10
湖のほとりで、ルビーとグレイは夜風を浴びていた。ここへ来てから随分時間が経過している。来た時はルビーから見て空の斜め上にあった月が、真上にある。
二人共、何も喋らず白猫を撫でていた。ルビーとグレイは、白猫を挟んで横に座っている。
白猫は突然、鳴き声を上げると森に走って行った。気まずい空気が流れる。その流れを断ち切るように、グレイが口火を切った。
「この場所は、あの世とこの世の狭間にある。もともとこの場所はブルーが造り出した。だから、あいつが望めばどんなことも自由自在だ。だから、ルビーが入って来た門が移動したっていうのも、大方ブルーが幻覚を見せたんだろうな。まあ、最も……門をくぐったところで外には行けないんだが」
落ち着いた口調でグレイは述べる。
口調と裏腹に、重大なことを言ってのけるグレイにルビーはのけぞった。
「…………ということは、私……死んじゃったってこと?」
「どうしてそうなる」
グレイは呆れたように言った。
「死んでいるのは俺やブルー。お前はただ迷い込んだだけ」
「――あんたも、死んでるんだ」
少しだけルビーは残念に思う。何故だか悲しくなった。
俯いているルビーの気持ちに気付くことなくグレイは頷く。
「随分前に」
「そっか」
二人共、無言になる。
ルビーはその間が嫌で、口を開いて言葉を探した。
「えーと……その、グレイは何歳なの?」
グレイはそう訊かれると思っていなかったのか、金色の目を瞬かせる。そして、ふいと視線をずらした。
「さあ……いくつだったか……。ここでは自分の思う年齢、思う姿かたちを取れるから」
風に湖の水面が漣立った。
ルビーは立ち上がり、自らの気持ちを持ち上げるように空を仰ぐ。
「ねえグレイ。私、このまま死んでも別にいいや」
ここで死ぬのだと理解したルビーは、投げやりに口にした。
ブルーローズがルビーをここから出そうとせず、殺そうとしているのならばその先にあるのは死しかない。
グレイは黙ったまま揺れる水面を見ている。
ルビーは努めて明るい口調で続けた。
「元の世界に戻ったところで、私、帰る場所ないもの」
「帰る場所が、ない?」
グレイの柳眉が跳ねる。
「うん」
ルビーは寂しさに潰されそうになる。
「雇われてたグラン家からは自分から啖呵切って飛び出しちゃったし、父さんや母さんのところへ戻っても、二人の生活を苦しめるだけ」
「……ご両親は、ルビーが死ぬことこそ苦しむと思う」
ルビーは何も言わずに館のある方角を向いた。
「一時だけよ。そして、忘れる。どんな悲しみも歳月が癒してくれるもの」
悟ったような口ぶりでルビーは言った。言ったのは自分なのに、空しくなる。だが、それが真実だ。どんな辛いことでも結局人は忘れる。どんなに大切な思い出でも忘れてしまうのだ。
「雇われていた邸を飛び出したのは、どうしてなんだ?」
「マドレア――グラン家の一人娘なんだけど――その子に両親のことを悪し様に言われて。ついカッとなっちゃって、取っ組み合いの喧嘩したのよ。そうしたら、当主にひどく立腹されちゃってね。もともと父さんの知人だったから我慢してたんだけど、どうしても怒りがおさまらなくて」
「……マドレアを殴ったのか?」
問われて、ルビーは力こぶを作ってみせる。そして不敵に微笑んだ。
「殴ったわ」
自信を持って言ったルビーにグレイは諫言することなく、真摯な瞳でまた訊いてきた。
「後悔してるか?」
その言葉にルビーはしばし思案し、首を横に振った。
「あの子の仕打ちは前からひどかった。そんな子供を放置する当主や夫人にも相当頭にきてたから、殴ったことには後悔してない。でも――」
ルビーは言葉を切って、マドレアを殴った時の様子を思い返し、親指の爪を噛んだ。
「でも、ちゃんと謝れば良かったとは思う。マドレアの顔、二倍くらいに膨らんでた」
そうか、と言ってグレイはルビーの頭を撫でた。
彼は、ルビーがマドレアに何を言われたかを訊こうとはしなかった。
「グラン家の人々も、今は後悔してると思う」
「そんなこと……ない。あの人達は――」
「誰だって心を開いていない者に心を開こうとはしない」
ルビーは目を見張る。
グレイの目は射抜くようにルビーを見る。
「マドレアに対して、素直な感情をぶつけたことは?」
「……ない」
ルビーは目を逸らし続けてきた。マドレア達一家を見て、自分の没落具合に愕然としてしまわないように。必死で感情を押し殺して接してきた。
「だったらなおさら、向こうも意地になっていたんじゃないのか。もしかしたら、ルビーと色んな話をしたかったのかもしれない」
「そんな、都合の良いことありえっこないわ」
「当主だって、知人の娘ということでルビーを雇ってくれていたんだろう。今の世の中、他人のことを面倒見ようとしてくれる人は少ない。よほど使用人としての能力が高かったなら誰だって喜んで雇うだろうが、ルビーは平凡だ」
「悪かったわね、平凡で」
図星だった。グレイの言うとおり、ルビーはそんなに出来の良い使用人とは言えない。
使い物にならないわけではないが、使えるとも言い難い。本当に、どこにでもいる娘なのである。
段々、ルビーはグラン家の人々に対して自分が取っていた態度を思い出してきた。
憐れみの目線をもらえば冷たい目で返し、労りの言葉をもらえば冷たい言葉で拒絶していた。もちろん、当主や夫人、マドレアには丁寧な言葉を使っていたものの、表情は常に冷たかっただろう。
顔から火が出る思いだった。
「私、馬鹿だわ」
ぽつりとルビーは零した。
「自分ばかりが可哀想と思ってた」
「…………」
グレイは微笑んだ。その微笑は少しの悲しみと苦しみが感じられるもので。彼がとても辛い経験を越えてここに至っているのだとわかる。
グレイは不思議な少年だ。
厭味な感じなど一切なく、こうしてルビーの心の捻じれを戻してくれる。
「馬鹿じゃないさ」
グレイは低く厳かな声で言った。
「ルビーはちゃんとわかってる。喧嘩したら謝らなくてはいけないことも、他人の厚意を無碍にしてはいけないということも」
ルビーは慌てて首を大きく左右に振った。グレイからもらった花の首飾りが少し崩れた。
「私はそんな出来た人間じゃない」
「そう思い込んでるだけだ。たくさん、辛い目にあったから、きっと信じることに憶病になってしまっているだけ」
グレイは断言した。彼は手を組んで、優しい眼差しでルビーを見つめる。
「きっと、許してくれる」
ルビーは雇われていたグラン家の様子を脳裏に浮かべる。
「そうかしら」
「ああ。……帰って、ちゃんと謝るんだ。そうすれば、マドレアだって真意を話してくれる。ルビーが踏み出せば、温かな居場所が出来る」
虫の良い話に思えた。あのグラン家の人々が自分を受け入れるというのか。臆病なルビーは頷けずにいた。
迷うルビーを前にして、グレイはずっと外すことのなかった手袋を外した。黒い手袋が取り払われると、何の変哲もない手が出てくる。
しかし、ルビーは眉をひそめた。何かが足りないように思えた。
じっとグレイの手を凝視していたルビーは小さく息を呑んだ。
十本の指全て、爪がなかった。
微々たる違いだが、気がつけば大きな違いだ。
痛々しい爪のない手を、グレイは夜空にかざした。
「死ぬ直前に爪を剥がされた。知ってるか、爪がないと強い力で物を握ることが出来ないんだぞ」
ぐっと拳をグレイは握ってみるが、やはり力が入らないらしく手の甲に筋は浮き出ない。
「ひどい……」
同情などではなく、自然と言葉が口をついた。
「俺の周りには、悪意が満ちていた。何もしていないのに殴られたり蹴られたり。人間なんて二度と信じるかと思った。神も人も、全てを憎んだ」
ルビーはグレイの話を聞きながら、目頭が熱くなった。我慢しようとしたが、涙が頬を伝う。
ルビーはグレイを抱きしめる。彼が消えてしまいそうな気がした。
グレイは、彼の首に回したルビーの手に自らの痛ましい手を重ねる。
「ほら、お前は他人のために泣ける」
優しい声が心の奥に響く。
ルビーは何も言えなかった。声にならない。
涙がルビーのやさぐれた心をほぐす。
「――ルビーは優しい。だから、死ぬなんて駄目だ」
グレイの言葉はルビーの胸を打った。
◆
一しきり泣いて、赤く腫れた目をルビーはこすった。
二人は立ち上がる。
最後に白猫を見られないものかとルビーは森を覗き込んでいたが、ついぞ白猫は姿を見せなかった。もしかしたら、森に仲間がいるのかもしれない。
空も白み始め、ルビーとグレイは館へ戻ることにした。
「もう簡単に、死んでも別に良いなんて言葉に出すなよ」
念を押されてルビーはすぐに頷く。
「ならいい」
グレイの顔に安堵が浮かぶ。
「グレイ……」
なんだ、と言いたげにグレイは振り向く。
「ごめんなさい」
「謝ってほしかったわけじゃない」
グレイは満月の夜に境目が緩くなることを教えてくれた。
その日しか道はつながらない。
彼はルビーがここから脱出するのなら、手伝うと申し出てくれた。
「約束してくれる?」
「ああ」
「じゃあ、小指を出して」
グレイは意味など聞かずに小指をルビーに差し出す。それにルビーは自らの小指を絡めた。
「約束」
疑心暗鬼気味なルビーも、グレイのことを信じてみようと思った。
ブルーローズが真実でもグレイが真実でも、状況は芳しくない。ならば、思い切って館を出てみようと思った。
黒髪の合間から金の鋭い瞳がルビーを捕らえている。
グレイが、ルビーの待ち望んでいた王子様みたいに見えたことは内緒だ。