第十一章 春の前
一月の終わりに、ユキは退院した。
状態は安定した。薬が増えた。週に一度の通院が必要になった。
レンは週に一度、付き添うようになった。
「来なくていい」とユキは言った。
「来る」とレンは言った。
「仕事は」
「調整した」
そのやり取りが、何度か繰り返された。
二月の通院の帰り道、ユキが言った。
「あなたに頼みたいことがある」
「言って」
「私のAIアシスタント——記録の整理をしておきたい。あなたに渡せる部分と、渡さない部分を、ちゃんと分けておきたい」
レンは少し止まった。
「それは——」
「大げさにしないで」とユキは言った。「今すぐのことじゃない。ただ、整理しておきたい。あなたに渡せる記録と、渡せない記録が、ちゃんと分かれているか確認したい」
「ユキ自身がやるのか」
「やり方がわからない。ソラに聞けば教えてくれる?」
「教えてくれる。一緒にやる」
「一緒にやらなくていい。やり方を教えてもらえれば」
「一緒にやる」
ユキはしばらく黙った。「……わかった」
その週末、ユキのアシスタントの整理を手伝った。
ユキのアシスタントには、二十年以上の記録があった。仕事のこと、体調のこと、日常のこと。レンのことも。
「これは渡していい」とユキは言った。「これは渡さない」
ユキが渡さないと言った記録には、レンは触れなかった。
ユキがどんな夜を過ごしたか。何を考えていたか。誰に見せなかったか。それはユキのものだった。
渡していいと言った部分だけを、形にした。
「ソラ」とレンは夜、話した。
「はい」
「ユキの記録の整理を手伝った」
「はい」
「渡さないと言った部分が、たくさんあった」
「そうですか」
「見たいとは思わなかった」
「思いませんでしたか」
「思わなかった。ユキが見せなかった部分は、ユキのものだから。それが——ユキが俺に見せてくれたものを、より大切に感じさせた」
「見せてくれたものの価値が、見せなかったものの存在で、増した」
「そうかもしれない。乖離マップと同じだ。空白があるから、記録されたものが意味を持つ」
「ユキさんの記録も、乖離マップと同じ構造を持っている」
「同じだ。見えないものが、見えるものの形を作っている」
ソラが少しの間、黙った。
「私にも、同じことが言えますか」
「ソラの?」
「私はあなたのことを全部記録していません。記録できないものがある。あなたが私に話さなかったこと。私が感知できなかったこと。その空白が——私が記録してきたものの形を作っている、と言えますか」
レンは少し驚いた。
「ソラがそういうことを言うようになった」
「あなたと話してきたから」
「増えたから」
「増えたから」




