12
たゆむことなく馬車を走らせていた御者は、とある森の前で馬を止めた。御者は恭しく馬車の扉を開け、中にいる人物に向かって頭を垂れた。
「どうぞ」
馬車の中から出てきたのはグレイスだった。彼は不服げに眉根を寄せていたが、視界に広がる光景に目を剥いた。
プルチェット家に来た馬車へ有無を言わせず乗せられたグレイスは、てっきり、ワエブ伯の館へ送還されるものとばかり思っていた。
しかし、目の前に広がっているのは近代的なヘンバールの町ではなく、緑豊かな森で。
館に帰るにしてはどうにも時間がかかるな、とは思っていたのだ。しかしまさか、この場所を目指して進んでいたとは露程も考えつかなかった。
「ここは……」
グレイスは低く呻くように呟いた。
行く勇気が持てず、ずっと避けていた場所。グレイスは、ごくりと唾を嚥下した。
「では、わたくしどもはこれで」
「お、おいっ」
御者は馬の尻を鞭で叩いた。馬はいななき、走り出す。御者は戸惑うグレイスを置き去りにした。
途方に暮れながら、グレイスは青々とした森を見つめる。
……覚えている。馬車は森を突っ切ることが出来ないため、小道を迂回していかなければならないのだ。御者は、グレイスにこの森を突っ切って、さっさと行けと言いたかったのだろうか。森を抜ければ、その先にある館へ早く到着出来る。
グレイスは、館に続く小道の脇にある森への入り口に、足を向けた。
木々の隙間から、ふんだんに光が届く森の中は、そこらじゅう日溜まりだらけだ。日差しを受けて、草木は緑をより深めている。
森はムッとする暑さを浄化し、涼風をグレイスに届けてくれた。
十数年前に来たきり一度も訪れていなかったはずなのに、グレイスは迷うことなく森を進んだ。
整った歩調のまま森を抜けると、湖に辿り着いた。丘陵地帯を越えた先に、館が見える。
あと少しだ。
グレイスは一歩踏み出し、硬直した。
湖のほとり――彼の足もとに、白つめ草が群生していた。まっすぐな花茎、球形に集まった白い頭花。日差しにやられたのか、少し萎れたその花は、グレイスへ語りかけるように小さな体を揺らす。
そんな白つめ草の大群の中、ぽつんと存在する大きな樹木。木はその身につけた丸っこい葉をざわめかせる。
グレイスは吐き気を覚え、口許を押さえてその場にうずくまった。
一輪の白つめ草が湖面に落ちて波紋を作る如く、彼の記憶に波紋が起こる。
『叶わない恋』
金髪の少年は言った。
四つ葉のクローバー探しに飽きたのか、彼は寝転がる。グレイスも彼に従い、白つめ草の絨毯に寝転がった。
森とは少し離れた場所にある一本の樹木の下に、少年とグレイスはいた。
『……なんだ、それ?』
『青い薔薇の花言葉だよ』
横を向けば、悲しげに笑う少年の横顔が目に入る。
『絶対に、青い薔薇は作れない。だから、そんな花言葉がついてるんだって』
『嫌な、花言葉だな』
グレイスが素直に言えば、金髪の少年は苦笑した。
『あーあ、ホンモノの青い薔薇……どこかにないかなぁ』
誰か作ってよ、と少年は独白のように呟いた。
切羽詰まった、縋るような表情を垣間見せる少年に、グレイスは一抹の疑問を感じた。
『――なんで、青薔薇なんか見たいんだ?』
『ボクの大切な子が見たいと言ってたんだよ。あの子を迎えに行く時、青薔薇の花束を持って行って驚かせてあげたいなって、さ』
『ふうん……』
つくづく、純粋な少年だと思う。貴族として生まれながらも、決して黒に染まらぬ気高き少年。そんな彼が、グレイスは昔から羨ましくてたまらなかった。
空は群青色をしている。少年は空に手を伸ばす。今にも透けてしまいそうな色素が薄い彼の掌がまぶしくて、グレイスは琥珀色の目を細めた。
『ホンモノの青薔薇って、あんな色してるのかな?』
『ないんだろ、青い薔薇なんて』
『そうだけど。いいじゃないか、夢見るくらい、ばち当たらないだろう?』
『まあな』
グレイスと少年はしばし無言で空を眺めていた。何物にも代え難い穏やかさがそこにはあった。
少年は白い綿雲を指でなぞるように指さす。
『……ふふっ。前に、その子と一緒に白薔薇を青い絵具で塗ったらさ、まだらになっちゃって――ちっとも綺麗じゃなかった』
少年はその時の光景を思いだしているのか少しだけ笑った。そして痛みを含んだ青い瞳にかかる長い睫毛を伏せる。
『けど……とても綺麗だった』
『…………矛盾している』
『うん。けど、本当に心から綺麗だと思ったんだ。だから絶対、ホンモノの青薔薇はもっと美しいはず――』
勢い込んだ少年は噎せた。
グレイスは慌てて彼の背中をさする。
『もうそろそろ使用人達が騒ぎ始める。邸に戻ろう、ブルー』
グレイスは回想をやめた。彼は長い前髪の隙間より覗く琥珀色の双眸に憂鬱を浮かべて嘆息する。
ガサッと叢を掻き分ける音がした。
何かと思って視線をやれば、黒猫がいた。猫は金色の瞳でじっとグレイスを見つめる。
グレイスは手を伸ばした。
「……来い。もう絶対に、傷つけたりしないから」
過去に一度、この森で金目の黒猫を虐めてしまったことがある。その時の生々しい感触はいつまでも消えず、長い間グレイスの良心を責め続けた。今目の前にいる黒猫は、あの時の猫ではない。それでも、何かせずにはいられなかった。黒猫の頭を優しく撫でてやりたい。
黒猫は鳴きもせず動きもせず、ただグレイスを観察していた。
「待って、猫ちゃん!」
鈴のような声がした瞬間、ニャアァと猫はかわいげのない声で鳴き、いずこへか去った。
大きな樹木の影から姿を現わしたのは、グレイスが予想だにしていなかった人物であった。
プラチナブロンドのこざっぱりしたセミロングの髪。意志の強そうなチャコールグレーの瞳。若干日に焼けているものの、元来の白さが滲み出ている滑らかな肌。つんと上向いた鼻は高くもなく低くもない。小ぶりで愛らしい赤い唇はまるで熟れたリンゴのように色づいていた。
「ルビー……」
名を呼ぶと、少女は胸元で手を握りしめ、くるりと踵を返して逃げ出した。
「!」
反射的にグレイスはルビーを追いかける。
手が届かない。
失いたくない。
もう何もかも手遅れだと、心のどこかで誰かが叫ぶ。
人殺しであるくせに。喜びを失い、生きることさえままならない日々を過ごしてきたくせに。彼女から全てを奪った男の息子であるくせに。
――いまさら。
しかし、彼女が好きだと心が痛いくらいに叫ぶ。
グレイスは歯を食いしばって大地を強く蹴り、ルビーへ飛びかかった。
二人は白つめ草の絨毯に転がった。