15
「…………あーあ」
思わずルビーはそう呟き、肩を落とした。
五年間、住み慣れた町の風景の中に立っている自分がいる。
遠く空の彼方に輝く満月は白く、何も言わない。ルビーが先程まで見ていた迫りくる満月のはどこにもなかった。
ただ、夜空を飾る美しい満月が浮かんでいた。
左を向いても右を向いても、ルビーが一ヶ月間滞在した館はない。薔薇の芳しい香りもしない。
ルビーは右の掌をじっと見つめた。たしかにグレイと手を繋いでいた感触は残っているのに、ここに彼はいない。
空虚なルビーに追い打ちをかける如く木枯らしが吹きつける。
何だか、荒んだ気持ちがむくむくと湧いてきた。
夢のような、ブルーローズの館で過ごした時間は、目を瞑れば鮮明に思い出せる。
ブルーローズの顔にグレイの顔。
館の横に植えられ林檎の甘さと、館から離れた場所にある森の湖。
お腹が空いて死にそうな目に合った――正直、今もお腹が空いている――が、それと同じくらい良くしてもらった。
ルビーがグラン家で過ごした五年間の幸せ束ねてみても、ブルーローズの館で過ごした一ヶ月間の幸せには到底太刀打ち出来ない。
それくらい、あの館の住人であるブルーローズやグレイには良くしてもらった。
ブルーローズはルビーを殺そうとしていたが、それでも接する態度は常に優しく、温かみがあるものだったし、グレイも不器用ながらルビーと話してくれていた。
(…………はあ)
ブルーローズが言ったように、現実に帰っても苦しいだけだ。あのまま館で過ごしていた方が良かったのかもしれない。
このまま突っ立っていてもしょうがない、と目を開けた途端飛び込んできた満月は、何ら変わり映えなく。
あの館で過ごした日々は自分の願望が見せた夢だったのかもと一抹の不安を胸に抱いて、ルビーは下を向く。
「……あれ?」
違和感を覚える。グラン家を飛び出した時に持っていたはずのカバンがない。周囲を見渡してみても、ルビーのカバンはどこにもなかった。
理由は一つだ。
「そうだ。館に置いて来てしまったんだわ」
残念には思わなかった。
それはルビーがブルーローズの館に行ったことが――ブルーローズの館があったことが真実という証拠なのだから。
ルビーの顔に笑みが浮かぶ。
ルビーは、これからどこへ行こうか途方に暮れたが、ふとグレイの言葉を思い出す。彼の低い声が鮮明に蘇る。
『きっと、許してくれる』
ルビーは躊躇いながらも、振り返った。
(帰ろう。そして、一番にマドレアに謝ろう)
強く拳を握りしめた。
お前なんか要らないと叩き出された時のことは、その時になって考えることにする。
嫌な想像を膨らませながらルビーが夜の街並みの中、一歩踏み出そうとした時、「みゃあ」と、しげみの中から弱々しい鳴き声がした。
ルビーの鼓動が一気に跳ね上がる。
真夜中であるのも忘れて大きな音を立てて、鳴き声がしたしげみを掻き分けた。細い枝がルビーの肌を裂いたが構ってなどいられない。
ルビーはそこに丸まったものを見て目を見開き、次いで泣き出しそうになった。
黒猫の赤ん坊が一匹、低い声で鳴いていた。その子猫の体の上に、青薔薇が一輪乗っている。
ルビーは目じりを下げた。
黒猫に、そっと指先を差し出す。
「――おいで」
ルビーの声に反応して猫は目を開ける。
子猫の目は、金色だった。