第9話 外の冷たさ
※本話は視点切替があります(「◇◇◇ ○○side ◇◇◇」で区切っています)。
※同窓会後の会話/感覚の揺らぎ(現実と幻の境界が薄くなる表現)があります。
※過去の出来事(救急車・割れたコップ)に触れる描写があります。
◇◇◇ 悠真side ◇◇◇
「店」「椅子」「結衣」――三つ言えたのに胸の痛みは引かない。視界の端で入口の暗さが揺れている。海辺の暗さ。花火の前の色。結衣は袖を掴んだまま、視線だけで言った。
――今は、こっち。
頷けたことに安心してしまう。安心は甘く、甘さは上書きの入口だ。
一次会の終盤は音の塊だった。肩を叩かれ、名前を呼ばれ、昔話が投げられる。途切れた言葉の続きを、頭が勝手に補完しようとする。やめろ。俺はテーブルの縁を指でなぞった。硬い。冷たい。現実の手触り。
結衣が近づく。近いのに触れない。
「そろそろ、出よう」
「……二次会」
「黒川くんは行かない。私も行かない」
言い切る強さが助かって、助かるから怖い。
会計がまとまり拍手が起き、立つ人が増える。流されれば楽だ。でも流されると俺は“海”に行く。結衣は少し前に立って出口を示した。手は引かない。
「歩ける?」
頷くたび首の後ろが冷える。
扉が開く。外気がぶつかった。冷たい。乾いている。冬だ――助かる。吸った息が痛いほど冷たく、胸の潮騒が少し引く。
結衣は店の前で、人の流れから半歩外れた。
「今いる場所、三つ」
今度は声で。
「店の外」「駅前の歩道」「……結衣の前」
距離が消える答えが怖い。それでも結衣は淡く頷いた。
「うん。ありがとう」
評価じゃない、確認のありがとう。その温度がちょうどいい。
人の波が店から吐き出される。「二次会行こーぜ」「カラオケ」「反対側の店」明るい声が夜に溶ける。結衣が言う。
「少し歩こう。明るいところ、避けたいよね」
俺は結衣の横に並んだ。影が同じ速度で伸びるのが嫌に自然で、胸がむず痒い。
一本裏へ。街灯が少なく、空が広い。結衣が止まる。
「ここなら、誰も来ない。話すの、ここでいい?」
“終わったら外で”――その外が今だ。
「……結衣」
名前を言って距離が消える。結衣は逃げない代わりに線を引く。
「黒川くん。先に確認したいことがある」
「なに」
「今日、ここに来る途中で、“砂”になった?」
「……なった」
「どのくらい」
「一瞬。椅子から立ちそうになった」
結衣は目を閉じて一度息を吐く。想定していた反応。指先が冷える。
「結衣、なんで分かる」
沈黙が冷たい空気と混ざって重い。
「……私、見たことがあるから」
「何を」
「黒川くんが、“起きてるのに落ちる”ところ」
名付けられた瞬間、崩れそうになる。
「いつ」
「高校のとき」
校舎の匂いが立つ。やめろ、思い出すな。強く瞬きをする。
「だからDMで言った。“今は思い出そうとしないで”って」
「思い出させないために、思い出の匂いを撒いてるのはどっちだよ」
言って後悔が喉を焼く。結衣は驚かず、怒らず、静かに言う。
「ごめん。……私のやり方、怖いよね」
また、ごめん。
「じゃあ、やめろよ」
「やめる。命令みたいなの、やめる」
甘さのない現実の言い方。
「でも、黒川くんが“砂”になるとき、私は止めたい」
手を伸ばす言葉。俺は後ろへ下がりそうになる。結衣は追ってこない。だから止まれる。
「……止めたいって、何を」
「黒川くんが、現実じゃない“結衣”に連れていかれるのを」
影の結衣。笑って「来て」と言う結衣。
「見えてるのか」
「私は見えてない。でも、黒川くんの目が、そっちを見る」
正しいから怖い。
結衣が言う。
「黒川くん。ここから先は、選んでほしい」
「何を」
「私と話すか。帰るか。……追いかけたくなる方へ行くか」
追いかけたくなる方。海。花火。甘い上書き。
「……話す」
やっと言えた。
結衣は肩の力を少し抜く。
「ありがとう。じゃあ一個だけ、今日言う」
一個だけ。量の約束。
「割れたコップのこと、黒川くんは一人で抱えたままだったよね」
腹の底が冷える。床の光。蛍光灯。
「……その話、するな」
「うん。詳しくは言わない」
言わないのに続ける。
「でも、あのあと救急車を呼んだの、黒川くんじゃない」
耳がキーンと鳴る。
「……誰が」
「私」
街灯が遠くなる。世界が一回転する。甘いほうが手招きする。影の結衣が暗がりで笑って「来て」と口が動く。足がそっちへ動きかける。
結衣の声が小さいのに硬い。
「黒川くん。今、ここ。寒い。息が白い」
命令じゃない。現実の説明。
俺は無意識に息を吐く。白い。冬だ。影が少し薄くなる。震える。寒さじゃない。
「結衣……なんで今さら」
「同窓会で、黒川くんが壊れそうだったから」
「壊れるって言うな」
怒りたい。怒りは現実に繋がる。
結衣は逃げずに言う。
「言い方、ごめん。でも、私は今日初めて見たの。黒川くんが“自分で戻ってきた”の」
戻ってきた。袖を掴まれて、三つ言って、止まった。あれが戻る?胸の奥が歪む。
「……じゃあ、どうすればいい」
「正解はない。だから、次に会うときは――黒川くんが決めて」
「次」
「今日はここまで。約束した。一個だけって」
結衣は一歩下がり、距離を戻す。
「送るよ」
「大丈夫。私は帰れる」
甘くない“大丈夫”。
結衣は最後に短く言った。
「黒川くん。今日は帰って。眠れるなら寝て」
お願いに近い。
結衣は背を向け、街灯の外へ消えていく。
追わなかった自分に驚く。
スマホが震える。DM。画面を見ず通知だけ読む。
『外に出られた?』yui。
俺は返信しない。ポケットの中でスマホの角を触る。
一。二。三。四。
現実の角。
俺は駅の明かりのほうへ歩き出した。
(続く)
◇◇◇ 佐藤side ◇◇◇
黒川さんは店の外ですぐ歩かなかった。入口の横、流れから外れて立ち止まる。息を吐く。白い。あれは確認だと分かった。黒川さんはいつも何かを数える。視線で、指先で、呼吸で。
自分は少し離れて見ていた。近づいたら黒川さんは現実から逃げる気がした。
黒川さんの隣にいた黒髪の女の人が裏道へ誘導した。引っ張らない。立ち位置で導く。
二人が暗い道へ入るのを見て胸が冷えた。暗い場所は危険だ。境界が薄くなる。自分は追った。足音を殺し、距離を保つ。
街灯の下で二人が止まる。女の人が何か言い、黒川さんが固まる。肩がわずかに震える。寒さではない。
自分は一歩出そうとして、やめた。出たら黒川さんは自分を見る。見た瞬間、社会人の顔に戻る。無理に固める戻り方で、あとで反動が来る。
女の人が一歩下がって背を向けた。黒川さんは追わなかった。少し息ができた。
黒川さんは駅の明かりへ歩き出す。歩幅は小さいが戻ってくる歩幅だ。
自分は追わなかった。背中が明かりに溶けるまで見ていた。
助けが必要な場所に、自分より先にいる人がいる。救いか危険かはまだ分からない。
でも一つだけ分かった。自分はもう、見ているだけじゃ無理だ。
(続く)
読んでいただきありがとうございます。
第9話は「外の冷たさ=現実」に悠真がしがみつきながら、結衣から“核心”が一つだけ落ちてくる回でした。
結衣の「一個だけ」という約束が、悠真にとっては優しい枠である一方、現実じゃない“結衣”への引力も同時に照らしてしまいます(本作の「現実と上書き」の揺れが、ここからさらに強くなります)。
次話は、帰宅後〜翌日にかけての反動と、佐藤の「見ているだけでは無理だ」という決意が、より具体的な行動に繋がっていきます。




