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第8話 十九時

※本話は視点切替があります(「◇◇◇ ○○side ◇◇◇」で区切っています)。

※同窓会の騒がしさ/感覚の揺らぎ(現実と幻の境界が薄くなる表現)があります。

◇◇◇ 悠真side ◇◇◇

“19:00”。机の端のメモが何度も視界に入る。数字は追えるのに、今日は時計に追われる。16:48。呼吸を整え、作業を終わらせた。終わらせないと現実が薄くなる。

18:12。会社を出た瞬間、空気が冷たく湿った。駅までが長い。スマホを開いて閉じてを繰り返す。yuiからは来ていないのに、来そうで怖い。「今いる場所を三つ」――あの優しい命令を、階段を降りながら心の中で数えた。駅。改札。階段。言えた。足が軽くなるのが怖い。

電車の中は人の匂いが濃い。香水が一瞬、海みたいに甘くて胸がひゅっとなる。違う。海じゃない。目を閉じないよう広告の文字を追った。スマホが震える。

『いま、どこ?』

「電車」「○○線」「窓の前」送信。すぐ既読。

『OK』『着いたら入口の外で一回だけ深呼吸して』

一回だけ。その制限が俺を動かす。

駅前。会場は居酒屋。入口の案内が“懐かしさ”の皮を被った現実を貼りつけている。外で深呼吸を一回。吐いた息が白い。冬だ。海じゃない。

扉に手をかけたとき、背中から声がした。

「黒川くん」

結衣。現実の結衣。なのに一瞬、笑う結衣と黙る結衣が重なる。視線を逸らす。

「来てくれて、ありがとう」

結衣は距離を詰めず、俺の横に立ち、入口の光を正面から受けない位置を作った。

「人、多いな」

「うん。最初に一個だけ。今、手に何持ってる?」

「スマホ」

「じゃあ角。四つ数えて」

硬い。冷たい。一、二、三、四。

「大丈夫。入ろう」

店内は音が多すぎた。呼び合う名前、笑い声、グラスの音。名札を首から下げた同級生が行き来し、幹事らしい男が入口で人数を数えている。壁には寄せ書きと、学生時代の写真が何枚か貼ってあった。

「黒川!?」

「うそ、黒川じゃん。変わんねーな」

声が飛ぶたび輪郭が薄くなる。案内の途中、床が一瞬だけ砂に変わった気がして足裏が熱い。結衣が呼ぶ。

「黒川くん」

公共の距離に戻る呼び方で、世界が締まる。

「今いる場所、三つ」

結衣は口の形だけで言った。俺は口の中で答える。店。入口近くの通路。結衣の隣。喉が苦しい。

「席、端にしてある。逃げやすい」

席に着くと、テーブルには大皿が並び、料理の湯気が上がっていた。誰かが俺の前に取り皿を滑らせ、「とりあえず食えよ」と笑う。乾杯のタイミングで立ち上がる人が多く、俺は椅子の背もたれに身体を押しつけた。

乾杯が始まる。俺はグラスを持てない。割れたコップが指先に蘇るからだ。結衣は何も言わず、自分の水だけを軽く上げた。

スマホが震える。目の前に結衣がいるのに、yui。

『音、つらい?』『今、足は床?砂?』

「床」「木の床」「椅子」送信。

『OK』『背もたれに背中。肩の位置を感じて』

硬い背もたれ。硬い現実。結衣が足元を見て呟く。

「……今、ちゃんと床だね」

“ちゃんと床”じゃない時がある。結衣は知っている。

「結衣」

名前を呼ぶと距離が消えるのが怖いのに、呼んでしまった。

「ここでは話さない。同窓会は同窓会として終わらせる。黒川くんが壊れるから」

「じゃあ、いつ」

「終わったら。外で。人がいないところで」

外は冷たい現実がある。でも海にも繋がる。俺は椅子の角を押した。一、二、三、四。

一次会が進むほど、会話は入らず笑い声だけが浮く。隣の席では昔の担任の話で盛り上がり、誰かがスマホで集合写真の段取りを決めている。「黒川も入れよ」と手招きされて、俺は曖昧に頷いた。

昔の写真を見せられた。画面の中の俺は笑っている。怖い。

その瞬間、頭の中で花火が鳴った。店内の拍手と重なり、境界が消える。蛍光灯が夕方になり、香水が潮の匂いになり、床が砂になる。

俺は立ち上がりかけた。結衣が袖を掴む。布の感触が現実だ。

「黒川くん。今いる場所、三つ」

「店」「椅子」「結衣」

結衣の指が少し緩む。「うん」。その“うん”が許しになる。

視界の端で入口が海辺の暗さに変わる。そこに影の結衣が立ち、笑って「来て」と言う。足がそちらへ向きかける。

結衣がもう一度袖を掴んだ。

「黒川くん、今は、こっち」

それだけで止まれた。止まれたのに胸が痛い。俺は、どっちへ行きたいんだ。

(続く)


◇◇◇ 佐藤side ◇◇◇

19時。会社最寄り駅の改札前にいた。追いかけたわけじゃない、と言い訳しながら。スマホには送れないままの「大丈夫ですか」。大丈夫じゃない時ほど大丈夫が返るのが分かっている。

改札の向こうで同窓会らしい集団が通り過ぎた。黒川さんはいない。馴染まない人が馴染もうとする日に何が起きるか、考えてしまう。

店の前へ行くと、中から拍手。乾杯のタイミングだ。ガラス越しに端の席の黒川さんが見えた。背もたれに背中を押しつけている。

隣に黒髪の女の人がいた。黒川さんを見ていないのに、黒川さんのタイミングだけを見ている。手が袖に触れた。止めるための触れ方に見えた。

助けが必要な場所に、俺より先にいる人がいる。救いか危険か分からない。

俺は外壁に背をつけた。できることは少ないのに帰れない。中で拍手がもう一度起きた。それが黒川さんの現実を留める音であってほしいと思った。

(続く)

読んでいただきありがとうございます。

第8話は「十九時」という現実の時間に、悠真が身体ごと連れていかれる回でした。

同窓会の音・光・匂いが、悠真の“上書き”を呼び起こしやすい状況になっていきます。

次話は、一次会の終わりから「外」に出たとき、現実の冷たさが救いになるのか、それとも別の引力になるのかがはっきりしていきます。

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