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第3話 ログにない「結衣」

※本話は視点切替があります(「◇◇◇ ○○side ◇◇◇」で区切っています)。

◇◇◇ 悠真side ◇◇◇

返信ボタンの上に指を置いたまま、動けなかった。

『悠真くん、まだ覚えてる?』

覚えてる。

そう答えた瞬間、何かが決定してしまう気がした。

俺はトイレの個室で、スマホを見下ろした。換気扇が、ずっと同じ音を吐き出している。一定のノイズは、頭を少しだけ整える。

指が勝手に動く。

「誰ですか」

打って、消す。

違う。まずは確認だ。

俺は、怖くなると確認する。心じゃなく、数字やログで。

DMをスクショして、保存フォルダを開き、時刻をメモする。

07:12、「黒川さん」。

12:43、「悠真くん」。

段階を踏んで、距離が詰まっている。

まるで編集のタイムラインみたいに、順番よく。

スマホを閉じ、手を洗い、鏡の前に立った。青白い顔が映る。目の下のクマが濃い。薄い笑いの跡だけが残っている。

「落ち着け」

言葉だけが、別の誰かの声に聞こえた。

午後。オフィス。

ヘッドフォンは外していた。波の音を聞くと、匂いまで戻ってくる。戻ってきてしまうのが怖い。

俺は仕事用フォルダを開いたまま、別のウィンドウを重ねた。

外付けHDD。例の由比ヶ浜の写真。夕暮れの海と、誰かの後ろ姿。

俺は写真を拡大する前に、別のフォルダへ潜った。

「家族」

「医療」

「201X」

「08_15」

その中に、スキャンしたPDFがある。ファイル名は俺の癖で、無駄に長い。

【救急搬送_控え_8-15_1719_母_自宅.pdf】

クリックすると、白い紙の画像が表示された。

印字が少し傾いている。スキャナの癖だ。

“要請 17:19”

“現場到着 17:23”

“受付時刻 17:24”

息が止まる。

俺は、その数字を一度も忘れたことがない。

忘れたいのは、あの日じゃない。床に散った破片を前に、固まった俺のほうだ。

8月15日。

母親が台所で倒れて、俺は一人で119番を押した。

電話口で住所を言うとき、声が裏返った。救急隊が来るまでの数分が、人生で一番長かった。

「何時に気づきました?」と聞かれて、俺は電子レンジの時計を見た。

17:19。

そして、玄関に救急隊の靴音が増えた瞬間。

——コップが割れた。

母が倒れた拍子に落ちたのか、俺の手が当たったのか、今でも覚えていない。

ただ、透明な破片が台所の床に散って、蛍光灯の光を拾っていた。

あの破片の光だけは、やけに鮮明だった。

だから、17:21に俺が海にいるはずがない。

砂を踏んでいるはずがない。手をつないでいるはずがない。

——そのはずなのに。

背中の奥に、潮の匂いが戻ってくる。

俺はPDFを閉じて、由比ヶ浜の写真に戻った。

プロパティを開く。

撮影日時は、8月15日 17:21。

二分。

たった二分の差が、世界を割る。

「……ありえない」

声に出したのに、言葉が薄い。現実のほうが薄く感じる。

俺は、写真を拡大した。

影の輪郭。髪。肩。

結衣に似ている。

似ている、と認めた瞬間、胸の奥がふっと緩んだ。

危険な緩みだ。

眠る直前みたいに、まぶたが重くなる。

波の音が、実際には流れていないのに聞こえる。

スマホが震えた。

DM。

『17:21。海へ降りる階段のところ。

悠真くん、遅れてきた』

俺は一瞬、画面の文字を理解できなかった。

理解する前に、体が反応した。喉が鳴って、手のひらが冷える。

偶然? いや、偶然にしては正確すぎる。

俺は反射で、もう一度プロパティを見る。

17:21。

一致している。

頭が真っ白になりかけた。

白くなるのに、心だけが甘くなる。

……もし、あの海が本当にあったなら。

もし、結衣が本当にいたなら。

俺の暗い記憶は、少しだけ別の色に塗り替えられる。

そう考えた瞬間、俺は自分が怖くなった。

それは救いじゃない。麻酔だ。

背後から、椅子が軋む音がした。

「黒川さん、今日ずっと……何見てるんすか」

佐藤の声。

俺は画面を最小化するのが遅れた。

一瞬だけ、由比ヶ浜の写真と、救急搬送の控えが見えたはずだ。

「ああ。素材の整理」

嘘ではない。

でも、真実を避けた言葉だ。

佐藤は首を傾げた。

「珍しいっすね。黒川さん、普段そこまで神経質じゃないのに」

俺は笑ってみせた。

笑う筋肉は動く。心は動かない。

「締め切り近いから」

佐藤は「そっすか」と引いた。

引いてくれる。その距離が、ありがたいのに痛い。

俺はスマホを握り直した。

DMの文字が、まだ光っている。

『遅れてきた』

遅れてきたのは、俺じゃない。

遅れてきたのは——俺の人生のほうだ。

そう思ってしまった自分が、いちばん怖い。

帰りの電車。窓に映る俺の顔は、会社員の顔をしていた。

現実に馴染む顔。馴染むだけで、中身は置いていく。

スマホがまた震えた。

『コップ、割れたよね。あの日』

息が止まった。

台所の床。透明な破片。蛍光灯の光。

救急隊の靴音。母の浅い呼吸。俺の声の裏返り。

——割れたコップ。

それを知っているのは、俺だけのはずだ。

少なくとも、俺の“現実”の中では。

俺はつり革を握った。

指に力を入れたのに、体の芯がふわふわしている。

まどろんでいる。

起きているのに、夢の縁に足を置いている。

次のDMが来る前に、俺は返信しなきゃいけない。

そう思うのに、指が動かない。

『同窓会、来るんだよね?

あの夜の続き、ちゃんと終わらせよう』

終わらせよう。

それは、俺の嘘の初恋か。

それとも、俺の現実か。

俺はスマホを閉じた。閉じたのに、画面の光がまぶたの裏に残った。

(続く)


◇◇◇ 佐藤side ◇◇◇

黒川さんは、いつも「起きている人」だった。

仕事中にぼーっとしない。手が止まらない。

話しかけても、短い返事で現実に戻ってくる。

でも今日は違った。

黒川さんは画面を見ているのに、画面の向こうを見ている。

まばたきが少ない。呼吸が浅い。口元だけが、ほんの少しゆるむ。

眠い人の顔じゃない。

眠る直前の顔だ。

起きてるのに、まどろんでいる。

俺が声をかけると、黒川さんは一拍遅れて笑った。

その笑いは、いつもより薄い。

「素材の整理」

そう言ったけど、マウスの動きが変だった。

いつもなら最短ルートで作業するのに、今日は何度も同じウィンドウを開いて閉じていた。

数字を追っている。

でも、数字で現実に戻ろうとしているんじゃない。

むしろ、数字で“幻”に追いつこうとしている。

……そんなふうに見えた。

黒川さんの机の上で、スマホが一度だけ震えた。

黒川さんは反射みたいに掴んで、すぐ伏せた。

隠した、というより。

大事な夢を、途中で起こされたくない人みたいだった。

俺は、それ以上聞けなかった。

(続く)

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

「8月15日17:21」は、悠真にとって“絶対に忘れられない現実”のはずでした。なのに、その時刻と記憶が噛み合ってしまう——。

次話では、写真の出どころと「yui_」の正体に、現実側から近づいていきます。

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