第7話 上書きの音
※本話は視点切替があります(「◇◇◇ ○○side ◇◇◇」で区切っています)。
※“現実が揺らぐ/上書きされる感覚”の描写があります(幻視・幻聴に近い表現を含みます)。
◇◇◇ 悠真side ◇◇◇
帰り道の空気が、やけに軽かった。
五分だけ。
座って、立って、言葉を少し交わしただけ。
それなのに、胸の奥のどこかが「会った」と言い張っている。
“現実に触れた”と。
俺はそれを、信用していいのか分からない。
スマホを開く。
yuiの最後のメッセージ。
『今日は、これ以上は言わない。ごめんね。』
踏み込まない。
踏み込まないから、俺のほうが勝手に踏み込んでしまう。
俺は画面を閉じた。
閉じたはずなのに、
結衣の声だけが耳の奥に残る。
「黒川くん」
苗字で呼ばれるたび、距離が測れる。
距離が測れるから、安心する。
……安心してどうする。
•
帰宅。
部屋の鍵を回す音が、現実を固定する。
照明をつける。
いつもの白。いつもの無機質。
俺はノートPCを開き、昨夜作ったフォルダを開いた。
【yui_検証】
スクショが並んでいる。
時刻。文面。既読。
証拠は、きれいに並べれば並べるほど、強くなる。
強くなるほど、現実は安定する。
……はずなのに。
画面の右下の時刻が、ふっと滲んだ。
俺は瞬きをした。
滲みは消えない。
二度、瞬き。
消えない。
身体が、眠気のほうへ滑る。
「寝るな」
声に出して、自分を叱った。
叱る声が、やけに遠い。
俺は立ち上がって、キッチンへ行った。
冷蔵庫を開け、氷を一つ掴んで口に含む。
冷たさが舌に刺さる。
刺さる痛みは、現実だ。
戻る。
ノートPCの画面は、さっきと同じ。
スクショ。時刻。既読。
でも、俺の目だけが違う。
文字が、音を持ち始めている。
『今は“思い出そう”としないで』
結衣の言葉が、スクショから漏れて聞こえる。
そんなはずない。
俺は首を振った。
首を振ると、潮の匂いがした。
……匂い?
部屋に海なんてない。
あるのは、乾いたエアコンの風だけだ。
なのに、鼻の奥に塩の粒が残る。
俺は、あの日のPDFを開こうとして、手を止めた。
思い出すな、と言われた。
それを守ったほうがいい。
守ったほうがいいと分かっているのに、
守ると、俺はどこに行けばいい。
思い出せない俺は、ただの空白になる。
空白は、上書きされやすい。
俺はPDFではなく、同窓会グループを開いた。
現実の雑談にしがみつく。
『明日の集合、一次会19時でOK?』
『二次会どうするー?』
軽い。
軽いから助かる。
その流れの中に、結衣が一行だけ落とした。
『私は一次会だけにするね。体調見ながら』
体調。
俺は指先が冷えるのを感じた。
“体調”は便利な言葉だ。説明しないで済む。
俺は、返信欄を開いて閉じた。
何も打てない。
俺の中で、二つの結衣が擦れて音を立てる。
グループの結衣。
DMの結衣。
五分だけの結衣。
そして、俺の中の結衣。
どれが本物だ。
……いや。
本物がどれか、じゃない。
俺が今どこにいるか、だ。
俺は自分の腕を抓った。
痛い。現実。
でも痛みの奥に、砂の熱が残る。
俺は笑ってしまった。
笑いが喉の奥で引っかかる。
「……上書き、されてる」
誰に?
何に?
スマホが震えた。
DM。yui。
俺は、反射で開いてしまう。
『黒川くん、今夜は眠れそう?』
……眠るかどうかを、どうして気にする。
俺は打つ。
「眠れると思う」
送信。
既読はすぐについた。
返事もすぐ。
『よかった』
『もし眠くなったら、抵抗しなくていい』
『ただ、寝る前に“今いる場所”を三つ言って』
俺は画面を見つめた。
抵抗するな。
でも確認しろ。
優しい命令は、いちばん従ってしまう。
俺は息を吸った。
「部屋」
「キッチン」
「駅前のカフェ」
送信してから、背中がぞわっとした。
……駅前のカフェは、今いない。
今じゃない。
俺は、今いる場所を言えと言われたのに、
“さっき”を混ぜた。
混ぜたのは俺だ。
でも、混ざるように仕向けられている気もする。
俺はスマホを置いて、両手で顔を覆った。
まぶたの裏が明るい。
花火の光みたいに。
耳の奥が、ざわざわする。
潮騒みたいに。
現実の部屋は静かなのに、
俺の中だけが海沿いだ。
「やめろ」
言葉は、波に飲まれる。
そして、ふっと一瞬だけ、世界が柔らかくなった。
蛍光灯の白が、夏の夕方の色に変わる。
カーテンが、波の反射みたいに揺れる。
足裏に、砂。
俺は椅子から立ち上がったはずなのに、
歩いた感覚がない。
でも、玄関の鍵の音がした。
……俺が?
誰が?
俺は、ドアのほうを見た。
そこに、結衣がいた。
薄い影の結衣。
笑っている結衣。
「黒川くん、来て」
口が動く。音が届く。
届くから、現実に見える。
俺は一歩、踏み出した。
踏み出した瞬間、スマホが机から落ちた。
硬い音。
その音だけが、現実の角で、俺の足首を掴んだ。
俺は止まった。
結衣の影が、薄くなる。
代わりに、床の上のスマホが見える。
画面が光っている。
通知。
『三つ、言えたね』
『黒川くん、えらい』
えらい。
褒められると、落ちる。
落ちることが許される。
俺はスマホを拾って、画面を伏せた。
「……明日だ」
同窓会。
一次会。十九時。
明日までに、俺は“起きてる”を維持できるか。
維持できなかったら、
俺は何に会いに行くことになる。
(続く)
◇◇◇ 佐藤side ◇◇◇
黒川さんの最近の変化は、仕事の数字より分かりやすい。
帰る時間。
休憩の取り方。
目線の焦点。
どれも、少しずつズレている。
翌日、黒川さんは昼前に一度、席を立った。
トイレに行くふりをして、戻ってくるのが遅い。
戻ってきたとき、手が少し震えていた。
「黒川さん、体調悪いんですか」
俺が言うと、黒川さんは「大丈夫」と答えた。
その返事が、いつもより丁寧だった。
丁寧なときほど、余裕がない。
机の上に、見慣れないメモがあった。
“19:00”
それだけ。
仕事の締め切りじゃない。
会議でもない。
黒川さんは、スマホを触っていないふりをして、
一番下の引き出しにしまった。
隠す必要があるもの。
俺は、聞きたかった。
誰に会うのか。どこへ行くのか。
でも、聞いた瞬間に、黒川さんは“現実”から一段遠くへ行く気がした。
だから俺は、違う言い方をした。
「今日は、早く帰る予定ですか」
黒川さんは一瞬止まってから、頷いた。
「……用事がある」
その言い方が、逃げ道を探しているみたいで、
俺の喉が詰まった。
「無理しないでください」
言いながら、俺は自分が嫌になった。
無理しないで、で止められる相手じゃないのに。
黒川さんは、笑った。
でもそれは、
嬉しい笑いじゃなくて、許可をもらった笑いだった。
“行っていい”って。
俺は背中が冷えた。
現実の外に、許可なんて出したくない。
けど、もう遅い気もした。
(続く)
読んでいただきありがとうございます。
悠真が「確認して現実を固めたい」のに、確認すればするほど“上書き”の入口が増えていく回でした。
次話はいよいよ同窓会当日。悠真が守ろうとしている「起きてる」と、結衣が差し出す“優しい命令”の境目が、もっと危うくなっていきます。




