第八章 秋の台所
十月の週末、ユキのところに行ったとき、ユキは台所にいなかった。
珍しかった。いつも来ると何か作っている。
居間に行くと、ユキが椅子に座って、目を閉じていた。
「ユキ」
ユキは目を開けた。
「来てたか。気づかなかった」
「眠ってた?」
「眠ってはいない。少し目が疲れて、閉じてただけ」
「体調は」
「問題ない。薬も飲んでる」ユキは椅子から立ち上がろうとして、少し手が震えた。
レンは何も言わずに、台所に行った。
「何か作る。座ってて」
「あなたが作るの?」
「作れる」
「何を」
「卵とトーストなら」
ユキは少し笑った。「じゃあそれで」
卵を焼きながら、ソラに小声で聞いた。
「さっきの手の震え、気になった?」
「記録しました」とソラが答えた。「ただし、一度の観察では判断できません。薬の副作用の可能性もあります」
「医師に伝えるべきか」
「次の定期検診のとき、あなたかユキさんが伝えることが望ましいと思います」
「ユキは自分では言わないかもしれない」
「そうかもしれません」
「俺が付き添う」
「それが良いと思います」
食べながら、ユキが言った。
「あなた、最近また乖離マップの話をされてる?」
「v15を公開してから、また少し増えた。カリキュラム拡充の効果が出てきたデータが入ったから」
「良い方向に出てる?」
「少しだけ。統計的には有意でも、現実の感触には遠い変化だ。でも出てる」
「出てるなら、いい」
「ユキは、変化を感じてる? 仕事の現場で」
「感じてる、かどうか……」ユキは少し考えた。「上司が変わったのは続いてる。でも——制度が変わって何かが変わった、というより、人が一人変わって少し変わった感じ。制度じゃなくて人の話みたい」
「人が変わって制度が変わる、制度が変わって人が変わる——どちらも起きてると思う」
「あなたが作ってるのはどっち?」
「制度に働きかけてる。でも——ハシモトさんの親たちの言葉を集めてるのは、人の話を残すことに近い」
「二つやってるのか」
「二つになってきてる。一つだったものが、広がってきてる感じ」
ユキはトーストの最後を食べた。
「あなたは広がっていく。私は……」ユキは少し間を置いた。「狭くなっていく感じがある」
「狭くなる?」
「できることが少しずつ減ってる。残業できなくなった。長時間立ってると足がむくむ。前はそういうことがなかった」
「それを——どう思ってる」
ユキはしばらく黙った。
「思ってることは、ある。でも——まだ言葉にするタイミングじゃない気がしてる」
「言葉にできたとき、教えて」
「教える。前もそう言ったね」
「言った」
「あなたはちゃんと待てる人だから」とユキは言った。「それが助かる」




