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青薔薇の恋  作者: 藍村 泰
神の祝福
32/39


 重い溜め息が暗い部屋の中に充満する。

 グレイスは鬱陶しい前髪を掻き上げ、蜘蛛の巣の張った天井を見つめていた。

 彼の座っているイスを中心に、細長いガラスの容器や青色の液体が入った小ビン、何やら小難しい数式が書きつけられた紙切れが散乱している。

 暗幕の隙間からわずかばかり光が洩れていた。いつもならば、研究材料に陽が当たったら大変だとすぐさま隙間を塞ぐのだが、今の彼はイスに座ったまま微動だにしない。

 グレイスがグラン家へ足を運んでから、早一週間が経っていた。

 ルビーとの一件を考えないで済むように、薔薇の研究に没頭しようとしたが、全く手につかない。

「何をやっているんだ、俺は」

 彼は独白した。

 幼い頃に自ら立てた、贖罪の誓いは絶えず心に揺らめいている。

(あの時、決めたじゃないか)

 ――絶対に、青薔薇を作り出す。

 自分の何をなげうつことになっても構わない。そう誓った。

 グレイスはぐるりと開発室として使っている部屋を見回す。自分以外の使用を禁じた部屋は、とても閉鎖的で研究に没頭するのにおあつらえ向きである。

 昔はこの部屋に篭もって一人こっそり青薔薇を作る研究をしていたな、と彼は過去に思いを馳せる。あの頃は、老執事の反対も聞かず、たくさんの専門書を買ってきて読み漁り、一人の世界に入り込んでいた。

 それが三年前、父親に自分の行なっていることが露見したことで、歯車は狂ってしまった。青薔薇を作る過程において改良した曇りなき赤い薔薇を見た父親は絶大な賞賛を贈った。そして、息子のためという名目で薔薇の研究事業を興し、成功した。その瞬間から、青薔薇を作るというグレイスの本当の目的は二の次になってしまったのだ。

 青薔薇など貧相な花ではなく、世界一大きく華美な薔薇を作れと父親はせっついてくる。

 否を唱えることも出来ず、グレイスは黙々と研究を重ねていた。

 そして今年の冬――反抗出来ない自分に嫌気がさして飛び出した町の外で、ルビーと出会った。あの出会いはただの偶然なんかじゃないと、彼の心が叫ぶ。

 雨に打たれてボロボロのルビーを一目見た時、暗がりに座り込んでいる自分とルビーを重ねた。自分の家に貶められた一家の娘とも知らず、手を差し伸べたのだ。

 グレイスは両手で顔を覆った。琥珀色の目をゆっくりと閉じる。彼の唇が自嘲の笑みを象った。

 どの面下げて、彼女に声をかけた。厚かましいにも程がある。

 ルビーの名を知った時に、プルチェット家のことを思い出すべきだったのだ。ルビー、というありふれた名前だからといって安心してはならなかった。

 自分は知っていたはずだ、誰よりも。……彼女のことを知っていたはずだ。

 グレイスの足が机に当たり、カタリと小さな音を立てる。彼は机の一番下の引き出しへ目をやった。その引き出しの取っ手には厚い埃が被さっている。

 きっと、二度と開けることはないと泣きながら鍵をかけた引き出し。

 しかし。

 グレイスは、ルビーに叩かれた左頬に触れると、ぴりっとした胸の痛みが走った。

『あんたは、ただ甘ったれてるだけよ!』

 ひりひりする。

 グレイスは喉を掻き毟る。

 そう、自分は甘えている。父親を憎みながらも、ぬるま湯から抜け出すことが怖くて目を閉じて耳をふさぎ、薔薇の研究に没頭することによって全てから逃れようとしているだけ。

 幼い頃から何の進歩もない。

『グレイ』

 至極穏やかなハスキーボイスが鼓膜を撫でた。

 やめてくれ、とグレイスはかぶりを振った。その温かな親しみの篭もった声を思い出す度、真綿で絞め殺されているような感覚に陥ってしまう。

 ドアノブが乱暴に回された。

「研究はすすんでいるか」

 ふてぶてしい言葉を放ち、グレイスの父・ワエブ伯爵は部屋に入ってきた。

「…………父上」

 顔面蒼白のグレイスを気にとめるでもなく、伯爵は卓上に散乱した紙束やガラス管を見咎め、眉をひそめた。

「なんだ、全くもって進んでおらんではないか」

 父親は事業の成功だけを夢見ている。

 グレイスの心のくるしみをおもんぱかったことなど一度たりともない。それは、グレイスが物心ついた頃から変わらない。

 彼の母親は、非人間的な父親に愛想を尽かして愛人と駆け落ちした。

 ……この館に、グレイスを見守ってくれる者はいない。

「ルビー嬢とはここ最近、会っていないようだな。そのことに関しては、利口だと褒めてやろう」

 尊大な父親の言葉に、グレイスの肩がぴくりと動いた。苦しみも、悲しみも、父親を前にすると消えていく。感情がこそげ落ちていく。

 無言のまま引き出しを見つめているグレイスをかえりみることなく、ワエブ伯爵は未完成のまま床に放り投げていた青紫色の薔薇を握りつぶした。

「侯爵家の一人娘と婚約しているのだ。己の立ち位置を考えて行動するように」

 グレイスは黙っていた。ただ、嵐が過ぎるのをじっと待っていた。

「大体、プルチェットの娘のように貧相な娘など、吐いて捨てるほどいるだろう。もし、ああいう娘が好みなのであれば、わしが適当に見繕ってやる。だから、もうあの娘とは会うな」

 パチン、とグレイスの中で何かが弾けた。

「…………うるさい」

 低く、呻くように呟いた。

「何か言ったか?」

 威圧感のある言葉が頭上から降ってくる。幼い頃から、この声が恐ろしくてたまらなかった。越えることのできない、絶対的な存在を前に幾度となく自分の意見を押し殺してきた。

 グレイスは父親の質問に答えることなく、ポケットから鍵束を出す。

 彼は黒ずんだ小さな鍵を、机の一番下段の引き出しについた鍵穴に突っ込んだ。錆びついた穴の中で、鍵が回る。

 引き出しを開けると、鼻につくカビ臭いにおいがした。

 グレイスはその中に入っていたいくつかの書面を掴み出す。

「おい、グレイス。聞いているのか!」

「……もう、終わりだ」

 グレイスの目が金色にぎらついた。彼は勢いよく書面を父親へと突きつけた。

「そんな黄ばんだ紙きれが、どうしたと――」

 ワエブ伯爵の声が止んだ。伯爵はグレイスの手にしたそれを奪い取ろうとした。

 しかし、グレイスは書面を後ろ手に隠す。

「父上、俺は全てを明るみに出す」

 グレイスは言い捨て、部屋を飛び出した。

「まて、グレイス! 誰か……誰かあいつを止めろ! 自分達の生活を守りたければ、グレイスを外に出すな!」

 大きな声と呼び鈴が轟いた。

 廊下を走るグレイスの周りに、使用人達が群がってきた。

 彼らは何がなにやらわかっていないようだったが、取り敢えず伯爵の言いつけを守ろうと、グレイスの足並みを止めようとする。

「お待ち下さいませ、坊ちゃま」

「旦那様のもとに――」

 使用人達をものともせず、グレイスは突き進む。

 しかし、男達も増えてきて彼の足は止まりそうになった。

「お待ちなさい」

 鋭い声が使用人達を制す。

 声の持ち主――使用人達を管理する老執事は、グレイスを邪魔する者達の手を払い落とした。

 老執事の後ろには、古参の使用人達や、ルビーが来ていると教えてくれた若いメイドの姿もある。

「さあ……行ってください」

「――どうして――」

「いいから、早く行ってください」

 後ろ髪ひかれる思いで、グレイスは書面を握りしめて場を去る。

「坊ちゃん、お待ちを!」

「グレイス様!」

「旦那様、グレイスさまは外に……!」

 厩へ行き、悠長に馬を選んでいる暇はない。グレイスは徐々に歩調を上げ、門外へ出た。


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