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淡い風が町全体を包み込んでいた。緩やかにやって来た初夏のにおいは、人々を元気にさせる。
そんな町の一角。広大な敷地面積を誇るグラン邸の庭で、二人の男女が談笑していた。
スラリとした長身の男性は、黒ダイアの如く艶やかな髪を靡かせ、美しい琥珀色の切れ長な瞳を綻ばせている。対する小柄の女性は、プラチナブロンドの肩で揃えた髪を揺らし、悪戯好きな少女のようなチャコールグレーの瞳を細めている。二人とも、口元には微笑を浮かべていた。
「それで、この花びらは絹の触り心地をイメージしていて……」
「うんうん」
「…………君は、クチナシの花を知っているか?」
「知らないわ。教えて、グレイ」
「とてもふくよかな香りがする花なんだ。この薔薇を改良するにあたって、クチナシに近いような――――」
「はいはい、ルビー! 今は仕事中でしょ? お喋りしないの!」
豚鼻を大きく膨らませて不機嫌さを丸だしにした女――マドレアが、パンパンと手を叩きながら男女の間に割って入ってきた。
彼女はズイッと青年を睨みつける。
「この子はあんたの使用人じゃないのよ。グラン家の使用人なのっ。お願いだから、この子の仕事の邪魔をしないでくれる?」
「俺が見た限り、彼女は休憩中だと思ったのだが?」
マドレアと青年の間に、バチバチと見えない火花が散る。
ルビーは青年に突っかかるマドレアを尻目に、青年が持ってきてくれた薔薇の花束に顔を埋めた。上質な絹の肌触りをした薔薇の花びらが、ルビーの頬をくすぐる。
マドレアがこうしてルビーとグレイの邪魔をする理由は明白だ。マドレアは最近、恋人だったロイと別れた。結婚を意識していた彼女は荒れに荒れた。別れの原因になったのは、ロイの浮気だったらしい。
そうこうしているうちに、マドレアはグレイを玄関外へ追い出すことに成功したようだ。グレイは肩を竦めてルビーに小さく手を振ってくる。ルビーはそれに応えた。
「全く……この半年、毎日毎日飽きもせず」
額に光る汗を拭いつつ、マドレアは毒づいた。
「あら、でも彼のおかげで最近楽しいわ。庭の薔薇園の手入れも手伝ってくれるし」
「フン、あたしは全く楽しくない」
ルビーの言葉を全否定し、マドレアは片眉を上げた。
ルビーが雇われているグラン家の一人娘であるマドレアは、お嬢様の威厳もしとやかさも何も感じさせない。
マドレアはルビーにとって、雇い主の娘である以前に大切な友達である。そんなマドレアと、半年前に偶然知り合った青年――グレイはかなり仲が悪い。まるで、マドレアと黒猫・グレイの攻防を再現しているようだった。
「ところで、あんた……あいつの素性、知ってるわけ?」
ふとマドレアが訊いてきた。
「素性? …………グレイという愛称だってことは知ってるけど……」
そう言ってルビーは小首を傾げる。言われてみると、頻繁に会っているわりに、グレイのことを何一つ知らない。
どこに住んでいて、どんな仕事をしていて、家はどの階級にあるのか。
気にしたこともなかった。
ルビーの様子にマドレアは大きく溜め息を吐く。
「……そう」
マドレアは歯切れ悪く呟いた。
ルビーは顎に手を当てて考え込む。
普通ならば、気になるはずだ。友達でなく、知人だとしても――本名さえも尋ねないことなど有り得ない。しかし、グレイに対してはその確認作業をしなかった。何故か、ずっと前からよく知る者のような気がしていたからである。
皮肉にも、ルビーが飼っていた黒猫と同じ愛称を持っていることは教えてもらった。
グレイ。
その愛称だけ教えてもらったことで満足していた。ルビーも、グレイにフルネームを教えたことはない。二人とも、会えば薔薇の話や日常の会話、どこそこの店に美味しいお菓子があるなどの他愛ないことしか口にしなかった。自分達のことなど、話題にさえ上らない。二人でいると、もっともっと近況を語らねばという気になってしまうのだ。
「でも、素性なんて関係ないわ。彼とはいい友達だもの。一緒にいたらホッとするし」
ルビーはにっこりと笑った。
彼がどこの貴族だろうが、貧困階級だろうが(その可能性は限りなく皆無に等しいが)、友達であることをやめるつもりはない。
マドレアは神妙な顔で上目遣いにルビーを見た。
「あたしは……あいつとおススメしないわ。知り合い止まりなら、別にいいけど」
「その言い方はないんじゃないの?」
棘のある物言いに、ルビーは眉根を寄せてマドレアに食って掛かった。
マドレアは目を細めて空を仰いだ。空はどこまでも、深く青い。
「ああ……あんた達がこんなに仲良くなるとわかってたら、最初から妨害してたのに!」
「何よそれ」
空に向かって大声で嘆くマドレアをルビーは半眼で見つめる。
馬鹿にしたのが伝わったのだろうか。マドレアはルビーを睨みつけ、ビシッと指差した。
「今なら間に合うわ。あいつと仲良くするのはやめなさい」
「いや」
一も二もなく即答した。
自分があの悲しい別れ――黒猫・グレイとの別れ――から立ち直ろうと努力出来たのは、彼がいたからだとルビーはちゃんと理解していた。
もちろん、彼だけではない。
マドレアも、ルビーが知る全ての人々のおかげで今のルビーがいる。
その誰もが大切な人で。
今更、せっかく仲良くなったグレイと縁を切るなんて考えられなかった。
「…………そう、よね。わかった。もう言わないわ」
らしくない大人びた表情をして、マドレアは歯切れ悪く言った。ルビーをやっかんで言ったようには見えなかった。ただただ、ルビーを心配しているように見えた。
グレイの本名も、住んでいるところも、ちっとも気になっていなかったルビーだったが、意味深なマドレアの様子に段々と気になりだしてしまった。
次に機会があれば、訊いてみようと心の中でルビーは思いを固める。
彼女の抱いていた薔薇の花束が、風に吹かれて花びらを散らした。