿を目で追っていると、黒猫は振り返ってしっぽを逆立てた。夕陽を反射して輝く湖のような瞳がルビーを見つめる。ついてこいとでも言いたげな黒猫の仕草に、ルビーの足が動いた。
だんだん黒猫は走り出す。おれにつられてルビーも走る。
ちりん、と黒猫が首から下げている首輪についた鈴が鳴る。首輪はルビーがグレイにプレゼントしたことのあるペールブルー色ではなかったけれど、鈴の音はひどく記憶の中の音と似通っていた。
聞き覚えのある鈴の音に導かれ、ルビーは黒猫のあとを追った。
無心で黒猫を追うのは楽しかった。ここまで一生懸命走ったのは久しぶりだ。ルビーは完璧に、童心にかえっていた。息が上がって頬が熱を持つ。
「待って、猫ちゃん!」
猫を追っているうちに、白つめ草が咲き誇る湖まで来た。まるで雲の上を歩いているかのような感覚に心が躍る。
黒猫は一本の大きな樹木の影へ隠れた。それを追ってルビーは樹木の影を覗き込み、凍りついた。
黒猫はここまで案内してやったと言いたげに、しっぽで地面を叩く。
ルビーの双眸に、今一番会いたくなかった人物が映り込む。
長めの黒髪と、前髪から覗く琥珀色の瞳。薄く血色の悪い唇の横にあるほくろ。
間違いなくグレイスだった。
思い出深いこのカーティス公爵の館で、黒猫グレイに似た猫に出会って浮き足だっていた心が、一気に現実へ引き戻される。
動揺したルビーは身を翻して逃げ出した。
グレイスは追ってきた。
彼は強い力でルビーを抱き込み、反動で二人とも地面へ転がる。
花が舞い散り、辺り一面、白に埋め尽くされる。
ルビーのうなじに温かな吐息がかかった。グレイスは後ろからきつく抱きしめてくる。
長いこと、そうしていたように思えた。
「グレイ……」
愛称を口にしてもグレイスは何も言わず、より強くルビーの体を掻き抱く。
ルビーは顔をしかめた。
「痛い」
「あ――すまない」
グレイスは自分の力加減に今更気付いたのか、パッとルビーを開放した。
二人は白つめ草の絨毯に横たえていた体を起こし、向かい合った。
琥珀色の目と白つめ草が、いっせいに揺れ動く。
(……どうしよう……)
ルビーは胸の前で拳をギュッと握った。
グレイスに会えたことが嬉しいと思ってしまった。紅茶を飲んで一息入れた時のような安堵感が胸に広がる。
取り敢えず、このあいだ頬を張って怒鳴ったことだけは謝ってしまおうとしたルビーだったが、それより先にグレイスが言葉を発する。
「君のご両親に会ってきた」
出し抜けに言われ、ルビーは一瞬グレイスが何を言っているのかわからなかった。彼女は目を瞬かせる。
「私の……?」
グレイスは頷くと、事のあらましを包み隠さず話してくれた。
……両親が領主としての地位に未練などないことは、ルビーが一番よく知っていた。
両親がワエブ伯を――グレイスを許した。そのことに、とてもホッとしている自分がいた。
彼の話を聞き終わった時、ルビーは怒りも憎しみも何も残っていない自分にようやく気が付いた。カーティス公爵の領地にて一連の出来事を整理する時間を持てたことで、自分の中のわだかまりはゆっくりと溶けていった。
「……これを」
グレイスは書面を差し出した。それはワエブ伯爵と商人が交わした手紙である。
「どうするかは、君が決めるといい」
グレイスは至極穏やかに言った。
ルビーは首を横に振る。
「いらない」
「だが――」
「そんなの、捨ててしまっていいわ」
書面を持つグレイスの手が戸惑うように宙ぶらりんのまま揺れている。ルビーは彼の手に自分の手を重ねて静かに地面へ下ろした。
グレイスはむっつりと黙り込んで視線を下へ向けた。
ルビーはそんな彼に構うことなく白つめ草を摘んだ。久しぶりに編むから上手に出来るだろうか、と若干心配になりながらも白つめ草を重ねて編んでいった。段々それは花冠の形へ整っていく。
俯いたまま動かないグレイスの頭にルビーは花冠を載せてやった。グレイスが目を丸くして顔を上げた拍子に、花冠は彼の腕の中へ滑り込んだ。
グレイスは花冠を手に取ると、琥珀色の目を細めた。
「どうしてあなたがここにいるかは知らないけれど。ここは私にとってかけがえのない場所なの」
ルビーはグレイスに笑いかける。
「昔、ブラウっていうカーティス公爵の子息と一緒に、よくここで白つめ草の花冠を作っていたわ」
グレイスの口端がつり上がり、自嘲の笑みを象った。
「ブラウ=カーティス、か。…………ブルーがいた頃はちゃんとパーティに出席して、愛想笑いくらいはしていたな」
「あら、グレイもブラウを知っているの?」
ブラウの愛称である『ブルー』を知っている風のグレイスに、ルビーの表情が明るくなる。反対に、グレイスの表情が沈んだ。彼は暗い笑みを零した。
「知ってる。ブルーは……俺の親友だから」
――――親友。
その言葉にルビーは目を丸くした。
「……あなたと……ブラウが……?」
昔を懐古するようにグレイスは瞑目した。
「薔薇園に倒れていたブルーを最初に発見したのは、俺だった。……茫然としたさ。夢だと思った」
「!」
衝撃が走った。
彼は見たのだ。ブラウの最期を。
親友の死を見てしまった悲しみは深いに違いない。
ルビーは痛みを含んだ顔をし、同時にあることを思い出した。
「グレイ。前に、あなたが『大切な人を喪ったことがある』って言ってたの……ブラウのことだったのね」
「……ああ」
彼の目が薔薇園がある方角に向いた。暗く濁った瞳には鬱屈さがありありと滲んでいる。
「そんな、たった一人の大切な親友を、俺が殺してしまった」
「嘘。彼は病気で……」
ルビーはむしろ、自分のせいでブラウが死んだとさえ思っていた。ブラウはルビーに会いに行こうとして、寒い冬の日、薔薇園で力尽きたのだから。
「俺が殺したも同然だ。あの日……いや、それより以前に……父上がプルチェット家を貶めたという確固たる証拠をブルーへ持って行ってやっていれば。もっと早くプルチェット家の者達が今どこに住んでいるかを教えてやっていれば。ブルーが一人薔薇園で死ぬことはなかった」
グレイスは苦しそうにシャツの胸元辺りを鷲づかみにした。
「怖かった。プルチェット家の失脚に、父が関与しているかもしれないとブルーに言われた時……まさかと思った。でも、それは事実で。父の書斎を覗いたら色々証拠となりうるものが出てきたんだ」
書面はその一部だとグレイスは吐き零した。
肉親と友人の間に板挟みとなり、彼はどれだけ苦しんだだろう。どれだけ葛藤しただろう。
「『せめて、プルチェット一家がどこにいるかだけでも教えておくれ。このままじゃ、ブラウ坊ちゃんが心労で倒れてしまう』と、ブラウ付きのメイド(ばあや)に懇願されて……彼女に君達が住んでいる場所だけ教えた」
ルビーは言葉が紡げなかった。
「そして、あの日。あの、氷点下まで冷え込んだ日――俺は決意した。父の謀略をブルーに伝えようって。でも――」
遅かった。
そう言った彼の声は掠れていた。
グレイスが館へ辿り着いた時にはもう、ブラウは既に薔薇園にて息を引き取っていた。
「あの時、誓った。ブルーが見たいと言っていた青薔薇を必ず完成させる、と。そして、いつかブラウが大切に想っていたプルチェット家の娘に届けよう、と」
グレイスは、ふっと愛しさと悲しみに包まれた微笑みをルビーへ見せた。
「……ブラウが大切に想っていたのは、君だったんだな」
ルビーの頬に手を添えながらグレイスは言った。彼の冷たい掌が心地よい。
「あ、私――」
頬が熱い。グレイスの瞳も熱かった。
二人の距離が縮まり、唇と唇が触れあう直前まで近づいた。