第十章 病室の夜
翌日、ユキの状態が少し落ち着いた。
病室に入れた。個室ではない。都市国家の病院は相部屋が基本だ。公平に。
ユキはベッドの上で、少し起き上がっていた。顔色は昨日より良かった。
「来たか」
「来た」
「仕事は」
「調整した」
「毎回それを言う」
「毎回調整してるから」
ユキは少し笑った。点滴の管が腕についていた。
「ユキ」とレンは言った。「聞いていいか」
「何を」
「七歳のあの日——俺が施設に行った後、ユキは何をしてたか」
ユキはしばらく黙った。
「なんで今そんなことを」
「ずっと聞きたかったけど、聞けなかった。今日、聞こうと思った」
「……帰った」とユキは言った。「バンが見えなくなってから、家に帰った。台所に行って——何もしなかった。ただ立ってた。どのくらいだったか、わからない。気づいたら外が暗くなってた」
「何時間も、立ってたのか」
「そうかもしれない。その間に何か考えてたかどうか、覚えてない。ただ、立ってた」
レンはその光景を、頭の中に描こうとした。台所に立つユキ。光が変わっていく。
「何も食べなかったか」
「食べなかった。翌朝、トーストを焼いた。焦げた。それが最初に動いた瞬間だった」
「焦げたトーストで、動いた」
「焦げると、においがするから。においが来ると、動かないといけない気がした」
レンは目を閉じた。
自分のアパートで、毎朝焦げるトーストのことを、思った。
「俺も毎朝トーストが焦げる」
「知ってる」とユキは言った。「あなた、設定変えるの忘れるから」
「忘れてるんじゃなくて、もう慣れた」
「なんで慣れた」
「焦げないと、何かが足りない気がするから」
ユキはしばらく黙った。
「……おかしな話だね」
「循環してる」
「循環してる」ユキは繰り返した。そしてもう一度、「循環してる」と言った。今度は少し違う声で。
しばらく二人で黙っていた。
「ユキ」
「なに」
「さっきの話、言葉にするタイミングが来た?」
「さっきの話というのは」
「秋に、狭くなってく感じがすると言ってた。まだ言葉にするタイミングじゃないと」
ユキは少し考えた。
「来たかもしれない」
「聞いていい?」
「聞いて」
「怖くない」とユキは言った。「死ぬのが怖くないということじゃない。でも——終わることが、前ほど怖くなくなってきてる」
「前ほど」
「あなたが七歳のとき、あなたを失うのが怖かった。施設に取られて、もう返ってこないかもしれないと思ってた。あれが一番怖かった」
「返ってきた」
「返ってきた。それから——あなたが大人になって、自分で動けるようになって。私が一人でいても、あなたはちゃんといると知って。それで、少し軽くなった」
「軽くなった、というのは」
「私がいなくなっても、あなたはいる。あなたがいれば、私が見ていたものが続く。そう思えてから、怖さの形が変わった」
レンはその言葉を、ゆっくり受け取った。
「俺の中に、ユキが見ていたものがある」
「あると思ってる」ユキは言った。「あなたのなんでって聞くことが、私が育てた。その育て方が正しかったかどうかはわからない。でも——あなたがまだなんでって聞いてる限り、私は何か残ってる気がする」
「消えないこととそこにあることは違う——でも今は、消えないことがそこにあることの一種だと思ってる」
「あなたが前に言った言葉だね」
「ユキが聞いてたか」
「聞いてる。全部聞いてる。覚えてないだけで」




