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青薔薇の恋  作者: 藍村 泰
孤独の終
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「何さ! いいよ、こんな邸……出て行ってやる!」

 金切り声でルビーは叫び、カバン片手にドアを乱暴に閉めた。彼女は肩をいからせ、大股で闊歩して邸の門を押す。

 月の光が眩しい夜だった。いつもなら空に散らばっている星は、異様な程に膨らんだ満月に圧されて姿をくらましている。どこかで猫が鳴いていた。

 ルビーは重い門を閉めつつ、満月を睨めつける。

(ふん、マドレアに良く似た月だこと。丸々と太って、まるでカボチャみたいだわ)

 邸を飛び出す原因を作った、家主の一人娘であるマドレアの豚鼻が意地悪そうに膨らんだ様を思い出し、ルビーは歯噛みした。

 ――五年。

 よくもまあ、そんなに長い間あの邸宅で我慢出来たものだ、と我ながら思う。

 朝から晩まで死ぬ程こき使われて、仕事を終えてようやく屋根裏部屋に帰ってみたら、ベッド上にはたくさんの蛙がダンスしていた。

 何度、悲鳴を上げたことだろう。犯人がマドレアだということは疑いようがない事実だった。そして、彼女の両親はそれを見て見ぬふりをして黙殺した。

 ルビーは拳を握り、薄汚れた革製の靴を大仰に鳴らしながら歩き出す。

 昔は良かった。この町からそう遠くはない、小さなヘンバールの町でルビーの父親が領主をやっていた頃は、至れり尽くせりな何不自由ない生活を送っていたのだ。

『私、大きくなったらこの絵本に出てくるお姫さまみたいに、困っている人へこっそり贈り物をするわ。ねえ、お父さま。皆が笑顔でいられることこそ、幸せよね』

 思い出しただけでも腹が立った。あの頃の自分に会うことが出来るなら、ルビーは勢いよく夢見る少女の幼い幻想を打ち砕くだろう。現実は物語のように生半可でない。

 父親が領主の座を引きずり降ろされたのは十年前――純真無垢な少女だったルビーがまだ七つの時だった。突然、大柄の男達がルビーの住んでいた邸宅に押し入って来たかと思ったら、調度品や生活用品など残らず持って行ってしまったのだ。わけが分からず泣くルビーを両親は沈痛の眼差しで見つめていた。

 それからしばらくののち、ルビー達一家は邸宅から居を移した。町の外れにある汚らしい小屋だった。空き家となって久しかったようで、埃や蜘蛛の巣で覆われており、湿ったにおいが充満していた。

 いつも小奇麗な洋服を着ていた父親は、野良作業着に身を包んで畑を耕し、動物を育てるようになった。毎夜パーティーやら何やらで色とりどりのドレスを着込み、笑顔を振りまいていた母親も、近所の人々から古びた洋服をもらい、それを身につけていた。ルビーのオーダーメイドで作られたお気に入りの若葉色したワンピースは売り払われ、薄汚いクリーム色をした、時代錯誤な型のワンピースを着せられた。

 贅沢な暮らしから一転、底辺の暮らしを味わうことになった衝撃は幼心に重かったが、何より嫌だったのは周囲の変化だった。ちょっと前まで父親の親友だと自ら公言していた男爵は、これ見よがしに馬車を小屋前に止めて、畑仕事に精を出す父親を抱きしめて、『君達一家のことが心配で、夜もおちおち眠れない』と言いつつ、自らが指揮して掘り当てた鉱山が大当たりしたやら、娘が伯爵に見そめられて王都へ行ったやら、自慢話ばかりだった。まるで、今のお前にはそんなこと夢のまた夢だろうがなと言っているように聞こえた。そして、一しきり話し終えて満足すると、軽やかな足取りで去って行くのだ。

 男爵はまだ良かった。彼は決してルビー達を救おうとはしなかったが、貶めもしなかったから。

 酷かったのは、母親といつも行動を共にしていた貴婦人達だった。ルビーと母親が町中を歩いて買い出ししていると、彼女達は豪奢なドレスを着てどこからともなく現れる。扇を口許に当て、

『まあ、あれ程麗しかった社交界の花が今やこの様。目も当てられないわね』

『そんなこと言うのは失礼よ。あれは最先端の衣装なのではなくて?』

『いやだわ。あんな粗末な服が流行することになったら、わたくしきっと卒倒するわ』

と好き放題に言って笑い合う。

 母親は反論しなかったが、小屋に戻るといつも泣いていた。

 みじめだった。ひもじかった。

 食べる物さえろくになく、近所の人に頭を下げて野菜の皮や固くなったパンを貰って回った。まるで乞食だと嘲笑されたこともあったが、ルビー達は何と言われようと食べ物を分けてもらい、食い繋いだ。

 何故、自分達がこんな憂き目に合っているのか当初ルビーにはわからなかったが、大きくなるにつれて状況が呑み込めてきた。

 ルビーの父親は実体のない儲け話に乗って、全財産を失ったのだ。流行していた鉱山の発見話だったらしい。

 父親は親交の深かった商人がもたらした話を信じ、全てを賭けて鉱山発見へ乗り出した。しかし、いっこうに鉱山は見つからず。父親に大ボラを吹いた商人は忽然と姿を消し、あとに残ったのは莫大な借金だけだった。

 商人を使って父親を貶めた黒幕は、現領主のワエブ伯爵だというのがもっぱらの噂だったが、噂の真偽は定かでない。

 何はともあれ、ルビーの人生は滑り出した。

 十二歳になると同時に、大きな町へ奉公に出されることになり、ルビーは先程怒りに任せて飛び出したグラン家へ雇われた。父親の知古であるグラン家の当主は最初こそルビーの境遇を不憫に思ってくれていたようだが、一人娘のマドレアが、ルビーのことが気に入らないと喚き出すなり、にべもなく彼女側へついた。当然だろう、とルビーは当主の行動を客観的に見ていた。誰だって、他人の子より我が子がかわいい。夫人は子供同士のいさかいだと気にも止めていなかった。

 マドレアは、ルビーが彼女を視界に入れようとしないことに腹を立てていたようだった。

『あんた、ちょっとかわいいからって生意気よ。あたしのこと、まるまる太った嫌な子とでも思ってるんでしょっ』

 そう何度も喚かれたことがある。

 真実は違った。ルビーがマドレアを視界に入れようとしなかったのは、幸せそうに暖かなベッドで就寝し、何もかも与えられている彼女が昔の自分と重なって見えたからだった。

 ルビーの思考はすさんでいた。自分の持っていないものを当たり前に保有しているマドレアが、妬ましかった。

 貧乏になったことで失ったものは、財産だけではない。純粋な心もまた、失った。

 おとぎ話や絵本の世界に出てくる主人公は皆からひどい扱いを受けても信じる心を持ち続けるが、それは空想の世界だからこそ出来ること。

 嘲笑われ、汚物を見る目で向けられ、聞きたくもない罵詈雑言を浴びせられ続けた。

 屈辱はルビーの奥底に広がり、いつからかキラキラと輝いていたチャコールグレイの双眸からは光が掻き消えた。

 金銭的に満たされた者達には他人に心を配る余裕があるだろうが、貧困に喘ぐ者達には余裕などない。些細なことでも敏感に反応してしまう。

 今夜のことだって、本当なら我慢しなければいけなかった。しかし、マドレアが口にした言葉は、ルビーの中で禁忌としている言葉だった。ルビーはどうしてもマドレアに言葉を取り消してもらおうと口答えしたが、それが気に障ったのか彼女はルビーの頬を強く打ち、倒れたルビーを何度も足で蹴った。

『何度だって言ってやる! あんたの親は能なし、金なしの没落領主!』

 カッと頭に血が上った。ルビーは五年間の怨みを込めてマドレアと取っ組み合いの喧嘩をした。それを止めに入る使用人達も容赦なく攻撃した。もとから張っているマドレアの頬がはち切れそうなくらいになったところで、ルビーは叩くのを止めた。マドレアは泣き声も上げられないのか、嗚咽を零していた。

 マドレアの涙を見た瞬間、頭に上った血液が下降する。後悔はなかった。

 ルビーはすっくと立ち上がると、屋根裏部屋へ駆け込んで手提げカバンに僅かばかりの荷物を詰め込む。そして、非難の声を上げる家主に担架を切って、邸を飛び出したというわけだ。

『耐えなさい、ルビー。今こんな辛い目に合っているのは王子さまがもうすぐ迎えに来てくれるからなの。うん、きっとそうだわ。王子さまは言うの。一緒に暮らそう。もちろん、君の両親も一緒にって』

 自らに言い聞かせるいじらしい声が、ルビーの頭に木霊する。胸がズキリと痛んだ。

 信じていたのに、何も状況は変わらなかった。

『さあ、こうしてはいられないわ。せめて、王子さまと会った時に恥ずかしくないように靴を磨かなくちゃ。お母さま、知っていて? 綺麗な靴は幸せを運んでくれるのよ』

 ルビーは履き古した靴に目を落とし、冷笑した。

 あの頃のルビーはもういない。

 忘れてしまった。幸せな記憶は全て、どこかで落としてしまった。辛いことだけがルビーの心にとどまり、じくじくと膿む。

 ルビーは見おさめとばかりに五年の月日を過ごした邸宅を振り返り、舌を突き出した。

 足早にその場から去る。誰も追いかけて来ない。それはそうだ。使用人など代わりはごまんといるだろう。

 しばらくの間、真っ直ぐ突き進んでいたルビーの胸に、ふと、空しさが吹き抜けた。

「――――私、どこに行けばいいの?」

 呟く言葉を乾いた風が拾い、空に舞う。

 どこにも居場所はない。生まれた町へ戻ったところで、両親のお荷物になるだけだ。二人は切迫した暮らしの中に身を置いている。ルビーが出戻ったところで困り果てるのは目に見えていた。

 新しく雇ってもらえるところを探すにも、この町には人が溢れ返っており、すぐに働き口を見つけることは不可能に近い。ルビーは道端に座り込んで体を丸めた。

 考えれば考えるほど、ルビーは無力過ぎた。男のように力仕事が出来るわけでもなく、要領がいいかと言われば何とも言えない。グラン家の使用人として働けたのだって、彼女自身の能力ではなく父親が家主と知古だったからだった。

 上目づかいで空を仰いだ。満月さえルビーを嘲っているように思える。

「ああ、世知辛い世の中だこと」

 皮肉げに言い、腰を上げたルビーは動きを止めた。芳醇な香りが漂ってきたのだ。

 何の匂いだろうと不思議に思って鼻をひくつかせ、右側を向いた。

 ルビーはポカンと口を開ける。手からカバンを取り落とした。

 そこには立派な館があった。慌ててカバンを拾って胸に抱いたが、目を点にしたまま広大な敷地に佇む館から目を剥がせずにいた。

 あまりこの辺りの通りに足を踏み入れたことはなかったが、まさかこんな館があるとは思ってもみなかった。

 門は開いている。そっと中を覗くと、館の裏手には花園が広がっているようだった。青く薄く発光している花園はとても幻想的で、こっちにおいでとルビーを甘く誘惑する。ルビーの目が、花園から館の端に立っている木に移行した。

 喉が鳴った。

 月明かりの下で煌々と輝いているのは、艶めいた林檎だった。

(そう言えば、今日何も食べてないや)

 朝日が昇って夜鳥が囁くまで働き詰めのルビーが食事を摂れるのは、夕食時くらいだった。しかし、今日は食事が始まる前に家を飛び出してしまったため、何も食べていない。

 情けなくもルビーの体は空腹を訴えてくる。

 ルビーは豪華な館と林檎の木、周囲へ目を配った。そして、誰もいないのを確認して物音を立てないよう注意して門をくぐった。貴族の館だろうか。

 見つかれば、ただですまないことはわかっている。それでも、どうしても林檎が食べたかった。いや、そうではない。何故か、この館へ入りたいと思ってしまった。

 いつもなら絶対にしない無謀な行動。自暴自棄を起こしたためかは自分でもわからなかった。






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