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「ねえ」
ルビーが声をかけると、青年は振り返る。グラン家に遊びにきた彼はそのまま、ルビーの仕事を手伝ってくれていた。
薔薇達に水やりをしていた彼は小首を傾げて穏やかに微笑んだ。その顔には安堵だけが浮かんでいた。
青年と出会って早半年。最初こそ緊張した面持ちでルビーと接していた彼だったが、打ち解けるにつれて様々な表情を見せてくれる。
ざんばらの艶やかな黒髪を揺らして琥珀の深い色合いを持つ瞳を輝かせる様は、さながら精巧な彫刻を思わせる。
彼と過ごす時間はルビーにとって心休まる大切な時間である。だから、その平和な空気感を壊さぬよう細心の注意を払って訊いてみた。
「私、あなたの名前を尋ねたこと……あったかしら?」
思い切って尋ねたルビーに、青年はハッとしたように目を丸くした。
「そう言えば……名乗ったことがなかったかもしれない」
「やっぱり?」
ルビーはクスクスと小さく笑った。
グレイの愛称を持つ彼は、複雑そうな表情で忙しなく視線を彷徨わせる。そんな彼の挙動を不思議に思ったルビーは眉を上げて腕を組んだ。
「名前、教えてくれないの?」
「いや…………だが、あまり自分の名前が好きではないから……ちょっと」
歯切れ悪く言うグレイを安心させようと、ルビーは両腕を広げて満面の笑顔を咲かせた。
「私は別に、あなたがご大層な身分だとしても、友達をやめるつもりはないわ」
その一言が彼の心を動かしたのだろう。俯き加減だった青年は面を上げる。
「グレイス……グレイス・ジョン=ワエブ」
思考が止まる。
グレイス・ジョン=ワエブ。
――――ワエブ。
ルビーは『ワエブ』というファミリーネームをよく知っていた。
彼女の記憶が正しければ、目の前にいる青年は――。
意図せず、足が後ろに下がる。
「まさか、あなた……ワエブ伯爵の……?」
「ああ、やっぱり父を知っているのか。そうだ、俺はヘンバールの町の領主・ワエブ伯の息子だ。悪魔だなんだと言われているワエブ伯爵のな」
「…………」
ルビーはぐっと拳を握りしめた。
皮肉げに言わなくともワエブ伯爵のことは知っている。知っているなどという以上に、何度となく顔を合わせたことがあった。
ワエブ伯爵が領主として君臨するヘンバールの町はかつてルビーの父親が領主をしていた町である。
父親の失脚を企てたという黒い噂を持つ伯爵の息子。それがグレイス。グレイスという名だから、通称グレイ。
ルビーはふざけるなと喚き散らしそうになる自らを抑え込む。
「そう」
ルビーはひどく混乱していた。
グレイスはルビーへ視線を送っていなかったため、こちらの動揺など全く気付いていない。
「俺も名乗った。君のフルネームも、教えてもらえないだろうか」
「ああ……うん。あ、ごめんなさいっ。マドレアが呼んでるわっ」
ルビーは言葉を濁して誰もいない屋根裏部屋の窓を見上げ、バタバタとその場を駆け去った。
そしてそのままグレイスを置き去りにし、マドレアの部屋へと駆け込んだ。バタン、と乱暴にドアを開けるとドレッサーに向かうマドレアの姿があった。
「あら、どうしたの? ルビー」
いきなり入ってきたルビーに驚くこともなく、マドレアは白いイスを引いて振り向いた。新作の化粧品を試していたのだろう、ドレッサーに化粧道具一式を広げている。
彼女はルビーが顔を真っ赤にしているのを見た瞬間、眉根を寄せて腰を浮かせた。
「何かあったのね? 取り敢えず、落ち着きなさいよ」
「マドレアに言われたく……」
言葉は最後まで続かず、ボロリと大粒の涙が零れた。
マドレアはオロオロと慌て出す。泣いているルビーの前まで飛んできて背中をさすってくれる。
「ルビーっ? 一体どうしたってのよ! あ……あいつが何かやったのね? 任せときなさい! あたしがとっちめて――」
「違うの」
ルビーはギュッとマドレアの服の裾を掴んだ。握りしめる手が小刻みに震える。
「グレイ……ワエブ伯の……」
必死に絞り出す声をマドレアは上手く拾い上げてくれた。マドレアの顔がさっと青ざめる。
「あんた、訊いたの?」
囁くように尋ねられたルビーは涙を流しながら首肯した。
沈黙が舞い降りる。
「ごめんなさい」
ポツリとマドレアが洩らした。彼女の目にも薄っすら涙が光っている。
「言おう言おうと思ってたんだけど……せっかく黒猫の死から立ち直ったあんたに、あいつはワエブ伯の息子だなんて言えなかったの。もう、あんたの傷付く顔みたくなかったから。でも……もっと、早く言っておけばよかった。あたし、あんたを傷付けてばかりね」
そんなことはないという思いを込めてルビーは首を横に振った。マドレアはいつでもルビーのことを考えてくれている。雇用先のお嬢様と使用人という枠組みを越えた友情が二人の間には存在する。
マドレアはルビーをきつく抱きしめる。高級化粧品の人工的な香りが鼻を掠めた。マドレアの優しさに甘えてルビーは瞑目した。
幼い頃の記憶なので今となってはあやふやだが、いつもと変わらぬ昼下がりに見知らぬ男達がルビーの家へ押し入ってきたことは鮮明に覚えている。唐突に全てを失ったルビー一家は、ワエブ伯の『温情』でヘンバールの町から追放されるという最悪の事態を免れ、うらぶれた小屋に住まうこととなった。
ワエブ伯が本当にルビーの父親の失脚を画策したのか……真相はわからない。長い年月を経てそれは風化した過去となってしまった。当時はジャーナリストや住民達がワエブ伯の尻尾を掴んでやると息巻いていたものだが、いまや誰一人としてそのことについて調べようとする者はいない。旬を過ぎた悲劇はだんだんと忘れられるものだ。
父親が懇意にしていた商人はワエブ伯とも強い繋がりがあった。それだけは揺るぎない真実である。
ワエブ伯がルビー一家没落の元凶というのはただの憶測でしかない。
しかし、今日までルビーはそうだと信じてきた。これからもそう信じて生きていくつもりだった。
別に仕返しをしたいわけではなく、ただそんな出来事があった上で今の暮らしがあるのだと認識するためにそう思っていた。
憎しみや妬みなどないと、思っていた。
なのに――――。
ルビーは瞼を擦ってしゃくり上げる。
ワエブ伯の息子であるグレイス。
彼は悪くない。たまたま伯爵の息子として生を受け、ルビーの前に現れただけ。
しかし、ルビーの心は激しい感情で満たされていた。長年親の仇敵として考えていた伯爵の息子。とても妬ましく憎らしい。
もう、自分としては慣れたつもりでいた。父が領主だったのは昔のことで、今はヘンバールの町で一介の農夫をしている、と。理解できたつもりでいた。
グレイスは何も知らないのだろう。だからこそ、心からルビーと仲良くなりたいという気持ちを滲み出している。もし、知った上で仲良くしているのならば、とんだペテン師だ。
ルビーはマドレアを、これでもかというくらい強く抱きしめた。
どこまでも不器用で、優しい青年。そんなグレイスを憎むなんて、妬むなんて、お門違いもいいところだ。
彼は悪くない。彼は、悪くないのだ。
そう自分に言い聞かせる。