14
花園の果てにある大きな満月は、ただ悠然とルビー達が走っているのを見下ろしていた。
二人はたゆむことなく走った。ずっと、永遠に続くかもと思わせる青薔薇の中を走った。
先程と違って青薔薇が行く手を阻むことはない。
「見えた……あそこだ」
先を行くグレイが指差す先に、大きな門がある。
ルビーが初めて目にしたのと同じ、黒光りする硬質な門だ。
まるで、現実とこの亜空間の境目をきっちりと分けるように、青薔薇の花園は門の周りだけ避けて途切れている。
門に辿り着く寸前、グレイはしゃがみ込んだ。
「グレイっ?」
背中を丸めて咳き込む彼の横に、ルビーは不安に目を揺らしながら座った。
グレイのこめかみからは多量の脂汗が噴き出している。彼は毒を飲んだのだ。こうして走ることで毒の回りが早くなっても不思議じゃない。
びゅっと頬を切る風が後ろから吹いたと思ったら、破裂音がそこらじゅうに轟いた。
雷鳴が鳴くような恐ろしい音にルビーは振り向き、そのまま硬直する。
館が……薔薇園が崩壊していく。地面が割れて宙へ浮き上がり、黒い空へ還っていく。
グレイはルビーの腕を強引に引っ張ると、門を顎でしゃくった。
「俺のことはいいから。ほら、行け」
「そんな、放っていけないわ。一緒に行きましょう」
せっかくここまで一緒に来たのだ。ルビーはグレイを説得しにかかった。
グレイは口の端を吊り上げて鼻を鳴らす。
「俺は、死んでるんだ。行けない」
「でも、このままだったら二度死ぬことになる! そうしたら天国に行けないんでしょっ?」
ブルーローズの言葉を、ルビーはしっかりと覚えていた。たしかにブルーローズはそう言った。
あの言葉が真実ならば、グレイは――。
「あれは……ブラウの狂言だ」
グレイの目が泳ぐ。金色の目が揺れた。
彼は嘘を吐いているとルビーは見破った。
グレイはこれまで、本当のことを話す時に決してルビーから目を離したりしなかった。
なのに、今のグレイは俯き、ルビーの方を見ようともしない。瞳の奥にある真実に勘づかれたくないのだろう。
ルビーはグレイを引っ張った。彼は頑なにその場を動こうとしない。
ルビーは幼い子がするように、泣き喚いて地団駄を踏みたくなった。
たしかに、グレイは既に死んでいる身かもしれない。しかし、今はルビーの目の前で喋って動いて考えている。これが生きていないというのか。
いや、彼は今、生きているのだ。それなら、ここでただ死が舞い降りるのを待つなんてことをせず、現実への扉をくぐって何とか生きようと足掻いたっていいじゃないか。
(ああ、神様)
ルビーはぐっと奥歯を噛みしめると、再びグレイを引っ張った。
その拍子に、ルビーが立っていた地面が大きく振動する。地表が裂けた。
ルビーは短い悲鳴を上げた。
裂け目に落ちそうになるルビーをグレイは手を伸ばして引き寄せると、彼はしっかりとルビーを抱きしめて横へ転がった。
素早く顔を上げたルビーは背筋が粟立つ。さっきまで自分が立っていたところにぽっかりと穴が開いていた。グレイの咄嗟の助けがなかったら、死んでいたに違いない。
ちりん、と鈴の音がした。
いつもグレイと一緒にいたら聴こえるその音には慣れている。
鈴の音はルビーの正面で聴こえた。自然、音のした方に注意を向けた。
ルビーの瞳孔が縮まる。
視線の先には、古ぼけた首輪が転がっていた。
「うっ」
グレイはルビーの目から首輪を隠そうと手を伸ばしたが、手が届かない。
「これ……」
ルビーはそっと首輪を拾い上げた。
ペールブルーの首輪の裏側には、ルビーの名が刻まれていた。
薄汚れている古い首輪。それをルビーは知っている。脳髄が痺れた。
ルビーが飼っていた猫のものだ。
黒猫をたまたま森の中で拾った後、ルビーは自分のお小遣いをはたいてこの首輪を買いに行った。雑貨屋の店主が気を利かせてルビーの名を首輪の裏側に彫ってくれたから、これがあの猫のものであるのは間違いない。
――黒猫、金色の目。
ルビーはグレイをまじまじと見つめた。
そう言えばグレイは、ここでは好きな年齢、姿かたちでいられると言っていた。それなら、グレイは……。
「あんた……あんた……」
グレイが静かに立ち上がると、ルビーの手から首輪を奪う。
ちりん、と高い音がした。
「あ……レイク」
ここに来てからルビーの涙腺は脆くなってしまった。ルビーは乱暴に目を擦る。しかし、涙は止まらない。
「……言うつもりはなかった」
グレイの低い声が耳に響く。
思い返せば、ルビーの飼っていた黒猫・レイクは低い声で鳴いていた。
グレイと初めて会った時、何故思い出せなかったのだろうと悔やまれる程、グレイとレイクは似通っている。
黒い毛に金色の目。ヘーゼルや緑色の目が多い黒猫にしては珍しい金目は悪戯好きな子供達にとって格好の餌食だった。
ルビーが黒猫・レイクを見つけた時、彼は子供達に木の棒で何度も叩かれたり蹴られたりしていた。それを止めに入ったルビーは、傷を負った黒猫を放って置けずに飼うことを決めたのだ。
「俺がレイクだと……ルビーには、言わずにいようと決めていた」
青薔薇が二人に舞い散る。
「……最初、ブルーから永遠にこの館でルビーと暮さないかと持ちかけられた時、加担した。だから、ドレッサーの鏡を割ったんだ。別にお前と一緒にいたいと思ったわけじゃない。どうでも良かった。……ブルーはルビーに執着していたけど、俺は正直お前なんかどうでもいいと思ってた」
「そう、なの?」
「ああ。俺は、お前に捨てられたんだと思い込んでたから。でも、どうしても……ルビーを見ていたら、殺すなんて…………無理だった」
切なげにグレイは微笑む。この表情を、ルビーは見たことがあった。ふとした瞬間、グレイはこういった胸が痛むくらい切ない顔をしていた。
「お前がこのまま死んで行くのを、見ていることは出来なかった」
グレイは俯く。長い前髪が彼の表情の一切を隠す。口許だけかろうじて見えた。
「ルビーを見ていると、懐かない俺を投げ出さずに相手してくれたことや、楽しかったことばかりを思い出してしまって。憎しみを上回る深い感謝の気持ちがわき上がって来たんだ」
「グレイ……」
「心ない人間に傷つけられた俺を家に連れて帰ってくれて、首輪をくれて、看病してくれて。挙句に名前までつけてくれた。『あなたの名前はレイク。私がよく行く森にある湖がね、ちょうど夕方になるとあなたの目みたいな色になるのよ』と。忌まれる黒猫に屈託ない笑顔を向けるお前が、最初は怖かった。こいつは善人ぶってるだけで、懐いた途端に俺を傷つけるんだと」
グレイの気持ちが、今のルビーには少しだけわかる。
ルビーもそうだった。地位がなくなった途端に掌を返す者達を目の当たりにし、人なんて信じられないと毛を逆立てて拒絶していた。
だんだん、辺りが青色に染まって行く。
数多の白い光が裂けた地面や夜空に浮かぶ。轟音は収束して行っていた。
「覚えているだろうか。最後の日、去り際にお前は俺に言ったんだ。『ちょっと待ってて』と。俺は待った。じっと、迎えを待ってた」
グレイの目に涙が光った。彼は無理矢理笑顔を作る。
「人なんて嫌いだと思っていたはずなのに、なんでだろうな。その時には、ルビーだけは信じても大丈夫だと思うようになっていたから。だから余計、裏切られたんだと思った時は絶望した。異端尋問官に爪を剥がされた時の恐怖や落胆は、今も肌に刻まれてる」
ルビーは顔も知らない異端尋問官に怒りがわいた。もし、それが誰だかわかるならグレイと同じ目に合わせて殺してやりたいとさえ思った。
『ルビー、なんで――逃げた』
この館に来て初めて顔を合わせた時、彼から漏れたあの言葉は、ルビーがわざとグレイを置いて行ったと思われていたからこその言葉だったのだ。ここに至ってようやく、あの言葉の真意がわかる。
でも、とグレイは呟いた。
「ルビーは言ってくれたから。もしも、その猫を見つけたら連れて帰ったと」
グレイは少しだけ表情を和らげる。
「だから、俺は絶対にお前をここから出してやるって決めたんだ」
真実を知った時、グレイの魂はこの花園から解放されたのだ。
グレイは今までみたこともないような心からの笑みを見せた。
彼の手がルビーの背を押す。
名残惜しくてルビーはグレイの手袋をはめた手を取る。
「一緒に来て」
無理だとわかっていながら口にした。
「大丈夫、ルビーのことは絶対に見守っているから」
「そう言って、期待させて嘘を吐くんだ!」
ルビーは叫んだ。
空間の崩壊は止まらない。大きな音はしなくなったが、薔薇園の半分以上が地上ではなく宙に浮かんでいる。重力も何もあったものではない。
「嘘なんか吐くもんか。俺は正直者だ、ほら、早く」
崩壊は間近に迫っている。
ぐっとルビーは涙を拭って、強引にグレイの右腕を自らの肩に乗せた。
「……ルビー……」
咎めるような口調で名前を呼ばれたが、ルビーは知らないふりをして門を目指した。門の向こうには何も存在しない。虚ろな灰色の世界が広がっている。
「連れてくわ。言ったじゃない、見つけたら連れて帰るって」
グレイは諦めたようにルビーの肩に凭れて、瞼を伏せた。
ルビーは自分より重いグレイの体を引きずりながら、門をくぐった。