10
全てがオレンジ色に染まっていた。
グレイスは前方に見える家を瞬きもせず凝視していた。喉がこくりと鳴る。
彼は、追いかけてくる使用人達に見つからないよう、細心の注意を払ってジグザグにヘンバールの町中を駆けた。
そうして、ようやくここ――町外れにある家に辿り着いたのだった。ところどころレンガの抜けた屋根は、そり返った板で乱雑に補強してある。
グレイスは掴んでいた書面の皺を伸ばし、出入り口の扉前にある石段を上がった。彼は持ちうるすべての勇気を振り絞って、扉を小さく二度叩いた。
反応はない。
ノックが小さすぎて、中にいる者が聞きとれなかったのだろうか、と思ったグレイスは、もう一度拳を握りしめる。
「うちに用ですか?」
心臓が飛び出すかと思った。
振り向けば、農作業着を身につけた壮年の男性と女性が佇んでいるではないか。日にさらされて真っ赤に焼けた顔と赤茶けた髪は、水分を喪いパサパサしている。
女性は頬に手を当て、小首を傾げた。
「あら、あなた――ワエブ伯の息子さんじゃない?」
「はい。グレイス・ジョン=ワエブです。突然の訪問をお許し下さい。ミスター・プルチェット。ミセス・プルチェット」
「ええ? ワエブ伯の?」
グレイスが言い放ったことに、プルチェット家当主――ルビーの父親は大きくのけぞった。当主の横にいた女性――プルチェット家当主の妻は、夫に生ぬるい視線を送る。
「昔、パーティで何度か会ったことあるでしょう。全くもう、すぐ忘れてしまうんだから」
「はは、ごめんごめん。年かな?」
昔からあなたはそうですよ、と奥方は手厳しい。
彼らの小気味よい掛け合いの中、グレイスは一人取り残されていた。居心地悪く、背を丸める。彼の心中を察したのかいないのか、奥方が晴れやかな笑顔を向けてきた。
「ごめんなさいね、主人も悪気があるわけではないのよ」
「ええ……」
グレイスはそう言って、首を縦に振るだけで精一杯だった。
何を言えばいいのか。どう切り出したって、己の保身に走った釈明と捉えられてしまいそうな気がする。
もとより、自分は口がうまくない。華やかなパーティの場でも愛想の良い言葉一つ吐き出せず、失笑を買っていたくらいだ。いっそ白塗りの壁になってしまえたら、と何度思ったことだろう。
そんな自分が、プルチェット家当主達を不愉快にさせる発言をする可能性は、限りなく高かった。いや、こうしてここを訪れているだけでも十分、不愉快にさせているはずだ。
悶々としながら言葉を模索し沈黙するグレイスに、プルチェット家当主と奥方は顔を見合わせ頷き合った。二人は人好きのする笑顔を浮かべる。
「良かったら、上がって行かないかい?」
「そうよ。汚い家だけれど」
「ですが……」
「いいから、いいから」
当主と奥方は声を合わせてグレイスの背中を優しく押した。
奥方は、絞りたてのミルクを加えて煮詰めた紅茶を振る舞ってくれた。
礼を言って、一口啜る。ほんわりとした温かさが胸に落ちた。荒れた心が凪ぐ。
グレイスはホッと溜め息を吐いた。
彼は部屋の中をぼんやりと眺めた。こぢんまりとした家は平屋で、狭い。家具は丸テーブルと三脚のイス、小窓の下にある年季が入ったベッドぐらいしか見当たらない。それらに圧迫された部屋には通路なんてなかった。奥方がキッチンから紅茶を運ぶ時なんて、横歩きでつま先立ってベッドとイスのわずかな隙間を通り抜けていたくらいだ。
こんな小さな部屋、息苦しくなってもおかしくないはずなのに、とても居心地が良かった。
窓辺に飾られた一輪の淡い薄紫の花、つぎはぎだらけのカーテン、ベッドに掛けられた手作りのパッチワーク。高価なものなど一つもない空間は一種の穏やかさと安らぎを感じさせ、グレイスの目に好ましく映った。
ふと、部屋を観察していたグレイスと両手を交差させて微笑する当主の視線が交じり合う。
「さて、ここに来ることはワエブ伯にちゃんと言ったのかな?」
「いいえ」
「それはいけない。……伯爵は、きっとカンカンになる」
顔を厳めしくさせて言う当主の声は、優しさを帯びていた。
こんな優しい人から、父は全てを奪ったのだ。
「プルチェットさん! これウチで採れた野菜なんだけど、余ったからやるよ……って、あ?」
親しい者なのだろう。男は野菜を手にいきなり入ってきた。
咄嗟に当主はグレイスと男の間に立ち、破顔した。
「ああ、すまん。来客中でな。野菜はありがたくもらうよ!」
「任せとけって。じゃあな。お客人、びっくりさせてすまなかったね」
男は満足そうに手を振って――奥方には花束をプレゼントしていた――口笛を吹き鳴らして帰って行った。
グレイスは胸を撫で下ろした。
「すみません……ありがとうございます」
「ん?」
当主は何のことだかわからないと言いたげにくるりと黒目を回す。
農民達はワエブ伯爵を厭っている。伯爵は農民に対して多大な税をかけているのだ。抑圧されている者にグレイスが伯爵の息子であることなんて知れるのはまずいと当主は判断したのだろう。当主の気遣いが、ありがたかった。
「さっきのはお隣さんなんだ」
「そう、なんですね」
「皆、いい人ばかりだ」
当主は満足そうに言った。そうね、と花束をビンに飾り終えた奥方も相槌を打つ。
「…………ですが、貴族達は……」
貴族達はプルチェットの悲劇を、見世物か何かのように面白がっている。プルチェット一家が辿った道は貴族達にとって、いまだ格好の笑い話だった。パーティでもたびたび話題になる。落ちぶれた一家がいつまでのたれ死なずに済むかを賭けるような貴族もいた。
奥方の目が沈んだ。彼女の目元がうっすら翳る。相当いやな目にあったのだろうことが察せられた。
グレイスは膝の上で拳を握りしめ、深く項垂れた。
「おやおや……どうした?」
「…………申し訳、ございません」
唐突過ぎるグレイスの謝罪に、当主達は困惑した表情を浮かべた。
「本当はあなた達が、町の領主とそのご夫人であるべきはずなのに。もっと前に謝罪に訪れるべきだった。――――私の臆病さを、お許し下さい」
「まてまて、君が謝る必要なんてどこにもないぞ」
「そうよ」
グレイスは頭を左右に振った。
「いいえ。父の罪は私の罪。プルチェット家を失脚させた原因は……私の父です」
「それは、ただの憶測でしかな――」
「これを」
グレイスは当主の言葉を遮ると、持ち出した書面を呈示した。いくつかの手紙だった。それらを受け取り、当主は便せんに所狭しと並んでいる荒れた文字を目で追う。奥方も横から手紙を覗き見ている。
手紙の内容は明け透けなものだった。ワエブ伯爵と、当主に鉱山の話を持ってきた商人が結託している証拠となり得るもの。幾度も綿密な打ち合わせをした上で、ベストなタイミングで鉱山話をプルチェット家当主に持ちかけて失脚させる。その後、商人の生活保障はすべて担うとまで記されていた。
当主は手紙を読み終えると、腕を組んでイスの背もたれに体を預けた。
「うーむ」
奥方も戸惑いがちに夫の顔色を窺っている。
グレイスは当主の顔を見つめて硬い口調で言う。
「……私は、この揺るぎない証拠を公表するつもりです」
「なんだって!」
「なんですって!」
当主と奥方は、そろって素っ頓狂な声を上げた。
「これは、当然のこと。あの館や領地を返還するのが遅れてしまったこと、深くお詫びを申し上げます」
グレイスは立ち上がり、深々と上体を折った。
彼の肩を、当主がぐっと掴んだ。殴られることを予感したグレイスは静かに目を瞑る。しかし、当主はグレイスを殴らなかった。
「顔を上げて」
「いいえ。そんな、恐れ多い」
「君はまがりなりにも伯爵家の子息だ。農民ふぜいに頭なんか下げちゃいけない」
凛とした声に、グレイスは渋々頭を上げる。彼の両目に、慈しみが宿った微笑を洩らす当主と奥方が映り込んだ。
グレイスが思っていた反応と違う。憎しみに染まった目で睨まれると思っていた。なのに――。
「君は貴族に向いていないね」
当主はそっと呟いた。
「よく、言われます」
「真っ直ぐで、正義感にあふれている。だから、父親のことが許せないのかい」
「…………」
グレイスはかさついた唇を舐めた。
正義感なんて陳腐なもの、自分はとうの昔に喪ってしまっている。
「私は、ルビーの友人でした」
過去形でグレイスは言った。
「まあ、良いこ――」
「ですが、彼女と友人であったのは、彼女がプルチェット家の娘である事実を知るまでの間です。……ルビーは私を許さないでしょう。私も自分自身を許せない。だから」
「ルビーのためにワエブ伯の地位を私に明け渡す、と」
グレイスは目を伏せる。
「それだけじゃない。これは……父がやったことへの償いです」
グレイスの脳裏にルビーがちらつく。
彼女は喜んでくれるだろうか。失った地位を取り戻せることに。
いや、きっとそれはない。もともと彼女の家族が持っていた地位を返すだけなのだから。当然のことだと、涙に濡れた目でなじるだろう。
グレイスへの憎悪もわだかまりも、溶けないままに。
ポン、とグレイスの頭に大きな掌が乗った。目線を上げると、目の前には優しい当主の眼差しがあった。
「弱ったな……。私も妻も、今はこの暮らしに満足しているから、今更あんな陰謀渦巻くところに戻りたくないのだけれど」
「え…………?」
「私は、伯爵を責める気なんてない」
ぽつりと、当主は言った。
「たしかに酷い仕打ちだとは思うが……まんまと騙された私も私だし。もっと金を得ようなんて思って鉱山話に乗ったのが悪かったんだ。全ては、私の不徳の致すところだよ」
当主は、こともなげに笑う。
「それに、私たちが住んでいた館をあそこまで立派にしたのは、他でも誰でもない、あなたのお父さまよ。うちの旦那じゃ、とてもとても……」
「はっきり言い過ぎだぞ」
「あら。気に障ったかしら?」
「いや……違いない」
彼らは肩を竦め、グレイスに向き直った。
「私からのお願いを、聞いてくれるかな?」
当主の申し出に、グレイスは戸惑いがちに姿勢を正した。
「はい……何なりと」
「君の持っている証拠は、公表しないでほしい」
グレイスの顔が驚愕に染まった。血の気が引くとはこのことだ。
「私達はこの生活を受け入れているから。……それに」
当主が言葉を切った。
「君が全て背負う必要はどこにもないよ」
呼吸が、止まるかと思った。
グレイスは込み上げてくる涙を流さぬよう、天井を仰いだ。琥珀色の瞳が潤み、麦穂色に変化する。
「ちょっと早いけど、夕食にしましょうか?」
「そうだね。君も良かったら食べて行くといい」
まるで旧知の友人へ言うように、さりげなく当主はグレイスに言った。
「…………はい」
グレイスは無造作に書面をポケットへ押し込んだ。
――温かかった。
パンが半分と少しの肉、そして野菜を煮込んだスープ。質素な食卓には笑顔があふれていた。グレイスはこんなに笑いの絶えない食卓を初めて囲んだ。誰かと共に食事をするのが、こんなにも楽しいものだなんて知らなかった。
「それでね、お隣さんたら顔を真っ赤にさせて……」
奥方が話していると、ガラガラという音がした。グレイスはカーテンを少しだけ持ち上げ、隙間から外を見る。
家の前に馬車が止まった。
グレイスは勢いよく立ち上がり、玄関を睨み据える。
「どうした?」
当主は目をしばたたかせた。
「…………」
グレイスは扉から視線を剥がさない。
コンコンコン。
ノック音が響く。奥方が出て行こうとするのを、グレイスは止めた。
「――私が出ます」
グレイスの言葉に、え、と奥方は首を捻る。
グレイスはドアノブを回した。外には、身なりのいい服を着込んだ招かれざる客人達が佇んでいた。彼らは一様に恭しく頭を下げる。
「……グレイス様、こちらにいらしたのですね」
グレイスは、ルビーの両親を守るように立ちはだかった。