16
意識しなくとも足は勝手に動く。
隣町に買い物に行ったり、マドレアを学校へ迎えに行ったりとルビーは常日頃から町を歩き回っていた。なので、あの道はここに繋がっていて、この道を使えば近道に……なんてこと、考えるまでもなく身に刻まれている。
本当に気が進まない。なのに、重い心とは裏腹に足は軽やかに動く。
胸に抱いた猫の体温だけがルビーの挫けそうな心を支えてくれていた。
グラン邸が見えてきた。そこそこ大きな邸宅なのだが、ブルーローズの屋敷を知ってしまったため、小さく感じる。
ルビーは唾を呑み込むと、重い門を押して中へ滑り込んだ。そして、首を引っ込めながら申し訳なさそうにドアノブを回す。
こんな深夜に起きている者はいないだろうと踏んでいたルビーの予測は、呆気なく外れた。わっとメイドが駆け寄ってくる。皆、目の下に、化粧では隠せないくらい青黒いクマをこしらえていた。
「ルビー、あんた一体どこに行ってたの! 皆心配して探し回ったんだから! ご夫人なんて警察に捜索依頼まで出したのよ!」
「ああ、顔がげっそりしてるじゃないかっ。さあ、温かいスープでも作るから上がりな」
メイド達の大声に、執事や男達も集まって来て、ルビーを取り囲む。
「え……そんな大事に……?」
ルビーは若干引き気味になりながら、ぎらついた目のメイド達を見回した。
「当たり前じゃない! いなくなって一ヶ月も経ってるんだから!」
ああ、そう言えばそんなに経っていたなとルビーはメイド達からガミガミ怒られながらも、他人事のように聞き流す。
ふと、玄関口から真正面にある階段を下る、大きな足音がした。
ルビーは唇を引き結んだ。
階段を下りて来たのはマドレアだった。彼女は寝巻のまま、ファー付きのスリッパを履いて現れた。ルビーの記憶にあるのと全く変わらない大柄な少女は、ゆっくりと近づいてきた。
「どいて」
マドレアは使用人達を押しのけると、ルビーの前に立った。
玄関口が、しんとなる。先程まで九官鳥の如く騒いでいたメイド達も黙り込んだ。
マドレアはルビーの顔をじっと見つめている。ルビーを小馬鹿にした皮肉げな笑みは浮かんでいない。
「……マドレア」
ルビーは硬い表情で彼女の名前を呼んだ。
ぴくりとマドレアの肩が揺れる。彼女は口をへの字に曲げたまま、何も言わない。
ルビーは気が挫けてしまいそうになったが、それをぐっと堪えて勢い良く頭を下げた。その場にいた者達は目を剥く。
「殴ってごめんなさい。私、あんたが羨ましかった。私がなくしたもの全て持ってるあんたが羨ましかったの。悔しさに任せて殴っちゃった。本当に、ごめんなさい」
誠心誠意込めて謝罪した。マドレアの頬がパンパンに膨らんでいたのを思い出し、苦い気持ちが込み上げてくる。ルビーは、人を殴ることに快感を覚えるような類の人間ではない。
沈黙が続く。
その間に我慢出来なくなり、そっと上目遣いでマドレアを見たルビーはギョッとする。
マドレアは鼻水垂らして泣いていた。豚鼻が大きく膨らむ。
傍にいたメイドが慌ててハンカチを取り出して拭おうとするが、マドレアはそれを嫌がった。彼女は自分の腕で涙を拭った。しかし、拭った先から涙や鼻水はまた零れてくる。
「あ、あたしこそ……ご、ご、ごめん、ね」
大泣きしているマドレアがつっかえながら洩らした謝罪の言葉に、ルビーは茫然とした。
泣きじゃくりながら彼女は言葉を続ける。
「ほんとは、あたし……ルビーと、仲良くなりたかったの。でも、あんたいっつも仏頂面をして、あたしに話しかけてもくれないから……嫌われてるんだって……。でも、だからってあんたのご両親をあんな風に言うのは良くなかったと、思う。ごめんね、ごめん。傷付いたよね。お父さまやお母さまにも事情を話したら、とても叱られたわ。お前が悪いって」
「マドレア……」
ルビーは自分がマドレアに対して取って来た態度を激しく後悔した。
マドレアだって、冷たくされたら傷付く。ルビーと一緒だ。
なのに、ルビーは自分のことは棚に上げてマドレアを非難していたのだ。たしかに、蛙をベッドの中に忍ばせたり、両親のことを悪く言ったりしたマドレアの行為は許されるものではない。だが、原因はルビーにもあった。
ルビーは何と言えばいいかわからず、俯く。プラチナブロンドの直毛が顔にかかって鬱陶しい。
マドレアに引き続き、バタバタとグラン家当主と夫人もやって来た。彼らもまた、ろくに睡眠を摂らずにルビーを捜してくれていたらしい。
当主はルビーを抱きしめてくれた。
「すまんかった」
あえてそれだけ言った当主は実に男らしいとルビーは思う。
当主の横で、夫人が微笑む。
「明日にはあなたのご両親が邸にいらっしゃるわ。良かった……帰って来てくれて」
当主の抱擁から逃れてルビーは顔を夫人の方へ向ける。
「父さんと母さんが?」
「ええ。いなくなった一日後には手紙を出したんだけど、誰か代わりに農作物や家畜を見てくれる人を見つけたらすぐ行きます、と手紙が来ていたの。ちょうど昨日、一日二日中には邸に到着すると連絡が来たわ」
じわりとルビーの目に涙が浮かんだ。両親はきっと、歩いて来るつもりだ。ルビーのためだけに、仕事を放ったらかしにして、ここへ来てくれる。
「皆、ごめんなさい」
抱いていた黒猫が心配そうにルビーの指を舐めた。ルビーは黒猫に涙目で微笑んだ。喉を軽く掻いてやると、気持ちよさそうに猫は低く鳴いた。
グレイが言ったとおり、少し心を開けば居場所はこうもいとも簡単に出来た。
気付いていなかっただけで、こんなにも優しい人々にルビーは囲まれていたのだ。
◆
グラン家にルビーが帰って来た当初、ルビーの顔がげっそりしていたため大事を取って当主は医者を呼んだが、軽度の脱水症状を起こしているだけだった。当主も夫人もマドレアが安堵の溜め息を吐いている横で、ルビーはベッドに横たわり、申し訳なさすぎて縮こまっていた。
(あの一ヶ月間、私……あんまり物を食べてなかったなあ)
思い返してみても、グレイが持って来てくれた食糧はとても微弱なもので、とても食べ盛りの年代であるルビーには全く足りていなかった。
あの状況で暮らしていながらよく脱水症状だけで済んだものだと、ルビーは己の頑丈さに感心した。
翌夕、ルビーは両親と再会した。
二人とも泣いていた。特に母親は心配過ぎて食事もろくに喉を通らず、ルビーが見つからなかったら自殺しかねないくらい、錯乱していたという。
彼らはグラン家当主に招かれるまま居間のソファへ腰かけ、今どんな暮らしをしているかを聞かせてくれた。暮らしぶりは、ルビーが家を出た五年前とそんなに変わりなかった。細々と農業を営み、育てた農作物や家畜を人々に売る。今年は豊作だったから、例年よりも冬越えが楽そうだと父親はグラン家当主に笑ってみせる。
グラン家当主は、もっと自分を頼っていいんだぞと言ってくれたが、父親はきっぱりと首を横に振った。
「案外、農家の暮らしも楽しいものです」
そう言った父親の目に偽りはなかった。
日常は変わらない。ルビーはマドレアの使用人だし、給料をもらう身だ。
しかし、ルビーのことを皆が心配して見守ってくれているのを気付いたルビーは何も怖くなかったし、卑屈にもならなかった。
晴れ晴れとしたルビーの顔を見る度、グラン夫人は嬉しそうに話しかけてくれる。今日はどんな良いことがあったのと彼女はいつもルビーに問う。
ルビーは最近、日々の中で見つけた小さな幸せを周囲の人々へ聞かせることが多くなった。
ストリートの子供達が足の悪いおばあさんの代わりにパン屋の行列に並んでパンを買ってやっていたとか、メイドが飼っている犬が赤ちゃんを産んだとか、日常のちょっとした幸せに、ルビーは目を向けられるようになっていた。
それは昔、幼い頃のルビーがしていたのと同じ行動で。
あの頃と違うのは、現実と夢の区別がついたことぐらいだ。ルビーの本質は、何も変わってはいなかった。
一度開け放した心には、常に新鮮な風が入ってくる。
ルビーは幸せだった。
庭師やマドレアに頼み込んで、空き時間に庭の手入れも手伝うようになった。
マドレアは一緒に買い物に行ったり、お茶を飲んだりしたいと不服そうだったが、庭に薔薇を咲かせたいのだとこっそり打ち明けるとしぶしぶ許可をくれた。
「私が一ヶ月お世話になっていた館に薔薇園があったのよ。とても美しかったわ。ぜひ、マドレアに見せてあげたいと思って」
そう言うと、マドレアはまんざらでもなさそうに髪を指に巻いた。
「うーん。そこまで言うならしょうがないわね。お父さまとお母さまには、あたしが言っといてあげるから、薔薇園、作りなさいよ」
「ありがとう、マドレア!」
マドレアの手を取って喜ぶルビーを前にして、マドレアは眩しそうに目を細めた。
「あなた、変わったわ」
「そうかしら。でも、あなたも変わったわ」
言い返せばマドレアは笑った。ルビーも笑った。
◆
久々に雲が晴れた満月の夜が訪れた。透明な月光を浴び、ルビーは深く息を吸い込む。
屋根裏にあるルビーの部屋にある窓から手を伸ばせば、空に浮かぶ月も掴めそうな気がする。ルビーは窓のふちにしなだれかかる。そして、窓辺に置いた花瓶に挿した、一本の花を見つめる。
ノックの音がした。
「はーい」
間延びした返事をすると、マドレアが入って来る。彼女はルビーの屋根裏部屋が気に入ったようで、よく前触れもなく訪れる。
マドレアにちらりと目を配り、すぐにルビーは出窓の向こうにある月に視線を戻す。そんなルビーの横にマドレアが座った。
「何してるの?」
「マドレアこそ、どうしたの? もう眠る時間でしょうに」
「だって、眠れないんだもん」
マドレアは頬を膨らませた。ルビーは軽く相槌を打つ。
大方、マドレアは今学校で気になっている男の子のことで頭がいっぱいなのだ。彼のことを考えると夜も眠れなくなるのとこの前ここへ訪れた時マドレアは言っていた。
またマドレアの不毛な――彼女が好きになる人にはいつも恋人が存在する。要するに、見目が良い男の子がマドレアは大好きなのだ――恋の話を聞かなければならないのだろうかとルビーは身構える。
マドレアの注意がルビーから花瓶に向いた。
ふと、マドレアは感嘆の溜め息を吐く。
「いつ見ても、その花枯れてないわね。青薔薇なんて、あたし見たことなかったけど……とても綺麗だわ。ねえ、今日こそ教えなさいよ。どこに売っていたの?」
花瓶に飾った一輪の青薔薇を熱心にマドレアは見つめる。
「だから、売ってはいないって言ってるでしょ。見つけたの」
「そんなこと言って、あたしに内緒にするつもりなんでしょう」
「あら、もう酷いことしないって言ったじゃない。マドレアじゃあるまいし、綺麗なものを一人占めになんてしないわよ」
「ふん」
マドレアは面白くなさそうにルビーから目を離して出窓に肘をつき、青い薔薇を見つめる。それは、まるで恋する乙女のようだ。この色……彼の目の色に似ているわとマドレアはうわ言のように呟く。
あまりに強烈な視線だったので、青薔薇に穴が空くのではとルビーは気が気じゃなかった。
「すごいわ。ダイアモンドダストを散らしたみたいに輝いてるじゃない」
そう言って青薔薇をつつこうとするマドレアを、ルビーの足許で大人しく丸くなっていたはずの猫が肉球で弾いた。爪は出していない。
ルビーは慌てて黒猫を抱きしめる。すると、子猫は抗わずに嬉しそうにすり寄って来た。
マドレアはルビーが抱えている黒猫を見て目をぱちくりする。
猫が低い声で鳴いた。
「まあ、かわいくない」
鼻に皺を寄せてマドレアが口を尖らせた。
ルビーは声を立てて笑った。
マドレアは猫と睨み合っている。
「かわいいじゃない。ね、グレイ」
ルビーは黒猫に頬ずりし、猫の名前を呼んだ。猫は金目を瞑って笑顔のような表情を見せた。