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「急に来てごめんなさい」
「かまわない。…………どうぞ」
グレイスは一階の奥まったドアを思いきり押す。両開きのドアは、金属の錆びついた音を立てて開いた。
「ここが……研究室?」
「いや、本当の研究室は北の離れなんだが。ここは……そうだな。開発室みたいなものだ」
ルビーが住んでいる屋根裏部屋の三倍はあるだろうその部屋は、まだ夕方だというのに薄暗かった。それもそのはず、部屋の南側一面にはめ込まれた窓ガラスには、暗幕が垂らしてある。
強い日差しからも暑さからも隔絶された空間には、ルビー達の他には誰もいない。
グレイスは作業机の上に無造作に置かれたランタンの灯りをともした。卓上には様々な書類や花びら、スポイトなど、ルビーにはよくわからないものばかり散らばっている。きっと、研究に必要な道具なのだろう。
控えめなノック音がした。グレイスは扉の取っ手を思いきり引いた。
部屋の前には老執事が佇んでいた。
「坊ちゃん」
「ありがとう」
「お礼などいりません。では、私はこれで」
老執事は優雅に頭を垂れつつ、扉を閉めた。
グレイスは執事が持ってきた紅茶セット一式を壁際にあるチェストの上に乗せ、優雅に紅茶を淹れ始めた。
「私がやるわ!」
「いい。客人に手伝わせるわけにはいかない」
「あ…………そう、ね」
意気込んで握りしめた拳の力を抜き、ルビーは視線を彷徨わせる。
グレイスは緊張気味のルビーを見やった。
「君はソファに座っておいてくれ。……埃っぽいのには、目を瞑ってほしい」
「お掃除してないの?」
「まあ……」
「使用人に頼めばいいじゃない」
ルビーの意見にグレイスは肩を竦めた。
「必要な物まで捨てられたら、たまらない」
「……ふうん」
そう言って、ルビーはソファに腰を落とした。細かい埃が舞い上がる。白いワンピースだから、埃がついてもきっと目立たないだろう。
ルビーは両腕で体を支え、足をぶらつかせる。
なるほど、床の上にもたくさんの本や紙が散らばっている。
(一カ所に集めておけばいいのに)
グレイスは片付け下手らしい。
それにしても、とルビーは小首を傾げた。
「誰もいないのね」
ルビーの呟きに、グレイスは「ああ」と返事をする。
彼はローテーブルに薄く積もった埃を払い、紅茶がなみなみと注がれたカップをルビーの前に置いた。そして、自らは反対側のソファに座って、ランタンの灯りを引き寄せた。
「新種の開発は俺だけでやっているからな」
「……てっきり、何人か研究員がいると思ってた。意外だわ」
「誰も、俺に関わろうとする者なんかいないさ」
自虐的な言葉を発したグレイスを、ルビーはじっと見つめた。どういう意味か測り兼ねている彼女に、グレイスは言葉を付け加える。
「偏屈な伯爵子息に、好き好んで近寄る者はいない」
「何、言ってるの……そんなこと」
「いいや、みんな本当は思っているんだ。手に負えない、と」
既視感を覚える。グレイスは捻くれ、ささくれ立った自嘲の笑みを零した。
捻じ曲がった彼は、ルビーに誰かを思い起こさせる。
最初は、黒猫・グレイと似ていると思った。ルビーは、グレイスとグレイを重ねていた。
――しかし――。
「君は……どうしてここに?」
「えっと、最近あなたが来ないから、どうしてるのかと思って」
グレイスは意外そうに目を見張る。
「すまない。…………父が早く新種の薔薇の開発をしろとうるさかったから、研究室に篭もりきりだったんだ」
それに、とグレイスは表情を強張らせた。
「ワエブ伯爵の息子と告げてしまってから……君の態度が変になったから」
「!」
「父は悪名高い。あの人の噂は黒く淀んだものばかりだ。……君にも、だから拒否されたと思っていた」
「そんなこと」
「別に良い、慣れている」
ルビーの反論を遮って、グレイスは早口でまくし立てた。彼の視線は下を向いている。
こちらを見ようともしない。
「それが普通の反応だから」
「だから、違うってば!」
焦れたルビーは腰を浮かせてグレイスの袖を掴もうとした。しかし、その手は呆気なく拒絶される。
ぎゅっと縮こまって俯く青年は、自分の心を守るように、下唇を噛みしめた。
「…………無理しなくていい。紅茶を飲んだら、グラン家へ戻れ」
「私に命令する気?」
眉間に皺を寄せたルビーに対し、グレイスは首を横に振った。
「そんなつもりは――」
「私はあなたのこと、友達だと思っているわ」
グレイスが息を呑んだ。彼は長い睫毛に憂いを被せ、瞑目する。彼は腕を組んだ。
「君に、出会わなければ良かった」
絞り出すように言い、グレイスはカップをぎゅっと握りしめた。
彼の一言は、ルビーの心を抉った。
「…………俺は、人殺しだ」
「え…………?」
ルビーはポカンと口を開けてグレイスを凝視する。
「君と出会ってから、都合良くその事実に蓋をしようとしている自分がいた。……雨の中で震える君が、自分と重なって見えたから……立ち直っていく君を見ていると自分の罪さえ償えたような錯覚を感じてしまっていたんだ」
「何それ……」
動けなかった。心臓が鷲掴みにされたように痛い。何の事情も聞いていないにも関わらず、グレイスの深い悲しみが胸の奥に突き刺さる。
ランタンの光が揺らめいた。
ガチャリ、と無遠慮な音がした。重い扉がゆっくりと開いた。夕暮れの陽射しが、部屋中に広がる。
「グレイ、薔薇の研究は――――」
ノックもせず、部屋へと一人の男が入ってきた。
ルビーは驚愕に身を強張らせる。グレイスは、感情のこそげ落ちた目で男を見つめる。
二人の前に現れたのは、壮年の男――ワエブ伯その人だった。