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「ルビーを――」
「駄目よ。あんた、あの子に昨日何か言ったんでしょ。通さないわ」
「何も言ってやしない。ただ、俺の父が彼女とその家族にひどいことを……。だから、謝罪をしなければいけないんだ。マドレア嬢、道を開けてくれ」
「嫌」
「……君は、いつも俺の邪魔をするな」
「あら、何年前のパーティのことを言ってるのかしら?」
「思い出しただけで腹立たしい。君が俺に声をかけなければ、さっさと抜け出せたものを――」
「フン。ちょっと見てくれが良かったから、声をかけてあげただけじゃない。心外だわ」
ワエブ伯爵の息子とグラン家の娘が、朝っぱらからグラン家の玄関口で、やんやと言い合っている。ルビーはそんな二人を横目見ながら、窓を開け放してサッシを拭き上げていた。二人はルビーが案外近くにいることに気付いていない。
昨晩、グレイスの家――ワエブ伯の家から戻ったルビーは無言のまま屋根裏部屋へと駆け上がった。ルビーを心配して様子を見に来てくれたマドレアは、ルビーの顔がひどく沈んでいることに気付いたのだろう。だからこうして、ルビーとグレイスを会わせないように気を遣ってくれている。
上質な生地の服を着たマドレアとグレイスは、上流階級に身を置く者特有の白い肌を有している。ルビーはひび割れた自分の指腹を見て、表情を消した。
薄汚れた自分とグレイス達。彼らと自分の違いなど、比較するまでもなく明らかで。
覗き見ているルビーに気付かないまま、グレイスは無理矢理に邸へ入ってこようとする。彼を慌ててマドレアが止めた。
「やめなさい!」
厳しい口調のマドレアの声が邸中に広がった。
「しかし」
「何を謝罪することがあるの」
マドレアの指摘は正しい。
彼は何も悪いことをしていない。ただ、ルビーの家と因縁があり過ぎる間柄なだけ。
「彼女にちゃんと謝りたいんだ」
「あんたが謝ったところで、あの子の家は元通りにならないわ」
ぐさりとマドレアは言った。
「それでも、謝りたい。父のしたことは卑劣で汚いことだ。許しを得ようなんて馬鹿なことは思っていないし、殴られたって文句は言わない」
「そんなの――」
「そんなの望んでない!」
思わず、ルビーは叫んだ。
マドレアとグレイスが、驚いた顔をしてルビーの方を見た。数歩進めばぶつかる程に近い、窓を挟んで向かい合う三人に、微妙な空気が流れる。その空気を掻き切るように、グレイスは一歩進み出た。
「ルビー…………すまな――」
「謝罪なんていらないわ。あなたは何も悪いことなんてしてないじゃない」
ルビーはグレイスの謝罪を皆まで言わせず遮った。
グレイスは痛ましげに目を伏せる。
「父の罪は俺の罪だ」
「グレイは、私の家族を陥れるために伯爵の肩棒を担いだの?」
「違う!」
ルビーの問いかけに、グレイスは声を荒げた。
歯を軋ませて、グレイスは拳を握りしめる。皆まで言わないところから、彼の内に宿る憎悪と怨みが透けて見える。その顔には、強い悔恨と重圧が滲み出ていた。
「違う……っ。俺はあんな奴、父親だとさえ思ったこともないっ。血の繋がりなんて断ち切ってしまいたいくらい……俺は、あいつを……」
――彼は捻くれている。
ルビーはそう思った。
たしかに、グレイスはルビーの家を踏み台にして大きくなった自分の家――ワエブ伯爵家を憎んでいる。それは本当だろう。
しかし、グレイスはその憎き父親の恩恵を授かっている。
にも関わらず、彼は目を逸らして耳を塞いでいる。全て父親が悪いのだと心を閉ざして頑なにさせて、自らを守ろうとしている。どうしようもないジレンマにがんじがらめになって苦しんでいる。
ブラウとは正反対――そしてグレイとも違う性質を持つグレイス。
ルビーはここに至ってようやく気付いた。
グレイスは、他の誰でもない、過去のルビー自身に似ている。だから、こんなにも腹立たしいのか。
「……面と向かって伯爵に意見したことなんてないくせに」
ルビーはグレイスを睨みつけながら言った。
「父親のことを否定しながらも、しょうがないと諦めてるくせに」
「ルビー」
グレイスがルビーに近寄ってきて、サッシに手をかける。悔しさと困惑が入り交じった表情が、昔の自分自身と重なる。
考えるより先に、手が先に出た。
パンッと小気味良い音がした。
グレイスはルビーに叩かれた左頬を押さえた。たくさんの針を刺したように、右の掌が痛い。
「あんたは、あんたは、ただ甘ったれてるだけよ!」
震える声を無理矢理奮い立たせて、ルビーは年甲斐もなく怒鳴った。
グレイスを通して、ルビーは過去の自分に対しても怒鳴っていた。甘んじて状況を受け入れ、何も見たくない、聞きたくないと駄々をこねていた自分とグレイスは同じだ。
ルビーはバケツとブラシを乱暴に握ると、逃げるように邸の奥へ引っ込んだ。
「ちょっと、待ちなさい! ルビー!」
マドレアの声が追ってくるが、振り向かなかった。
ああ、自分は迷惑をかけている。そう思うと申し訳ない気持ちで胸が詰まる。
グレイスを叩いたことだって、本当は悪いと思っている。だが、素直に謝る気にはなれなかった。
ふと、ワエブ伯の言葉が過ぎった。
ルビーは波立つ胸を押さえて壁にもたれた。
「……婚約者とだって、いずれ反抗もせず結婚しちゃうくせに……!」
「え……? 何よそれ」
「!」
ルビーの後ろには、日頃の運動不足からか、呼吸を大きく乱したマドレアが突っ立っていた。ファンデーションが汗によって流れ落ちている様は、あまり見られたものじゃない。いつものルビーなら、笑ってそれを指摘するところだが、今はそんな余裕もない。
(まずい、もしかして今の言葉……マドレアに聞こえて……?)
どう取り繕おうかと頭の中で対策を練っていると、息を整え終わったマドレアが首を傾げた。
「あんた、ワエブのくそ息子のことが好きなの?」
直球にマドレアは訊いた。
「ちが……」
「……ふうん……」
マドレアは額に引っ付いた前髪を横に流し、息を吐いた。
「ちなみに、あいつにはあたしが丁重に詫びを入れて帰したから」
「…………ごめん」
蚊の鳴くような声で言ったルビーにマドレアは、まったく、と笑う。
窓から夏のムッとする風が吹き込んできた。風は庭園の方から、夏草や花々の柔らかな匂いを運んでくる。
マドレアは腕を組んで、ルビーがもたれている壁に、自らも背を預けた。
「グレイス・ジョン=ワエブはねえ。顔はいいんだけど、人付き合いがてんで駄目なのよ。だから、いっつもパーティとか華やかな席に呼ばれても壁際で、一人じっと時間が過ぎるのを待ってたわ」
マドレアは話し始めた。彼女はルビーに話しているというよりも、自分の心に浮かぶ面影を手繰るように遠い目をしている。
「あいつは誰にも心を開かず、寄せつけようとしなかった。このあたしが話しかけてやっても無視よ、無視」
ふと、マドレアがルビーを見つめた。
「ルビー」
「何」
呼びかけられたルビーは横にいるマドレアを見ることなく答えた。
マドレアは微かに寂しそうな笑顔を垣間見せ、ルビーの肩を叩いた。
「あんたがグレイスのこと好きなら、あたし……応援するわ」
「別に好きなんかじゃ――…………」
ない、と言い切れない。
グレイスはいつの間にかルビーの心にいた。ブラウや黒猫・グレイを喪失したあとのルビーの心に、ただ何を言うでもなく寄り添っていてくれた。
ルビーは、ぐっと顎を引く。
「…………あの人には婚約者がいるし」
「言い訳ね」
ばっさりとマドレアは切り捨て、足を鳴らした。
「あたしだったら、そのくらいじゃ絶対引かないわ。婚約者なんてきっと金持ってるだけの不細工な女に違いないんだからっ。そんな女にルビーが負けるわけないじゃない」
「…………マドレア」
「ま、あたしが一番可愛いんだけどね」
マドレアは鼻の下を擦ると、わざと意地悪そうにニヤッと笑う。
ルビーは強張っていた表情を緩め、微笑んだ。
「ありがとう。なんか元気出た」
「それは良かったわ。………………ねえ」
「ん? どうしたの?」
マドレアは何事かを思案するように顎に手を当てた。そして、すっとルビーを真正面から見つめてくる。その視線の強さにルビーはたじろいだ。
マドレアの唇が動いた。彼女が吐きだした言葉を、はしゃぎながら階段を磨く幼い使用人達の笑い声が掻き消す。しかし、ルビーにはマドレアの発した言葉が鮮明に届いた。ルビーは双眸を見開いた。