4
「ごめんなさい。忙しくて……」
「ちょっとお使いを頼まれていて……」
「マドレアの買い物に付き合わなくちゃいけないの」
「悪いけど、今は仕事に集中したいわ」
「……そうか」
グレイスは琥珀色の双眸を伏せて踵を返した。黒光りする革靴で地面に敷かれたレンガを叩く。コツコツと規則正しい音を鳴らしながら彼はグラン家から遠ざかっていく。
それを横目で見送っていたルビーは、彼の後ろ姿が曲がり角に消えたのを見計らい、堪えていた息を思いきり吐き出した。
ここ何日も、ルビーは適当な理由を並べ立てて、グレイスと会話することを拒んでいた。
何度追い返してもグレイスは足しげくグラン家を訪れる。
その度にルビーは拒絶の言葉を口にする。……堂々巡りもいいところだ。
ルビーは空を見上げた。空の果てに積乱雲がそびえ立っている。
それは、やがて来るスコールを予感させた。
◆
よく晴れた午後、ルビーは二階の廊下のモップがけをしていた。彼女は額に浮かぶ汗を拭い、モップをバケツに突っ込んで一息入れた。
窓ガラス越しに照りつける太陽が、ルビーの肌を刺す。夏真っ盛りの今日この頃は、とみに暑さが増してきている。
ルビーはモップの柄に顎を乗せながら、ぼんやりしていた。
窓越しに玄関を見やる。来客はない。
グレイスが姿を見せなくなって早一ヶ月。彼と二人きりになるのを避けていたルビーだったが、彼がここに足を運ばなくなったことを、少々寂しく感じていた。
もしかして、彼の身に何かあったのではないか、ルビーの態度に呆れ果ててしまったのではないか(この可能性は非常に高いと思う)、と様々な考えが頭の中を回る。
「こら、何さぼってるのよ」
怒気を含んだ声がして、ルビーは肩をびくりと震わせた。
廊下の真ん中にはいつの間にか、この家の一人娘・マドレアの姿があった。
マドレアは颯爽とした足取りでルビーの近くに寄り、窓のサッシに肘をついて外を眺め始めた。
「あいつ、最近来ないわね」
「…………」
マドレアの呟きを聞こえなかったふりをして、ルビーは押し黙ったまま廊下のモップがけを再開した。
「あいつの誘いを何度も断ったからじゃない?」
ルビーの返答がないことなどおかまいなしに、マドレアは腕を組んで言った。
ルビーはマドレアを気にすることなく力を込めて床を磨く。
「他の子達に、『きっと痴話喧嘩ですわね。早く仲直りするようお嬢様からルビーへ言ってあげて下さい』なんて言われたんだけど」
ぴたりとモップをかける手が止まる。
「――――知らない」
むっつりと俯き、ルビーは答えた。
「……やっぱり……あたしがもっと早く、『あいつはワエブ伯の息子よ』と言っておけば……」
ハッとして、ルビーはマドレアの顔を見た。
予想どおり、マドレアの顔は泣き出しそうに歪んでいた。
「違う……違うわよ、マドレアのせいなんかじゃない。だから、そんな顔しないで」
「そんな顔って――もとからこんな顔よ! 悪かったわねっ」
キンキン声で喚くマドレアを手で制しながら、ルビーは首を横に振った。
「そうじゃなくて……ああ、もう」
ルビーは、髪を掻き混ぜて溜め息を吐いた。
「……会いたくないわけじゃないの。ただ、二人きりになると……ひどい言葉を投げつけてしまう気がして」
「ルビー……」
「ごめんね、心配かけちゃって」
「べ、別に。…………ねえ、ルビー。あんたにとってあいつは、ワエブ伯の子息という肩書き以前に、大切な友達でしょ?」
マドレア、とルビーは目を丸くして呟いた。
まさか、マドレアの口からそんな言葉が飛び出すなんて予想もしていなかった。
「あたしは沈んだ表情してるルビーなんて、見たくないの。案外、夏風邪をこじらせてるだけかもしれないでしょ。……溜め息ばかり吐いて玄関先を見つめているくらいなら、あいつの家まで会いに行って、確かめて来なさい」
そんな直球な……と、ルビーは絶句した。
フン、と鼻を鳴らしてマドレアは息巻く。
「勢いだけがあんたの取り柄でしょっ」
「それは、マドレアの方」
「いいから……今度の休暇にでも行ってきなさいな。邸の場所は、わかるでしょ?」
言われ、ルビーは首肯した。
わかるも何も、ワエブ伯の邸は、もともとルビー一家が暮らしていた邸である。知らないはずがなかった。
「……でも……」
気が進まない。
躊躇うルビーの肩を、マドレアが軽く押した。
「あんたがやっぱり、ワエブ伯が許せないからグレイスとも会いたくないっていうなら、代わりにあたしが邸へ行って喚き散らしてきてあげる。もう二度と、この町へ来られないよう徹底的に汚い言葉ぶつけてやるわ」
マドレアの目は本気だった。
ルビーがもう二度とグレイスとは会いたくないなどと口走ろうものならば、今すぐにでもグレイスのもとへ飛んで行って胸倉を掴んで喚き散らしそうである。
ルビーはそっとマドレアの腕を掴んだ。
「わかった……一度、行ってみる」
そう言うと、マドレアは満足げに頷いた。
◆
編み上げブーツを履いた細い足が、馬車からにゅっと現れた。
白いワンピースを着て麦わら帽子をかぶったルビーは、久しぶりに訪れた故郷に少しばかり緊張していた。
馬車に揺られること半日。ヘンバールの町は記憶と違わず賑わっていた。
石造りの重厚な家が建ち並び、レンガで舗装された道、そして中央広場にある純金のシンボルが、町の裕福さを象徴している。
町の外れに住む両親のもとへ顔を出そうかとも思ったルビーだったが、馬車の中で考えに考えた結果、行かないことにした。きっと、ルビーがいきなり帰ってきたりすれば、両親は心配するだろう。
薔薇がいたるところに咲いているヘンバールの町。
足を向けないうちに、ルビーの故郷は随分と様変わりしていた。
薔薇が町を彩っていることは変化の一つに過ぎない。一番大きな変化は、自分の記憶にある区画と、今目の前にある区画がかみ合わないことだった。
ルビーはおろおろしながら、行き交う人に声をかける。
「すみません、ワエブ伯の館はどちらに?」
恰幅の良い中年の女性は、ルビーの問いかけに立ち止まる。
「ああ、薔薇邸? この角を曲がって突き当たりを右に行ったらすぐだよ」
「ありがとうございます」
薔薇邸、という言い方に疑問を覚えるも、とりあえずルビーは深々とお辞儀をして、女性に聞いたとおりの道を歩いた。
はたして女性が言っていたとおり、すぐに目的地に辿り着くことが出来た。
記憶にあるよりも荘厳な……城と言った方が良いかもしれない、館の前に。