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青薔薇の恋  作者: 藍村 泰
孤独の終
3/39



 館の端にポツンと佇む林檎の木の真下に来てわかったのだが、その木は随分年季が入っているようで、幹の部分が落雷か何かによって不自然に折れ曲がっており、樹皮はかさついていた。しかし、けなげにも老木は葉を生い茂らせて大ぶりの実を幾つもつけている。生命の力強さを感じる。

 ルビーは抱きしめていたバッグを地面に置いて、口を開けた。二つくらい余分にもらってもいいだろうという欲張りさが彼女の心に生じた。月の明るい夜だというのに、盗人に注意を向けず見張り一人置いていない館の主人が悪いのだと自らを正当化し、ルビーはつま先立ちして林檎へ手を伸ばす。

 突風が吹いた。その風は悪戯に林檎の木を揺らし、ルビーが採ろうとしていた実を大きくなぶった。

 老木に生った真っ赤に熟した林檎は、その体を震わせて木から離れた。

「あっ」と、ごく小さくルビーは声を上げた。地面に落ちて潰れるところだった林檎を二つ、すんでのところで受け止める。

 安堵の溜め息を吐いたのもつかの間、つんのめったルビーはバランスを崩した。彼女の視界一面に固い地面が広がる。ルビーは反射的にギュッと目を瞑った。

「危ないっ」

 掠れた声がして、後ろから腰に手を回される。ふわりとルビーの体が宙に浮いたと思ったら、ゆっくりと地表へ下ろされる。その一連の動作に仰天し、まぬけな表情でルビーは振り向いた。その先には、ルビーとそれほど年の変わらない少年が立っていた。青く発光する雄大な花畑を背にした彼は、心配そうに眉根を寄せてルビーの顔を覗き込んでくる。

「怪我はない?」

 ごく短い髪は満月の光を受けて金に照り輝き、深い青の色彩を持つ双眸は、ルビーが今まで出会った誰よりも綺麗で。思わず見とれた。

 大丈夫、という言葉さえ出て来ない。なおも心配した顔をする少年に、ルビーは頷くのが精いっぱいだった。

 少年は熟れた林檎のように潤いに富んだ唇に僅かばかり笑みを乗せる。

「そう、良かった。ところで、こんなところで何をしているの?」

 夢見心地で少年を見ていたルビーは、彼の問いかけに現実に引き戻されて青ざめる。この敷地内にいることをかんがみれば、少年は館の住人に違いない。

 ルビーは手に持った林檎と地面に落ちた林檎達、そして目の前にいる少年を代わる代わる見つめ、泣き出しそうになりながら頭を下げた。

「ごめんなさい。どうしても、林檎が食べたくて黙って入ってしまいました。あ、でも……林檎がこんなふうに地面に落ちたのは私が犯人じゃないわ。風が吹いて――。勝手に入ってしまってごめんなさい」

 しどろもどろになりながら、採った二つの林檎を少年へ差し出して頭を下げた。ルビーはじっと頭を下げたまま、少年の革靴を見つめていた。靴がルビーの方へ動く。びくりと肩が震えた。

(やっぱり、我慢するんだった)

 林檎など食べなくても生きていける。一時の感情に任せて行動を起こすと、ろくな結果が出ないことをルビーは今までの経験上学んでいたはずだった。なのに、馬鹿なことをしたものだ。館に見張りがいないからと言って、住人がいないわけがないのだ。

 ルビーは下唇を強く噛みしめる。己の考えの至らなさを今更呪ってももう遅い。

「――いいよ」

「へっ?」

 ルビーは顔を上げた。

 少年は怒っている素振りも見せず、優しく声を響かせる。

「林檎を採ったくらいで、ボクは怒ったりしない」

「でも……他の方達とか……」

「この館の主人はボクなんだ。大丈夫だよ、安心して」

 ルビーは、どっと力が抜けてその場に座り込んだ。

「よかったあ」

 素直に言葉が口をついた。背中にかいた冷や汗が引っ込んで行く。このまま警察に突き出されるかと思った。

 少年は不思議そうに小首を傾げる。

「大体キミ、どうして夜に出歩いているの? この辺は物騒なんだ。女の子が一人で夜道を歩くなんて危険だよ。……宿に帰る途中なら、送るけど……」

「――――宿なんて、ないわ」

 力なく、ルビーは唸るように言った。彼女は膝に手をついて立ち上がった。砂のついた掌とスカートの裾を軽く払う。プレーンな黒いワンピースは使用人である証拠。いくら夜でも、月明かりの下だ。少年だってそんなこと気がついているはずである。

 心が冷たく凍る。もう、帰る場所などルビーにはないのだ。温かい居場所など、ない。

 ルビーはちらりと館を見た。一階部分の窓から薄くオレンジ色の灯かりが漏れている。暖炉の火だろう。人の話し声はしないが、少年には柔らかな寝床と暖かな家があることは確かだ。

 この見るからに金持ちの坊やには、ルビーの境遇を話したところで同情はしてみせても理解は出来ないだろう。

「警察に連行しないでくれてありがとうございます。では、これで」

 長居するつもりはなかった。

「宿がないなら、泊って行けばいいじゃないか」

 少年は当たり前のことのように軽い口調で言ってのけた。

 怪訝な顔をして彼を見やれば、少年はにっこりと笑った。

「久しく人を入れてないから埃っぽいかもしれないけれど、一応客室だって十室以上あるし」

 でも、と少年の好意的な申し出にルビーは戸惑いを覚えて、了承し兼ねた。会ったばかりの――林檎を盗ろうとしていた少女へ親切を施して得られるものなんて数少ない。少年は邪気のない笑顔でルビーの答えを待っている。見返りを期待している様子は全くない。

 それでもルビーは迷っていた。転落人生の中で学んだ、他人を容易く信じてはいけないと捻くれた心が警鐘を鳴らす。

 少年はルビーの葛藤を知ってか知らずか、手を握ってくる。嫌な気はしなかった。滑らかな絹のように繊細な手は、すべすべしていて、ずっと触れていたいとさえ思わせた。

「もしもここに滞在してくれるなら、キミには特別に花園に入ることを許してあげる。他の人は絶対に近寄らせないんだけど、キミは特別」

 特別、という言葉は心地よく耳をくすぐる。ルビーはいつも二番煎じのものしか与えられてこなかった。今着用している黒ワンピースだって他の使用人のお古だ。ルビーだけのものなんて、なかった。

「花園……」

 ルビーは少年の後ろに広がる花園へ目を向けた。それを滞在するという意味に捕らえたのか、少年は無邪気にルビーの手を引き、花園へ引き込んで行く。

「この花園は、ボクの宝物なんだ」

 花園の入り口には白いアーチがあった。アーチには可憐なスミレが飾りつけられており、ルビーを異世界へ誘う。目の前に広がる花園には青い花しかなかった。とても気高く心休まる香りは、遠い記憶の海を潜った先に嗅いだことがあるようで。ふわふわとした実体のない心地よさにルビーは酔っていた。もしかしたら、この花園がルビーをこの館へ招き入れたのかもしれないとさえ思えてくる。

 少年はルビーの手を一旦離すと、青い花を何本か摘んだ。そして、それをルビーへ差し出す。

「ほら、見て」

 ルビーは差し出された花をよくよく見て、飛び上がった。薔薇だった。

 決して青色の薔薇は存在しないのだと知った時、ルビーは泣きじゃくった。幼い少女はどうしても青薔薇を見てみたくて、何度も町外れにある花畑へ足を運んだ。それでも、青薔薇を探し出すことは叶わなかった。

 その青薔薇が、目の前にあった。ルビーは花園を見渡し、零れんばかりに咲き誇っている青薔薇の群れに声をなくした。

「これ、ぜんぶ青い薔薇なの……?」

「うん、そう」

 少年はルビーの反応に満足げに頷いた。

「純粋な青色。多分、世界中探してもこんなに完璧な青薔薇はここしか咲いてないはずだよ」

 言いながら少年は手早く青薔薇を摘み取り、茎の棘を取り去って花冠を作って見せた。彼はそれをルビーの頭にかぶせてくれる。

「良く似合うね」

 屈託ない少年の言葉がささくれ立ったルビーの心にも響いた。ルビーは、彼がかぶせてくれた花冠にそっと触れる。

「私はルビーというの。あなたは?」

「ボクはブルーローズ」

「ブルーローズ……いい名前だわ」

「ありがとう。ブルーとでも呼んでくれたら嬉しいな」

 意地を張ってこの館に泊まらずメインストリートで夜を明かすという道を選んだとしても、ここで一晩泊めてもらっても、身の危険は同じくらいだ。ならば、まだ夜露をしのげるこの館に滞在していいというブルーローズの厚意を受け取った方がいい。

 ルビーは出来るだけ柔らかく微笑んだ。久方ぶりに笑顔を浮かべたため、表情筋が上手く動かず引き攣る。

「あなたのご厚意、ありがたく頂きます。ありがとう」

 スカートの裾を持ってお辞儀をすると、ブルーローズも礼を返してくれた。紳士な身のこなしは一朝一夕では身に着かない。優雅な動作に微笑、そして口調。何をとってもブルーローズは完璧だった。

「こちらこそ。……少し夜風が冷たくなってきた。館に入ろう。ルビーはもう夕食を摂った?」

「……まだなの」

 ルビーはおなかを押さえた。腹の虫が鳴った。ルビーの顔が真っ赤になる。ブルーローズは小さく笑う。

「実はボクもまだだったんだ。一緒に食べよう」

「うん」

 こんなにも細やかな気遣いをされたことはいつぶりだろうか、と思いながらルビーは重厚な館の扉を開くブルーローズの後を続いた。





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