7
ひげ面の男。
ハシバミ色の瞳は冷たく光っており、幼い少女は父親の後ろへ隠れた。そっと男の顔を窺えば、満面の笑みで握手を求めてくる。
子供というのは感情の機微に敏感なものだ。少女は男の手を取ることなく、絶対的に自分を守ってくれる父親の手をぎゅっと握った。
「おやおや……これは……」
いつかのパーティーで顔を合わせたことのある壮年の男は、大げさに両手を広げてみせた。幼心に染みついているとおりの冷たさが滲むハシバミ色の瞳が、ルビーをジロジロと品定めするかのように見ている。
「父上、この娘は私の知り合いで――」
ルビーを擁護しようとするグレイスを男は制し、言葉にし難い感情を孕んだ瞳を瞬かせた。
「……ワエブ伯爵……」
ルビーは顔を顰めて男の名を呼んだ。
「お久しぶりですな。昔とちっとも面差しが変わっておられぬようで」
「それは、侮辱でしょうか」
ワエブ伯の嫌味を含む言葉に、ルビーは挑発的に挑みかかった。
両者は無言で睨み合う。
ルビーと父親の会話に、グレイスは首を傾げた。
ワエブ伯は薄ら笑った。
「ルビー嬢、私の息子を唆すとは、いいご身分なことで」
「…………」
ルビーは奥歯を噛みしめる。伯爵はグレイスに厳めしい顔を向けた。
「私の失脚でも狙っていたのか」
「……は?」
いきなりの発言に、グレイスの眉が跳ねる。
「やめて」
ルビーは出来るだけ落ち着いた声色で、親子の間に入った。
「グレイは何も知らないわ」
「ほう……」
伯爵は顎に手をやり、優雅とも言える微笑を浮かべた。しかし、その裏側に汚い笑顔が見え隠れしている。
「では、私を貶めようとして息子に近づいたと受け取ってよろしいですな」
「ちが……っ」
「グレイス。彼女の家名を知っていて、仲良くしていたのか?」
「いいえ。――しかし、もし仮に知っていたとしても、私は友人の家名を気にして仲良くしたり、遠ざけたりしませんから」
グレイスは凛として言った。
ワエブ伯は嘆息し、緩くカールがかった髪を掻き上げた。
「馬鹿が。常々、友人は選べと口うるさく忠告していただろう。この娘はな――――プルチェット家の人間だぞ」
その言葉を伯爵が口にした瞬間、時が止まった。
グレイスの顔から、色が抜け落ちる。
「……プル、チェット……?」
囁くように、彼は呟いた。微かに震える声は、自分の失態にショックを受けているようなものではなかったが、確実にルビーの心の柔らかい部分を傷つけた。
茫然自失しているグレイスを尻目に、伯爵はルビーと向かい合った。
「ルビー嬢、あなたは今や領主の娘でも貴族の娘でもない。金輪際、私の息子に近づかないで頂きたい」
「――――父上!」
ハッと我に返ったグレイスが、ワエブ伯の発言を諫める。しかし、伯爵の口は止まらない。
「グレイスにはちゃんとした家柄の婚約者もいるのです。それが、あなたのように下賤な娘と仲良くしているがために破談となっては一大事。分をわきまえてもらいたいものですな」
「あんたが私の家を失脚させたくせに……よく言うわ」
ルビーは呻くように呟いた。
頭がぐるぐるする。視界の端で、グレイスがひどくショックを受けた顔をしているのが見えた。
ああ、と伯爵は芝居がかったようによろよろと後退し、ルビーを睥睨した。
「とても土臭い。……この敷地内で優雅に暮らしていたあなたのご両親は現在、農業を営んでいるとか。税金も満足に払えていない彼らを、この町から追い出さないでやっているのだから、感謝される覚えはあっても、根も葉もない憶測で、非難される覚えはないな」
「何ですって?」
ルビーは我慢出来ず、伯爵に掴みかかろうと一歩踏み出した。途端、ワエブ伯は呼び鈴を打ち鳴らす。間髪入れず、使用人達がやって来た。
「この娘を敷地外へ」
「はっ」
使用人達は戸惑いながらもルビーの肩を掴んだ。
「放して!」
気遣いの滲む使用人達の手を払いのけようと、ルビーは激しく首を振る。しかし、がっちりと腕を拘束されてしまい、為す術もない。
「やめろっ。彼女は俺の客人だぞ!」
「坊ちゃん、いけません」
老執事に咎められたグレイスは、伯爵に何事か言っていたが、聞き入れてもらえるわけもなく。伯爵は首を横に振った。
グレイスの悲しげな瞳とルビーの怒りに燃える瞳がかち合った。彼に対して、言いようもない恨みとも怒りともつかない何かが込み上げてくる。それは、伯爵に向かう憎悪よりも深く、強い。
「やっぱり、あんたもいなくなるんだ! いいさ、わかってた! 最初から、わかってたんだから!」
ルビーは精一杯の虚勢を張って、魂の叫びを上げた。
グレイスの顔が見る見る青ざめていく。
「ルビー……」
彼の顔を見る気にはなれなかった。視界が大きく歪む。泣いているわけではない。あまりの怒りに景色が赤に染まっていく。
「つまみ出せ」
伯爵の非情な一言を受けて、使用人達はルビーを引きずり部屋を出た。
「すまんね」
「もう、この家と関わらない方がいい」
使用人達は小さく呟き、拘束していたルビーの腕をそっと解放した。そして、門外へ押し出す。
ちょっとだけど、とメイドが綺麗な包装紙に包んだマドレーヌをくれた。
ルビーは覚束ない足取りで歩き出す。夕陽はとっぷりと暮れており、街灯が道を照らしている。
曲がり角に来た時、馬車が飛び出してきた。
その拍子に彼女は前のめりになって転んだ。膝小僧が擦り剥けて、血が滲む。
通行人の好奇心にあふれた視線を物ともせず、ルビーはスカートについた砂を払って立ち上がった。
ポロポロと掌から何かが零れる。それは強く握りしめていたマドレーヌの欠片だった。それは最早、原形をとどめていない。
ルビーはそれを思いきり振り上げた。しかし、ルビーがマドレーヌを地面に打ちつけることはなかった。彼女はそのまま、へたり込む。
涙は出ない。悲しくはなかった。
『叶わない恋』
いつか、誰かが言った言葉。いつだったろう。随分前に、誰かが言った。ふと、その言葉が頭を過ぎった。
そう、あれは 幼い日の記憶。ベッドから出られないブラウが苦しそうに咳をしながら呟いた言葉。
青薔薇は決して作れない。だから、そんな花言葉がついている、と彼は言った。
それに対し、ルビーは憤然と言い放った。
『諦めなければ、きっと青薔薇は作れるわ。だから、叶わない恋なんてない』
『え?』
『絵本に出てくるお姫さま達はみーんな、怖い思いや辛い思いをしていても、諦めないもの。だから、最後には幸せになれるのよ』
ブラウの表情が曇った。
『……ルビー、世界には……本当に不可能なものがある。キミが、もう少し大きくなればわかるよ』
『そんなの、わかりたくないわ。ちっとも幸せじゃないもの』
ルビーの言葉にブラウは力なく微笑む。
彼はあのとき、自分がもう長くないことを知っていたのだろうか。だから、あんなに儚げに微笑んだのか。今となってはもう、わからない。
「叶わない、恋」
口に出してみると、それはストンと心に根差した。
ルビーは胸を押さえた。
レンガで舗装された地面に爪を立てる。レンガとレンガの繋ぎ目に詰まった砂が、爪の間に入り込んだ
マドレーヌの包み紙に、水滴が滲んだ。