第1話 記録にない夏の手触り
――32歳、映像編集の下請け。
枕元の光から始まったのは、なかったはずの“夏の記憶”でした。
深夜、ふと目が覚めた。枕元で淡い青白い光が揺れている。Kindleだ。俺の顔を柔らかく照らすその光は、まるで部屋の薄暗い隅々までを優しく撫でるようだった。時計の針は午前2時17分を指している。
部屋には、朝淹れたブラックコーヒーの苦い残り香がまだかすかに漂っていて、鼻腔をくすぐる。仕事の疲れでベッドに倒れ込むように眠りについたはずなのに、たった3時間で目が覚めてしまった。いつものパターンだ。
黒川悠真、32歳。映像編集の下請けで、日々他人の記録を整理し、切り貼りして「物語」に仕立てる仕事をしている。
俺自身はというと、そんな華々しい人生とは程遠い。学生時代はクラスの中で空気より軽い存在だった。文化祭のカメラマンなんて役回りを引き受けたのも、ただ目立たないための隠れ蓑だっただけだ。
Kindleの画面に目をやる。恋愛漫画『君と夏の約束』の最終ページが表示されている。由比ヶ浜の砂浜を舞台にした、クライマックスのシーンだ。
主人公の青年がヒロインの手をそっと握り、波打ち際で顔を近づける。波の音が静かに寄せては返し、夕陽が海面をオレンジ色に染めている。彼女の浴衣の裾が潮風に軽く揺れ、黒髪が肩に流れ落ちる様子が、息を呑むほど美しい。
その瞬間、俺の胸に奇妙な疼きが走った。波の音が耳元で響き、熱く乾いた砂の感触が足裏に食い込むような気がした。彼女の指先の柔らかさ、わずかな緊張が伝わる手のひらの湿り気。
……なんだ、これは?
俺は慌てて上半身を起こし、首を振った。夢だ。寝ぼけているに違いない。深呼吸を一つして、冷静になろうとする。
でも、心臓の鼓動が速い。まるで、あのシーンを本当に経験したかのように。
試しに目を閉じてみる。
すると、鮮明に浮かび上がってくる。由比ヶ浜の熱い砂浜を、俺は彼女と並んで歩いていた。花火の赤い光が夜空を裂き、爆音とともに散る。
彼女の名前は……結衣。
黒髪のロングヘアで、笑うと八重歯がちらりと覗く、穏やかな笑顔の少女。クラスで一番明るいわけじゃなかったけれど、俺の隣でかき氷を分け合い、シロップの甘酸っぱさが舌に残る。
あの感触、あの匂い、全部が今、ここで蘇る。
「ふざけるなよ……」
独り言が漏れた。俺はKindleをシーツの上に放り投げた。画面がベッドサイドに転がり、由比ヶ浜のイラストが薄暗い部屋の中で、幽霊のようにぼんやりと輝いている。
馬鹿げてる。俺にそんな青春があったはずがない。高校時代なんて、体育館の裏で三脚をいじりながら、他人の楽しげな笑い声を遠くに聞いていただけだ。
彼女なんて、影も形もない。モブキャラの人生を、ただ記録に残すことしかできなかった。
それでも、妙にリアルすぎる。
立ち上がり、デスクの引き出しから外付けHDDを取り出す。俺の悪い癖だ。学生時代からの記録オタクで、何でもかんでも保存してしまう。
卒業アルバムのスキャン写真、クラスLINEのログ、文化祭の動画ファイル。
埃っぽいHDDのフォルダを漁り、高校2年の夏を探す。指先が微かに震えていた。
あった。
由比ヶ浜の写真。夕暮れ時の海が広がり、手前には誰かの後ろ姿が小さく写っている。メタデータは8月15日、土曜日。クラス共有フォルダからこっそりダウンロードしたものだ。
当時、俺は家でエアコン代を節約して扇風機を回し、漫画を読んでいたはずだ。海なんて行った記憶もない。
じゃあ、この影は誰だ?
拡大してみる。後ろ姿のシルエットが、なぜか漫画のヒロインに似ている。結衣……?
いや、クラスにそんな女子はいなかった。隣のクラスの誰かだろう。胸のざわつきが収まらない。
仕事前にスマホを取り出し、Xを開く。俺の匿名アカウントだ。恋愛漫画の感想を呟くだけで、フォロワー5000人を超えている。
今日も『君と夏の約束』のシーンについて、指が自然に動く。
「由比ヶ浜のあのシーン、リアルすぎて胸が痛くなる。手をつなぐ瞬間の緊張感、波の音、潮の匂い……わかる人には、痛いほどわかるよね。」
送信ボタンを押す。
即座に「わかる~!」「それな!」のリプライとハートが飛び交う。いつも通りだ。
でも今日は違う。指先に、あの手の感触が残っている気がして、手が微かに震えた。
オフィスに着き、いつもの席に腰を下ろす。今日の仕事は地方局向けの「青春特集」VTR編集だ。海辺のロケ映像、花火大会の様子、浴衣姿のカップルが並ぶ素材が山のように積まれている。
モニターに由比ヶ浜にそっくりな砂浜が映し出され、ヘッドフォンから波の音が流れ込んでくる。カップルの笑顔がアップになり、夕陽が背景を染める。
カット編集を進めていると、突然手が止まった。
このアングル……俺が立っていた位置だ。
彼女が振り向く瞬間、八重歯の笑顔が浮かぶ。結衣だ。
慌てて素材を巻き戻す。
違う。これはクライアントの新作ロケ映像だ。今日撮られたばかりのもの。俺の記憶じゃない。
なのに、なぜこんなに胸が締め付けられる?
「黒川さん、大丈夫ですか? 顔色悪いですよ。」
隣の席から、同僚の佐藤が心配げに声をかけてきた。新人で、俺より10歳下の明るい奴だ。
「ああ、すまん。ちょっと……既視感が強くてさ。」
俺は曖昧に笑ってみせた。
佐藤は目を輝かせて続ける。
「この青春特集、めっちゃ刺さりますよね。俺も学生時代、花火デートしたことあって。あのドキドキ、忘れられないんですよ。」
花火デート。
その言葉が引き金だった。頭の中に、鮮やかなフラッシュバック。打ち上げの爆音が響き、彼女の肩にそっと触れた感触。暗闇の中で囁いた「好きだよ」。
現実の俺には、そんな経験などないはずだ。
なのに、目頭が熱くなり、視界がぼやけた。
昼休み、トイレの個室に逃げ込む。鏡に映る自分の顔は青白く、目の下にクマができている。
スマホを取り出し、クラスLINEの古いログを開く。あの日の投稿。
「みんなで海行くぞー!」
と誰かが呼びかけていた。俺は既読スルーしただけだ。参加者リストに俺の名前はない。
でも、記憶の中では違う。
結衣が「悠真くんも来なよ」とLINEをくれた。「うん、行くよ」と返した。あのやり取りは、どこに行ったんだ?
帰宅後、ベッドに倒れ込む。手が自然にKindleを探す。続きを読まないと、落ち着かない気がする。
最終巻の花火大会シーン。結衣に似たヒロインが主人公に告白される。ページをめくるたび、新しい記憶が流れ込んでくる。
夏祭りの屋台で浴衣の袖を引く感触、花火の下で交わしたキス。甘く、切ない。
次に目覚めたのは朝。
枕元のKindleが、再び淡い光を放っていた。
また、上書きされた。俺の暗黒だった青春に、鮮やかな色が塗られていく。
夕方、ポストに分厚い封筒が入っていた。開くと、高校の同窓会案内。
10年ぶりの集まりで、来月。由比ヶ浜近くのホテルを会場に、二次会は花火大会だ。
昔の俺なら、迷わずゴミ箱行きだった。でも今は違う。
記憶の中の俺は、あの場所でみんなと騒いでいた。
結衣の隣でビール片手に笑い、波の音をBGMに未来を語った。
あれが本当なら、行かなきゃいけない。
パソコンを開き、返信フォームに名前を入力する。
参加、とクリックした。
(続く)
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
次話から「記録(HDDの事実)」と「記憶(手触りまである嘘)」が、もう少し露骨に噛み合わなくなっていきます。
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